『こころ日誌・リライト』②
こころ日誌
親子の共鳴
3月に入った。冬の寒さが和らいできてはいるものの、まだ春の訪れを感じるには至っていない。いつものように薪ストーブを焚き部屋を暖めながら、PCを起動させる。すると、「ピロ~ン」という着信音を伴ってメーラーのアイコンに新着メールを知らせる数字が表示される。私は、新規の相談申し込みが入っていないかと期待しつつ、そのアイコンをダブルクリックし、メーラーを起動する。しかし、入っているのはLINE広告、以前お世話になった看板会社からの広告、ホームページの実績サマリーの三つだ。私の気持ちを上げてくれるようなメールは残念ながら見当たらなかった。しかし一方で予約のキャンセルメールもない。今日は13時に坂部家の予約が入っている。思えば1月に会ってから丸一か月以上かほりに会えていない。もうすぐ昼になるが今日はまだ母親からもメールは入っていない。ということは、かほりが来てくれるのだろうか。そんなことを考えながら記録にさっと目を通す。
やがてインターホンが鳴り、対応ボタンを押すと、母親の「坂部です〜」という変わらずハスキーな声が部屋に響いた。
―――――――――――――――――――――――――――――――
20XX+1年3月3日 かほり#7 母親#4
私が相談室の入り口の扉の前で待っていると、「失礼しま~す」という明るい声とともに扉が開く。最初に現れたのは母親だった。いつものように薄いメイクでキャリアウーマンを思わせるきちんとした身なりである。「こんにちは。どうぞ」私も意識して優しい声で迎え入れる。そしてその後ろから、これも初回に会ったときとあまり変わらない上トレーナーで下デニム、髪を後ろで一つに結んでマスクをしたかほりが顔を出す。いや、初めて会った時より幾分髪が伸びただろうか。
「かほりちゃん、よく来てくれたねぇ」と声をかける。私は歓迎の意を伝えるために、いつものようにクッキーとお茶のセットを二つ用意し、それぞれの座る椅子の前に置いた。
「こんにちは。かほりちゃん、ちょっと久しぶりだね。」
かほりは少し照れているのだろうか。目元を緩ませ小さく頷く。そして私としては少しびっくりしたのだが、そのまま頭を傾け、隣に座る母の肩にもたれかけさせたのだ。それは母親に甘えている姿勢でもあるし、照れを隠すために母親の後ろに隠れようとする姿勢でもある。
「ほら、ちゃんとしなさい」と母親がかほりに声をかけるが、そのトーンには以前のような攻撃的な響きを感じない。私はその変化に内心嬉しく思い母親にも声をかける。
「そして、お母さんも。今日は初回以来、3人でセッションを進めていきましょう」と私の方から誘いかけた。母親も「お願いします」と応じる。
「かほりちゃん、1月以来だから、一か月半ぶりくらいなんだけど、前にどんなことしたか覚えてる?」と話を振る。
前回はかほりが初めて感情を昂らせて、両親のケンカの場面を話してくれた回だ。そのことを思い出してかどうかは分からない。かほりは首を傾げた。
私は続けた。
「いいよいいよ。まずはいつものように呼吸を合わせてグラウンディングしていきましょう」
そう伝えて、ワークに入っていく。
グラウンディングを進める中で「かほりちゃんは今とっても安全なところにいるよ。僕がいるし、お母さんもいてくれる」と伝え、かほりが安全を体感してもらえるように声掛けをする。
地に足がついている感覚を研ぎ澄まし、体の重さを感じていく。
「お母さん、今日はせっかく来ていただいていますので、かほりちゃんの肩に手を置いてあげてほしいんです。かほりちゃん、いいかな?」
かほりは小さな声だが「はい」と言って頷く。
それまでは隣で様子を見ていた母親だったが、急に私に声をかけられて不意を突かれたのかもしれない。今日の主役はかほりであり、自分は付き添いという感覚だったのだろう。一瞬反応が遅れた。が、促されると抵抗なく隣に座るかほりの肩に手を置いた。
「今、かほりちゃんの肩にお母さんの手が乗っています。その存在を感じていきましょう。ゆったりとした気持ちで、かほりちゃんの肩に置かれたお母さんの手の重さを感じていきましょう。温度を感じていきましょう」と促す。かほりは目を閉じて私の促しを聴いている。表面上観察できる反応はないが、私は構わずに続けた。
「さぁ、今お母さんも、かほりちゃんの肩に置いた手を通して、かほりちゃんの呼吸を感じていきましょう。心拍を感じていきましょう。かほりちゃんの命を感じていきましょう」母親はかほりに比べると反応が分かりやすい。真剣な表情でかほりの肩に置かれた自らの手に意識を集中させているのが見て取れた。
「かほりちゃんの肩、お母さんの手が今二人を結んでいます。そのつながりからお互いのことを感じられるだけ感じましょう。感じられるだけ感じて......伝えられるだけ伝えましょう。そして、お互いの気持ちを合わせていきましょう。同調していきましょう。今かほりちゃんもお母さんも、とっても安全な中で、しっかりと気持ちを合わせる体験をしています。穏やかな気持ちでお互いの優しさを交換していきましょう」
私はこの技法をリゾネイティングと呼んでいる。「共鳴」という意味だ。母子の身体接触により安心感を提供し、幸福ホルモンであるオキシトシンの分泌を促進する。その上で非言語による身体感覚と感情の共鳴を目指す。つまり、母子がお互いの心を通わせるのを助けるワークだ。この回は時間いっぱいをリゾネイティングに費やした。
まとめ
母子での来談。グラウンディング後、リゾネイティング
アセスメント
・母親の様子が本当に和らいだ。
・かほりの緊張も以前に比べてかなりほぐれいてる。
・母子の間で互いに感じていた圧や緊張もかなり低減された。
方針
・向こう数回はリゾネイティングを継続する。
・そろそろ今後のかほりの現実的な適応についても考えていく必要がある。
「現実的な適応......」パソコンで打ち込んだ後に、自分でも声に出した。
そう。かほりはもうすぐ3年生になる。
