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『こころ日誌・インスペクシオ』#28 佐々木先生、吠える!

『こころ日誌・インスペクシオ』#28 佐々木先生、吠える!

佐々木先生、吠える!

しばらくの沈黙の後、古橋さんがふっと息を吐いた。
「……加納先生。カウンセラーっぽくないですね。非常に熱い方だ」
言葉の意図を測りかねた私が、
「どういうことでしょうか?」
と聞く。
「先生。唐突ですが、『人工妊娠中絶』という行政用語……いえ、医療行為について考えたことはありますか?」
「……え?」
「答えなくて結構です。一つの『事実』としての話です。母親のお腹に宿った胎児は、どの命も生まれてくる権利を持っている。生命の尊厳ですね。ですが、その権利は、『経済的な理由』や『母体の保護』といった、既に生きている大人たちの都合によって、合法的に摘み取られています。少ない年でも10人に1人、多ければ5人に1人が、光を見ることなく処理されている」
まるで用意されている原稿を読み上げるように淡々と話す彼の言葉には淀みがない。
「行政の仕事をしているとね、嫌というほど見るんですよ。『すべての命、すべての権利を守る』なんてことは不可能だという現実を。
社会全体の安全と秩序の維持よりも、個人の権利が優先される社会は立ち行きません。だからこそ、時に『全体を生かすために、個を切り捨てる』という判断が必要になる。それが政治であり、大人の責任です。
……先生の優しさは美しいが、現実の危機管理においては時に障害となります」

......そんな!

「私は!」
突然、隣に座っていた佐々木先生が立ち上がった。その拳は固く握りしめられ、微かに震えている。
「私は、ただの一体育教師です。先生のような高邁なお立場や、社会全体の数字なんてものは分かりません。大学を出てからずっと、グラウンドの砂埃の中で生徒たちと向き合ってきた......」
佐々木先生の太い声が、校長室の重苦しい空気を切り裂いた。
「そんな私から見ると、先生の視点は高すぎます。高いところから全体を見渡して、『ここが腐っているから切り落とそう』『全体の利益のために間引こう』って、そうやって整理整頓すれば、綺麗な社会になるんだろうと理解はできます」

古橋さんは表情を変えず、座ったまま、立った姿勢の佐々木先生の顔を見上げている。

「ですが、我々が見ている視点はもっと低いんです。そこには『10人に1人の割合』なんて数字はありません。飯を食い、クソをして、泣いて笑う、名前を持った生徒たちがいるだけなんです!
目の前で溺れている生徒がいるなら、そいつがどんなに不出来だろうが、他にどんな事情があろうが、手を伸ばしてそいつの手をつかむ。それ以外の選択肢は我々教師にはありません!
効率が悪かろうが、リスクがあろうが、我々は最後の最後まで、生徒を見限ったりはしない!」
佐々木先生の荒い息遣いが響く。
私は、隣で震えるその大きな背中を、呆然と見上げていた。

しかし古橋さんは、眉一つ動かさない。
「これは驚きました。加納先生以上に熱い方がいらっしゃるんですね。教育現場の熱意は素晴らしい」
そう言うと、佐々木先生から視線を外し、橋本先生に向き直った。
「よく分かりました。どうやら議論は平行線のようですね」

なんなの?

この人に何を言っても響かない。暖簾に腕押しなんてもんじゃない。まるで分厚い鉄板に拳で穴をあけようとしているみたい。言えば言うほど......こっちが痛くなる。

「橋本校長。現場の感情論は結構ですが、先生も苦しいお立場だ。もちろんご存じだと思いますが、法の定義では、当該児童生徒が、心身の苦痛を感じているならば、それはいじめとなります。行為の意図や回数は関係ありません。そして、そのいじめにより被害者が不登校になるなどして不利益を被った場合、学校は速やかに教育委員会に報告する義務があります。そこで、いじめ重大事態と認定されれば、第三者委員会の審議にかけられ、調査報告という形で審判を仰ぐことになります。その過程はマスコミにも公表され、学校が加害者に加担したとなると、世間からの批判は免れません」

そんな......ニュースでちょくちょく見るいじめ重大事態。そんな大きなことなの?

「釈迦に説法、失礼しました。組織の長として、責任ある判断を期待しています」

橋本先生は、すっと背筋を伸ばし、古橋さんの目を真正面から見据えて答えた。
「本校は、教育機関としての理念と、法律に則り、粛々と対応してまいります。……誰か一人の恣意的な感情や圧力に、屈することなく」

「よく分かりました。本日はお時間いただきありがとうございました。またお会いすることになると思いますが、そのときはよろしくお願いします。それでは失礼します。あ、見送りは結構ですよ。廊下は寒いでしょうから」

そう言うとさっと立ち上がり、横に置いていたコートに袖を通し、校長室の廊下側のドアに向けて歩き出した。

「いえ、そういうわけには参りません。玄関まで送らせていただきます」
橋本先生が後を追う。
私と佐々木先生は、その場で校長室から出て行く二人を見送っていた。
佐々木先生はどうか分からない。
少なくとも私は......動けなかった。

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