やがてインターホンが鳴り、対応ボタンを押すと、母親の「坂部です〜」という変わらずハスキーな声が部屋に響いた。
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20XX+1年3月3日 かほり#7 母親#4
私が相談室の入り口の扉の前で待っていると、「失礼しま~す」という明るい声とともに扉が開く。最初に現れたのは母親だった。いつものように薄いメイクでキャリアウーマンを思わせるきちんとした身なりである。「こんにちは。どうぞ」私も意識して優しい声で迎え入れる。そしてその後ろから、これも初回に会ったときとあまり変わらない上トレーナーで下デニム、髪を後ろで一つに結んでマスクをしたかほりが顔を出す。いや、初めて会った時より幾分髪が伸びただろうか。
「かほりちゃん、よく来てくれたねぇ」と声をかける。私は歓迎の意を伝えるために、いつものようにクッキーとお茶のセットを二つ用意し、それぞれの座る椅子の前に置いた。
「こんにちは。かほりちゃん、ちょっと久しぶりだね。」
かほりは少し照れているのだろうか。目元を緩ませ小さく頷く。そして私としては少しびっくりしたのだが、そのまま頭を傾け、隣に座る母の肩にもたれかけさせたのだ。それは母親に甘えている姿勢でもあるし、照れを隠すために母親の後ろに隠れようとする姿勢でもある。
「ほら、ちゃんとしなさい」と母親がかほりに声をかけるが、そのトーンには以前のような攻撃的な響きを感じない。私はその変化に内心嬉しく思い母親にも声をかける。
「そして、お母さんも。今日は初回以来、3人でセッションを進めていきましょう」と私の方から誘いかけた。母親も「お願いします」と応じる。
「かほりちゃん、1月以来だから、一か月半ぶりくらいなんだけど、前にどんなことしたか覚えてる?」と話を振る。
前回はかほりが初めて感情を昂らせて、両親のケンカの場面を話してくれた回だ。そのことを思い出してかどうかは分からない。かほりは首を傾げた。
私は続けた。
「いいよいいよ。まずはいつものように呼吸を合わせてグラウンディングしていきましょう」
そう伝えて、ワークに入っていく。
グラウンディングを進める中で「かほりちゃんは今とっても安全なところにいるよ。僕がいるし、お母さんもいてくれる」と伝え、かほりが安全を体感してもらえるように声掛けをする。
地に足がついている感覚を研ぎ澄まし、体の重さを感じていく。
「お母さん、今日はせっかく来ていただいていますので、かほりちゃんの肩に手を置いてあげてほしいんです。かほりちゃん、いいかな?」
かほりは小さな声だが「はい」と言って頷く。
それまでは隣で様子を見ていた母親だったが、急に私に声をかけられて不意を突かれたのかもしれない。今日の主役はかほりであり、自分は付き添いという感覚だったのだろう。一瞬反応が遅れた。が、促されると抵抗なく隣に座るかほりの肩に手を置いた。
「今、かほりちゃんの肩にお母さんの手が乗っています。その存在を感じていきましょう。ゆったりとした気持ちで、かほりちゃんの肩に置かれたお母さんの手の重さを感じていきましょう。温度を感じていきましょう」と促す。かほりは目を閉じて私の促しを聴いている。表面上観察できる反応はないが、私は構わずに続けた。
「さぁ、今お母さんも、かほりちゃんの肩に置いた手を通して、かほりちゃんの呼吸を感じていきましょう。心拍を感じていきましょう。かほりちゃんの命を感じていきましょう」母親はかほりに比べると反応が分かりやすい。真剣な表情でかほりの肩に置かれた自らの手に意識を集中させているのが見て取れた。
「かほりちゃんの肩、お母さんの手が今二人を結んでいます。そのつながりからお互いのことを感じられるだけ感じましょう。感じられるだけ感じて......伝えられるだけ伝えましょう。そして、お互いの気持ちを合わせていきましょう。同調していきましょう。今かほりちゃんもお母さんも、とっても安全な中で、しっかりと気持ちを合わせる体験をしています。穏やかな気持ちでお互いの優しさを交換していきましょう」
私はこの技法をリゾネイティングと呼んでいる。「共鳴」という意味だ。母子の身体接触により安心感を提供し、幸福ホルモンであるオキシトシンの分泌を促進する。その上で非言語による身体感覚と感情の共鳴を目指す。つまり、母子がお互いの心を通わせるのを助けるワークだ。この回は時間いっぱいをリゾネイティングに費やした。
まとめ
母子での来談。グラウンディング後、リゾネイティング
アセスメント
・母親の様子が本当に和らいだ。
・かほりの緊張も以前に比べてかなりほぐれいてる。
・母子の間で互いに感じていた圧や緊張もかなり低減された。
方針
・向こう数回はリゾネイティングを継続する。
・そろそろ今後のかほりの現実的な適応についても考えていく必要がある。
「現実的な適応......」パソコンで打ち込んだ後に、自分でも声に出した。
そう。かほりはもうすぐ3年生になる。
カウンセラーの憂鬱
ここ一週間くらいで一気に気温が上がり始めた。
「もう今シーズンの出番は終わりだな」
冬の間相談室を温めてくれた薪ストーブの出番が終わったことを感じ、私はしみじみとした気持ちになる。
新年度を迎え、社会が新しい動きを始めていることを様々なところで感じる。4月は芽吹きの季節だ。冬の間地面の下で身を潜めていた植物が一気に地上に咲き乱れる。その様子にエネルギーを感じるのは、地球上の生物としての本能かもしれない。私は普段あまりテレビを見ることがないのだが、その日、たまたまテレビをつけると、知らないニュースキャスターが、全国各地で入学式が行われたというニュースを伝えていた。私が子どものころは入学式と言えば桜舞い散る景色を思い浮かべたものだが、最近は4月を迎えるころには、葉桜になっていることも珍しくない。温暖化の影響を実感する。
学校関連のニュースを見て、私はふとを思い出した。
―――ちゃんと行けたんだろうか......
「4月から学校に行きます」
3月31日の面接のとき、かほりは相変わらず小さいながらも自分の声でそう言っていた。
その決意を聞くと、私も嬉しく思うが、実際には直前になって「やっぱり無理」となるケースは多い。
かほりの心に刺さった刃物の傷を直接的に扱ったわけではない。もちろん母親の傷を癒すことで、子どもが母親に甘えられるようになり、直接的にトラウマケアしなくても立ち直るケースはある。
その意味では、母親の協力を得て、自己治癒力も高まってきていることは期待できる。
とは言うものの、元気いっぱい学校で過ごせるまでに回復しているとは思えないというのが私の見立てだ。
回復には時間がかかる。無理はさせたくないが、どうなんだろう?
4月に入りこれまで月曜日の13時に毎回予約していた坂部家のカウンセリングを木曜日の17時に変更した。
時間の変更はかほりが登校している時間を避けるためだ。曜日の変更は17時の相談枠を安定して取れるのは木曜日という私のケースの都合だ。母親も木曜日に休めるようにシフトを調整してくれた。
4月の初回は10日だった。かほりは学校の制服に身を包んで来談した。今時近隣の学校ではブレザーが多くなっているが、かほりの学校はまだセーラー服らしい。まだ数日ではあるが、確かにそれまでに比べて声にも張りが出てきており、相変わらずマスクをしているものの、表情も豊かに感じた。新しいクラスで小学校の頃に仲の良かった子と一緒になれたこと、担任の先生が優しそうな女性だったことなど話してくれた。
次の24日には修学旅行の班決めがあり、ちゃんと班に入れたことを報告してくれる。声も明るく、来談当初では想像もつかないほど話してくれるようになった。よほど学校でちゃんとやれている自分が嬉しいようだ。語る時間が増えており、それと反比例して自律神経系のトレーニングの時間が少なくなる。特にこの回はリゾネイティングもなく終了し、母親は隣に座ってかほりの話を一緒に聞いてはいるが、特に参加してもらうこともなく終わった。
まだ学校に行き始めて2回だが、様子を見ていると、私の心配は杞憂だったのだろうかとも思う。
それならそれでいい。
それに、同席している母親はこの時間をどう体験したのだろうか。この感じなら自分はもう同席しなくてもいいと思ったかもしれないし、もっと言えば、もう不登校は克服されており、来談当初の主訴は解消されている。カウンセリングに来るのもそろそろ卒業してもいいのではと感じているのかもしれない。
しかし気になるところもある。面接中にお腹が緩くなると言ってかほりがトイレに立った場面が見られた。やはりストレスはかかっているのだろう。
私はコーヒーを飲みながら、記録を書き終わったパソコンの画面を見つめている。いや、見つめているというよりも、記録を書いたまま惰性でそこに座っていると言った方が正確だ。頭の中では昔話を思い出していた。
「ケースによっては、一生支えていく覚悟で付き合っていかなくちゃいけないと思うんです」
私の友人が熱弁している。
それに対して別の友人が、こちらも力を込めて言った。
「それって相手を自分に依存させてるだけじゃないですか?カウンセリングって、クライアントが自立できるよう、ちゃんとゴールを設定すべきだと思います」
学生時代、ケース会議では皆が教員の前で、気の利いた発言をしたがった。しかし、この時、二人の熱い議論に私は口をはさむことができず、ただ聞いているしかできなかった。もう20年以上前の話だ。
私はそれから様々なケースを受け持ち、中断も終結もたくさん経験した。しかし、まだそのときの議論の答えに行きついていない。更に言うなら、当時よりもさらに分からなくなっている。
カウンセリングとはある種終わりのない作業だ。クライアントの心理的な苦痛が軽減されるように援助するのが我々臨床心理士の仕事だ。しかし、どのくらい苦痛が癒されたらゴールとするのかという点において、共通認識を持つのは難しい。
私は自問する。
「苦痛が癒されて、クライアントが我々のところに来なくても生きていけるようになったら?」
では、自立とは何だろうか。人は何かにすがって生きていく生き物だ。生きている限り苦痛は消えはしないし、誰も完全な自立などできはしない。カウンセラーに頼る代わりに、別の物に頼るようになったら終わるのだとすると、最初からその別の物でいいのではないか。しかしその依存先が薬物だったとしたら?モラハラをしてくるパートナーに頼るようになったとしたら?
結局のところ答えなどありはしない。クライアントがカウンセリングに来るのはもう止めようと思ったとき。それがカウンセリングの終結なのかもしれない。カウンセラーの側がまだ問題は解消していないと思っていたとしても。
「もう今シーズンの出番は終わりだな」
冬の間相談室を温めてくれた薪ストーブの出番が終わったことを感じ、私はしみじみとした気持ちになる。
新年度を迎え、社会が新しい動きを始めていることを様々なところで感じる。4月は芽吹きの季節だ。冬の間地面の下で身を潜めていた植物が一気に地上に咲き乱れる。その様子にエネルギーを感じるのは、地球上の生物としての本能かもしれない。私は普段あまりテレビを見ることがないのだが、その日、たまたまテレビをつけると、知らないニュースキャスターが、全国各地で入学式が行われたというニュースを伝えていた。私が子どものころは入学式と言えば桜舞い散る景色を思い浮かべたものだが、最近は4月を迎えるころには、葉桜になっていることも珍しくない。温暖化の影響を実感する。
学校関連のニュースを見て、私はふとを思い出した。
―――ちゃんと行けたんだろうか......
「4月から学校に行きます」
3月31日の面接のとき、かほりは相変わらず小さいながらも自分の声でそう言っていた。
その決意を聞くと、私も嬉しく思うが、実際には直前になって「やっぱり無理」となるケースは多い。
かほりの心に刺さった刃物の傷を直接的に扱ったわけではない。もちろん母親の傷を癒すことで、子どもが母親に甘えられるようになり、直接的にトラウマケアしなくても立ち直るケースはある。
その意味では、母親の協力を得て、自己治癒力も高まってきていることは期待できる。
とは言うものの、元気いっぱい学校で過ごせるまでに回復しているとは思えないというのが私の見立てだ。
回復には時間がかかる。無理はさせたくないが、どうなんだろう?
4月に入りこれまで月曜日の13時に毎回予約していた坂部家のカウンセリングを木曜日の17時に変更した。
時間の変更はかほりが登校している時間を避けるためだ。曜日の変更は17時の相談枠を安定して取れるのは木曜日という私のケースの都合だ。母親も木曜日に休めるようにシフトを調整してくれた。
4月の初回は10日だった。かほりは学校の制服に身を包んで来談した。今時近隣の学校ではブレザーが多くなっているが、かほりの学校はまだセーラー服らしい。まだ数日ではあるが、確かにそれまでに比べて声にも張りが出てきており、相変わらずマスクをしているものの、表情も豊かに感じた。新しいクラスで小学校の頃に仲の良かった子と一緒になれたこと、担任の先生が優しそうな女性だったことなど話してくれた。
次の24日には修学旅行の班決めがあり、ちゃんと班に入れたことを報告してくれる。声も明るく、来談当初では想像もつかないほど話してくれるようになった。よほど学校でちゃんとやれている自分が嬉しいようだ。語る時間が増えており、それと反比例して自律神経系のトレーニングの時間が少なくなる。特にこの回はリゾネイティングもなく終了し、母親は隣に座ってかほりの話を一緒に聞いてはいるが、特に参加してもらうこともなく終わった。
まだ学校に行き始めて2回だが、様子を見ていると、私の心配は杞憂だったのだろうかとも思う。
それならそれでいい。
それに、同席している母親はこの時間をどう体験したのだろうか。この感じなら自分はもう同席しなくてもいいと思ったかもしれないし、もっと言えば、もう不登校は克服されており、来談当初の主訴は解消されている。カウンセリングに来るのもそろそろ卒業してもいいのではと感じているのかもしれない。
しかし気になるところもある。面接中にお腹が緩くなると言ってかほりがトイレに立った場面が見られた。やはりストレスはかかっているのだろう。
私はコーヒーを飲みながら、記録を書き終わったパソコンの画面を見つめている。いや、見つめているというよりも、記録を書いたまま惰性でそこに座っていると言った方が正確だ。頭の中では昔話を思い出していた。
「ケースによっては、一生支えていく覚悟で付き合っていかなくちゃいけないと思うんです」
私の友人が熱弁している。
それに対して別の友人が、こちらも力を込めて言った。
「それって相手を自分に依存させてるだけじゃないですか?カウンセリングって、クライアントが自立できるよう、ちゃんとゴールを設定すべきだと思います」
学生時代、ケース会議では皆が教員の前で、気の利いた発言をしたがった。しかし、この時、二人の熱い議論に私は口をはさむことができず、ただ聞いているしかできなかった。もう20年以上前の話だ。
私はそれから様々なケースを受け持ち、中断も終結もたくさん経験した。しかし、まだそのときの議論の答えに行きついていない。更に言うなら、当時よりもさらに分からなくなっている。
カウンセリングとはある種終わりのない作業だ。クライアントの心理的な苦痛が軽減されるように援助するのが我々臨床心理士の仕事だ。しかし、どのくらい苦痛が癒されたらゴールとするのかという点において、共通認識を持つのは難しい。
私は自問する。
「苦痛が癒されて、クライアントが我々のところに来なくても生きていけるようになったら?」
では、自立とは何だろうか。人は何かにすがって生きていく生き物だ。生きている限り苦痛は消えはしないし、誰も完全な自立などできはしない。カウンセラーに頼る代わりに、別の物に頼るようになったら終わるのだとすると、最初からその別の物でいいのではないか。しかしその依存先が薬物だったとしたら?モラハラをしてくるパートナーに頼るようになったとしたら?
結局のところ答えなどありはしない。クライアントがカウンセリングに来るのはもう止めようと思ったとき。それがカウンセリングの終結なのかもしれない。カウンセラーの側がまだ問題は解消していないと思っていたとしても。
膠着
20XX+1年5月8日 かほり#10 母親#7
前回の来談から2週間経ったが、間にゴールデンウイークを挟んでいたため学校について話すことはそう多くないだろう。もしかほりから積極的に話題が出てこないようならリゾネイティングに十分に時間を使おう。そう考えつつ二人を迎え入れた。
「こんにちは」
私はいつものように務めて穏やかな口調で挨拶をする。
しかし、二人の間には明らかに緊張した空気を感じる。
かほりが先に口を開いた。
「トイレ行っていいですか?」
私は拍子抜けした。この緊張感はトイレに行きたかったから?そういえば前回も途中でトイレに中座したことが思い出される。
「あ、どうぞどうぞ」
私はトイレの入り口を手で指し示してかほりを誘導した。それに従い、かほりは相談室から扉の向こうへ消えていった。
「あ、お母さん、どうぞ」
と言って椅子に座るように促し、準備してあった茶菓子を二人分いつものように相談机に並べる。
私も相対した椅子に腰を下ろし、
「一気に暑くなりましたね」
と雑談から入った。
ところが母親は少し苛立ったような表情にも見える。
「実は、かほり、今日学校を早退してきたんです。一番最初のときと同じです。体育の授業中にうずくまっちゃって。今日はここに来る日だったので、私も元々仕事は休みにしてましたから学校から電話がかかってきてすぐに迎えに行けたんですが。急に暑くなったから体がついていかないのかもしれないですが、どうしてもまた行けなくなるんじゃないかって心配で」
―――あらぁ…、やっぱりか。
私も、内心、少なからずがっかりした気持ちを感じてしまう。
分かっていた。何度もそういうケースを見てきた。しかしやはり、回復に向かっていた子がまた行けなくなる場面に直面すると、期待を挫かれたことを残念に思ってしまう。
「あら、そうだったんですね」
私はそんな内面は出さないように、務めて冷静に反応を返した。
「4月に入って急激に頑張ってきましたからね。疲れが出ちゃったかもしれないですね」
「それで、帰ってきてからもお腹壊したのか、ずっとトイレに籠ってるんです。ずっとですよ。お腹痛いって言って。今日はここに来れないかと思いました。でも、出る時間ギリギリになって本人『行く』って。で、ようやくここにたどり着いたんですけど、またトイレ行っちゃいましたね」
やはり母親の口調からはいい加減にしてほしいという気持ちが滲み出ている。
「お腹ってストレス一番出やすいですからね」
私の返答も何か言い訳めいた感じになるが、それが母親の怒りの種火に風を送ってしまった。
「去年からここに通って、私も頑張ってきて、もう大丈夫かと思っていた矢先にこんなことになると、今までやってきたことが間違ってたんじゃないかと心配になります」
母親は問いかけるような目で私を見つめる。
私はとっさに目を手元の記録用紙に落としてしまう。
母親の今の様子について、かほりが早退してきたという事実に、不登校当初のころの気持ちがフラッシュバックし、不安が喚起されているなどと体のいい解釈が頭に浮かぶ。
本来受け止めなくてはいけない母親の攻撃が自分に向けられつつあるということから必死に目をそらそうとする自分を感じる。
「心配ですね。トイレから出てこれるかな」
と言って、私はかほりが消えていったトイレの扉に目をやった。
しばしの沈黙が流れる。
カウンセリングの中で起こる沈黙にはいろいろなタイプのものがあるが、このときは明らかに膠着してしまっていた。私はかほりが扉から出てきてこの沈黙を破ってくれることを期待していた。
「ジャーッ、ゴボゴボ」
扉の向こうで水洗便器の流れる音が聞こえた。
果たして扉が開く。
入ってきたかほりは顔が青白く、ふらついているようにも見える。
「大丈夫?調子悪そうだよ」
と声かけると、
「お腹痛くて」
と細い返事が返ってくきた。
「そうだったんだね。しんどい中来てくれたんだね。でも無理しないでね」
とかほりを労った。
かほりはそれには返事をせず椅子に座った。
「学校早退しちゃったんだって?」
私が問いかけると、かほりが自分で答えてくれた。
「今日朝からお腹痛かったんですけど、4時間目の途中で無理ってなって」
「そうだったんだね。4月から頑張ってきたもんね。ちょっと疲れが出ちゃったかな」
と先ほど母親にかけたのと同じフレーズを伝える。
「いえ、疲れてるわけじゃなくてお腹痛いだけです」とかほり。
私はかほりと母親の両方を見て、
「そっかぁ。ちょっとあんまり痛いようですので病院行ってみるのもありかもしれないですよ」と伝えた。
母親はやや不意を突かれたような表情をする。
本来、どこか体が不調な時とき、病院という選択肢がカウンセリングよりも先に来るのが当たり前なのだろうが、このとき母親は心の不調によるものという先入観からかそれは頭から抜けていたのかもしれない。
言われてなるほどと思ったのか「そうですね。連れて行ってみます」とすんなり私の提案を受け入れた。
「後、もし今日みたいなことが続くようならですが、ちょっと学校全部参加するっていうのを抑えた方がいいのかもしれません」
私の言葉に二人は身構える。やっと行けるようになった学校生活を簡単に諦めるつもりはないということだろう。
私もそれは察知した上で、かほりの方を向いて伝える。
「学校生活ってすごくエネルギー使うからさ。かほりちゃん、やっぱりまだ心のエネルギータンクの残量が少ないんじゃないかと思うんだよね」
かほりも母親も表面上無反応に聞いている。
「でも、大丈夫。今までここでしてきたグラウンディングやリゾネイティングのワーク覚えてるでしょ?あれ、実はトータルの目的はタンクの残量を回復して更には容量を増やすためのワークなの。まだ少ないって言ったけど、ちゃんと増やしていくことができるからね」
そう伝えた後、私は母親も交えて三人で呼吸を合わせるワークから入ることを提案した。ここまでのやり取りで私と母親とかほりの自律神経の状態がかなりズレていることを自覚していたからだ。自律神経の波長が合わないカウンセリングはまず間違いなく上手くいかない。
3人で椅子を三角形に配置し、最初に私が呼吸に合わせて手を上下し、残りの二人はそれに合わせる。次にかほりが主導、その次に母親という形で1分間隔交替し、3ローテーションする。
終わるころには大分空気が落ち着いてくるのを実感できる。
こうしてその後のグラウンディングとリゾネイティングにつなげてこの回は終了の時間を迎えた。
終わり際に「お腹どう?」と聞くと、「大分マシになりました」と答えたかほりであったが、やはりその声からは硬さを感じた。
二人を送り出し、手を付けられなかった茶菓子を片付けた後、記録のためにパソコンに向かう私の気持ちは重かった。
「今日はダメダメだった」というのが正直な感想だ。かほりが学校に行けなくなることもある程度想定していた。しかしそれでも期待していた自分は目先の行動に視界を奪われていたのだ。残念と思ってしまったからこそ、母親と一緒に揺れてしまった。
「母親と一緒に揺れて何が悪い。カウンセラーがクライアントに共感するのは当たり前だ」そう言う同業者の人もいるだろう。しかし私が完全に中立の視点をもって母親の話を聴いてそこに共感するのと、母親に同一化してしまうことには大きな違いがある。私が母親の気持ちを理解して共感したのではなく、私の気持ちが母親の気持ちになってしまっていたのだ。そうなると私の視点も母親の視点になってしまう。思えば、このセッションが始まる前、学校復帰という結果を自分は無意識に求めてしまっていた。カウンセラーの仕事はクライアントの心を回復させることで、結果はクライアント次第であることを解っていたはずなのに。
アセスメント
・かほりにIBS(過敏性腸症候群)の気あり
・母親はショックを受けており、カウンセリングに対しても若干不信感をもったかもしれない。
・ただ、その後のワークにより互いの共鳴を促せたのは良かった。
方針
・今後のかほりの登校状況次第では部分登校を促していく。
過敏性腸症候群とは起立性調節障害と並び不登校の子によくつけられる診断名の一つだ。今回のかほりのようにストレス下でトイレから出て来られなくなるのがその典型例だ。
それにしても症状の出方が気になる。
母親との心の接触を意識したワークをしてきて、心にエネルギーを溜められるようにしてきたのに。なんで、今になってこんな反応を?
一つ考えられることは、かほりの抱えているトラウマが母子関係の改善で解決できるようなものではないという可能性。もっと直接的に扱わないといけない可能性。
それを明らかにし、本格的な介入をするとなると......やはり扱わないわけにはいかない。私が今まで見ようとしてこなかった問題を。しかし......その準備が整わないとどうしようもない。
前回の来談から2週間経ったが、間にゴールデンウイークを挟んでいたため学校について話すことはそう多くないだろう。もしかほりから積極的に話題が出てこないようならリゾネイティングに十分に時間を使おう。そう考えつつ二人を迎え入れた。
「こんにちは」
私はいつものように務めて穏やかな口調で挨拶をする。
しかし、二人の間には明らかに緊張した空気を感じる。
かほりが先に口を開いた。
「トイレ行っていいですか?」
私は拍子抜けした。この緊張感はトイレに行きたかったから?そういえば前回も途中でトイレに中座したことが思い出される。
「あ、どうぞどうぞ」
私はトイレの入り口を手で指し示してかほりを誘導した。それに従い、かほりは相談室から扉の向こうへ消えていった。
「あ、お母さん、どうぞ」
と言って椅子に座るように促し、準備してあった茶菓子を二人分いつものように相談机に並べる。
私も相対した椅子に腰を下ろし、
「一気に暑くなりましたね」
と雑談から入った。
ところが母親は少し苛立ったような表情にも見える。
「実は、かほり、今日学校を早退してきたんです。一番最初のときと同じです。体育の授業中にうずくまっちゃって。今日はここに来る日だったので、私も元々仕事は休みにしてましたから学校から電話がかかってきてすぐに迎えに行けたんですが。急に暑くなったから体がついていかないのかもしれないですが、どうしてもまた行けなくなるんじゃないかって心配で」
―――あらぁ…、やっぱりか。
私も、内心、少なからずがっかりした気持ちを感じてしまう。
分かっていた。何度もそういうケースを見てきた。しかしやはり、回復に向かっていた子がまた行けなくなる場面に直面すると、期待を挫かれたことを残念に思ってしまう。
「あら、そうだったんですね」
私はそんな内面は出さないように、務めて冷静に反応を返した。
「4月に入って急激に頑張ってきましたからね。疲れが出ちゃったかもしれないですね」
「それで、帰ってきてからもお腹壊したのか、ずっとトイレに籠ってるんです。ずっとですよ。お腹痛いって言って。今日はここに来れないかと思いました。でも、出る時間ギリギリになって本人『行く』って。で、ようやくここにたどり着いたんですけど、またトイレ行っちゃいましたね」
やはり母親の口調からはいい加減にしてほしいという気持ちが滲み出ている。
「お腹ってストレス一番出やすいですからね」
私の返答も何か言い訳めいた感じになるが、それが母親の怒りの種火に風を送ってしまった。
「去年からここに通って、私も頑張ってきて、もう大丈夫かと思っていた矢先にこんなことになると、今までやってきたことが間違ってたんじゃないかと心配になります」
母親は問いかけるような目で私を見つめる。
私はとっさに目を手元の記録用紙に落としてしまう。
母親の今の様子について、かほりが早退してきたという事実に、不登校当初のころの気持ちがフラッシュバックし、不安が喚起されているなどと体のいい解釈が頭に浮かぶ。
本来受け止めなくてはいけない母親の攻撃が自分に向けられつつあるということから必死に目をそらそうとする自分を感じる。
「心配ですね。トイレから出てこれるかな」
と言って、私はかほりが消えていったトイレの扉に目をやった。
しばしの沈黙が流れる。
カウンセリングの中で起こる沈黙にはいろいろなタイプのものがあるが、このときは明らかに膠着してしまっていた。私はかほりが扉から出てきてこの沈黙を破ってくれることを期待していた。
「ジャーッ、ゴボゴボ」
扉の向こうで水洗便器の流れる音が聞こえた。
果たして扉が開く。
入ってきたかほりは顔が青白く、ふらついているようにも見える。
「大丈夫?調子悪そうだよ」
と声かけると、
「お腹痛くて」
と細い返事が返ってくきた。
「そうだったんだね。しんどい中来てくれたんだね。でも無理しないでね」
とかほりを労った。
かほりはそれには返事をせず椅子に座った。
「学校早退しちゃったんだって?」
私が問いかけると、かほりが自分で答えてくれた。
「今日朝からお腹痛かったんですけど、4時間目の途中で無理ってなって」
「そうだったんだね。4月から頑張ってきたもんね。ちょっと疲れが出ちゃったかな」
と先ほど母親にかけたのと同じフレーズを伝える。
「いえ、疲れてるわけじゃなくてお腹痛いだけです」とかほり。
私はかほりと母親の両方を見て、
「そっかぁ。ちょっとあんまり痛いようですので病院行ってみるのもありかもしれないですよ」と伝えた。
母親はやや不意を突かれたような表情をする。
本来、どこか体が不調な時とき、病院という選択肢がカウンセリングよりも先に来るのが当たり前なのだろうが、このとき母親は心の不調によるものという先入観からかそれは頭から抜けていたのかもしれない。
言われてなるほどと思ったのか「そうですね。連れて行ってみます」とすんなり私の提案を受け入れた。
「後、もし今日みたいなことが続くようならですが、ちょっと学校全部参加するっていうのを抑えた方がいいのかもしれません」
私の言葉に二人は身構える。やっと行けるようになった学校生活を簡単に諦めるつもりはないということだろう。
私もそれは察知した上で、かほりの方を向いて伝える。
「学校生活ってすごくエネルギー使うからさ。かほりちゃん、やっぱりまだ心のエネルギータンクの残量が少ないんじゃないかと思うんだよね」
かほりも母親も表面上無反応に聞いている。
「でも、大丈夫。今までここでしてきたグラウンディングやリゾネイティングのワーク覚えてるでしょ?あれ、実はトータルの目的はタンクの残量を回復して更には容量を増やすためのワークなの。まだ少ないって言ったけど、ちゃんと増やしていくことができるからね」
そう伝えた後、私は母親も交えて三人で呼吸を合わせるワークから入ることを提案した。ここまでのやり取りで私と母親とかほりの自律神経の状態がかなりズレていることを自覚していたからだ。自律神経の波長が合わないカウンセリングはまず間違いなく上手くいかない。
3人で椅子を三角形に配置し、最初に私が呼吸に合わせて手を上下し、残りの二人はそれに合わせる。次にかほりが主導、その次に母親という形で1分間隔交替し、3ローテーションする。
終わるころには大分空気が落ち着いてくるのを実感できる。
こうしてその後のグラウンディングとリゾネイティングにつなげてこの回は終了の時間を迎えた。
終わり際に「お腹どう?」と聞くと、「大分マシになりました」と答えたかほりであったが、やはりその声からは硬さを感じた。
二人を送り出し、手を付けられなかった茶菓子を片付けた後、記録のためにパソコンに向かう私の気持ちは重かった。
「今日はダメダメだった」というのが正直な感想だ。かほりが学校に行けなくなることもある程度想定していた。しかしそれでも期待していた自分は目先の行動に視界を奪われていたのだ。残念と思ってしまったからこそ、母親と一緒に揺れてしまった。
「母親と一緒に揺れて何が悪い。カウンセラーがクライアントに共感するのは当たり前だ」そう言う同業者の人もいるだろう。しかし私が完全に中立の視点をもって母親の話を聴いてそこに共感するのと、母親に同一化してしまうことには大きな違いがある。私が母親の気持ちを理解して共感したのではなく、私の気持ちが母親の気持ちになってしまっていたのだ。そうなると私の視点も母親の視点になってしまう。思えば、このセッションが始まる前、学校復帰という結果を自分は無意識に求めてしまっていた。カウンセラーの仕事はクライアントの心を回復させることで、結果はクライアント次第であることを解っていたはずなのに。
アセスメント
・かほりにIBS(過敏性腸症候群)の気あり
・母親はショックを受けており、カウンセリングに対しても若干不信感をもったかもしれない。
・ただ、その後のワークにより互いの共鳴を促せたのは良かった。
方針
・今後のかほりの登校状況次第では部分登校を促していく。
過敏性腸症候群とは起立性調節障害と並び不登校の子によくつけられる診断名の一つだ。今回のかほりのようにストレス下でトイレから出て来られなくなるのがその典型例だ。
それにしても症状の出方が気になる。
母親との心の接触を意識したワークをしてきて、心にエネルギーを溜められるようにしてきたのに。なんで、今になってこんな反応を?
一つ考えられることは、かほりの抱えているトラウマが母子関係の改善で解決できるようなものではないという可能性。もっと直接的に扱わないといけない可能性。
それを明らかにし、本格的な介入をするとなると......やはり扱わないわけにはいかない。私が今まで見ようとしてこなかった問題を。しかし......その準備が整わないとどうしようもない。
イメージワーク
20XX+1年5月22日 かほり#11 母親#8
「さぁ、今かほりちゃんは僕と対面して座っています。緊張感を0から10の数字で表すといくつくらいかな?」
今回、かほりの学校での緊張感を下げるためのイメージワークを実施していた。
私の質問にかほりは落ち着いた様子で答えてくれる。
「今は3くらい」
「いいですね。今はとってもゆったりした気持ちになって、リラックスしていきましょう。ゆっくり深呼吸して。肩に置かれたお母さんの手を通して、お母さんを感じましょう。数字を限りなくゼロに近づけていきましょう。だら~んとしていきましょう」
かほりの自律神経を落ち着かせる誘導を入れていくと、それに応えるようにかほりも言う。
「そうですね。今は大丈夫です」
「緊張感はいくつくらいですか?」
「ゼロです」
「いいですね。それでは今からかほりちゃんの心を強くする練習をしていきますよ。ちょっとずつ、ちょっとずつでいいですからね。今、ほんのちょっとだけ教室をカメラ越しに眺めている自分を頭に思い浮かべてみましょう」
かほりに恐怖の対象場面を想起してもらう。かほりは心がボロボロに傷ついていて、安心感がないから怖いのだ。しっかりとグラウンディングし、リラックスした状態で、しかも自分は絶対安全な場面から入る。
「教室の様子をビデオカメラ越しに眺めている自分......想像することができますか?」
「はい」
「いいですね。そうしたら、さっきはゼロになった緊張感、今はいくつくらいですか」
「3くらいです」
「よく、頑張っています。今、その3くらい自分が緊張しているなっていうの、体のどこに感じますか?」
「えっと...胸がきゅって締まる感じ」
「その感じを感じながら、はい、お母さん、かほりちゃんの肩にしっかり手を置いてあげてください。かほりちゃんはお母さんの手が自分の肩に置かれているの、よく感じて。お母さんの手の重みを感じて。手の温かみを感じて。感じることできますか?」
「はい」
「それを感じながら、さっきの胸がきゅって締まる感じも感じていきましょう。今かほりちゃんはビデオカメラ越しに、教室の様子を眺めています。どんな気持ちですか?」
「緊張しないでも済む感じです」
「緊張感はいくつくらい?」
「今は1か2くらいです」
「では、お母さんの手のぬくもりを感じながら、その1か2くらいの感覚をもう少し味わっていきましょう」
私はかほりの表情を観察する。ゆったりとした雰囲気が見て取れたので、「どうですか。今の感じは?」と問う。
「もう何も感じなくなりました」とかほりは返事をした。
「さぁ、今かほりちゃんは僕と対面して座っています。緊張感を0から10の数字で表すといくつくらいかな?」
今回、かほりの学校での緊張感を下げるためのイメージワークを実施していた。
私の質問にかほりは落ち着いた様子で答えてくれる。
「今は3くらい」
「いいですね。今はとってもゆったりした気持ちになって、リラックスしていきましょう。ゆっくり深呼吸して。肩に置かれたお母さんの手を通して、お母さんを感じましょう。数字を限りなくゼロに近づけていきましょう。だら~んとしていきましょう」
かほりの自律神経を落ち着かせる誘導を入れていくと、それに応えるようにかほりも言う。
「そうですね。今は大丈夫です」
「緊張感はいくつくらいですか?」
「ゼロです」
「いいですね。それでは今からかほりちゃんの心を強くする練習をしていきますよ。ちょっとずつ、ちょっとずつでいいですからね。今、ほんのちょっとだけ教室をカメラ越しに眺めている自分を頭に思い浮かべてみましょう」
かほりに恐怖の対象場面を想起してもらう。かほりは心がボロボロに傷ついていて、安心感がないから怖いのだ。しっかりとグラウンディングし、リラックスした状態で、しかも自分は絶対安全な場面から入る。
「教室の様子をビデオカメラ越しに眺めている自分......想像することができますか?」
「はい」
「いいですね。そうしたら、さっきはゼロになった緊張感、今はいくつくらいですか」
「3くらいです」
「よく、頑張っています。今、その3くらい自分が緊張しているなっていうの、体のどこに感じますか?」
「えっと...胸がきゅって締まる感じ」
「その感じを感じながら、はい、お母さん、かほりちゃんの肩にしっかり手を置いてあげてください。かほりちゃんはお母さんの手が自分の肩に置かれているの、よく感じて。お母さんの手の重みを感じて。手の温かみを感じて。感じることできますか?」
「はい」
「それを感じながら、さっきの胸がきゅって締まる感じも感じていきましょう。今かほりちゃんはビデオカメラ越しに、教室の様子を眺めています。どんな気持ちですか?」
「緊張しないでも済む感じです」
「緊張感はいくつくらい?」
「今は1か2くらいです」
「では、お母さんの手のぬくもりを感じながら、その1か2くらいの感覚をもう少し味わっていきましょう」
私はかほりの表情を観察する。ゆったりとした雰囲気が見て取れたので、「どうですか。今の感じは?」と問う。
「もう何も感じなくなりました」とかほりは返事をした。
問題の根っこ
私はかほりと母親を交互に見て言った。
「今日はビデオカメラ越しに教室を眺めるイメージをして、緊張感を下げるワークをしました。こうやってイメージ上でも徐々に教室に近づいて行って緊張を感じなくしていくのが目的です。これの大事なところは、かほりちゃんが怖くなったらいつでも、お母さんのところに帰ってこられるという意識をしっかりと持つところです。少しでも怖いと思ったらすぐに帰ってくる。それを繰り返していくうちに、必ず少しずつ慣れていきます」
二人は真剣に聞いている。
ここで私は一呼吸おいてから、次の質問をした。
「ところで、かほりちゃんは家ではお父さんとお母さんにしっかり甘えることができていますか?」
かほりはキョトンとしている。急な質問で、意味が分からないのかもしれない。もしくは甘えられているのかいないのか、自分では分からないということか。
一方、母親も黙っている。言葉を選んでいるが、上手い言葉が見つからないという表情だ。
「ごめんなさい。困らせるつもりはなかったんです。そんな簡単じゃないですか」
私が助け舟を出した。
「いえ、前にここで甘えさせ方を教えてもらって、なんか自然に甘えられるようにはなってきてる気がします」
言いながら母親はかほりの方を見る。
「結構甘えてくるよね」
かほりは照れているのか、顔を崩すように笑ったと思うと、母親の陰に顔を隠すような素振りをした。確かに甘えている感じだ。
私はそれを見て「そうそう。そういう感じ。お母さんに隠れると、お母さんがちゃんと守ってくれるよね」と促す。
二人は見つめ合って、互いに照れ笑いを浮かべる。
しかし母親は私の方を向き直って言う。
「私たち二人の時はいいんです。でも、どうしても主人がいると、上手く甘えさせてあげられないと言うか、かほりも主人の前で甘えてくることもないですし」
そう聞いて私はかほりに話を振る。
「お父さんといるときは、甘えないの?」
かほりは困ったように言う。
「え~。普通です」
何か聞かれたときに普通という表現を使う子どもは多いが、子どもがこの表現を使うとき、そこに答えはないということを私は知っている。
そこで私は突っ込んで質問をする。
「かほりちゃん、さっき緊張がゼロになったって言ってくれたよね。今、お父さんと家にいるときの状況を思い浮かべてみて。緊張......いくつくらいかな?」
するとかほりは間をおいてから答えた
「......8」
「そうなんだね。家にお父さんいると、かほりちゃん、緊張しちゃうんだね」
かほりは答えないが、代わりに母親が口を開いた。
「かほりには気を遣わせていると思います。ときどき『お母さん、大丈夫?』って聞いてくるんです。以前お話したみたいに、私が主人と口をきかないでいると、この子、すごく気を遣ってくれて、『お母さんは悪くないよ』って言ってくれて」
母親は涙ぐんでいる。
「それで、主人に対しても、なんか和ませるようなこと言ってみたり。そういうこの子を見てると、すごい申し訳ないって思うんですけど、どうやって仲直りしていいか分からなくて」
かほりは少しバツが悪そうに座っている。
「かほりちゃん、お父さん、怖い?」
私が聞くと、かほりは困ったように間をおくが、「怒ると怖いけど、普段は怖くないです」と返事をする。
「お父さんとお母さんが喧嘩してるときって、お父さん怒ってるときでしょ?怖いけど、頑張ってかほりちゃん、お父さんの気分を和ませようとするんだね。すごい勇気あるね」と伝えるも、かほりはどう答えていいか分からない様子で返事をしない。
代わりに母親が言う。
「結局、私たちがこんな風だから、かほりが学校行けないんですよね。家が休まらないから」
以前に私が、かほりの不登校の原因を夫婦関係にあると思うと伝えたこと、しっかりと母親は受け止めてくれているようだ。
「でも、今更どうしていいか分からないんです。主人は変わらないですし」
母親の言葉からは諦めの気持ちが滲み出ている。
そんな母親に私は伝えた。
「お母さん、私、お母さんにもかほりちゃんにも幸せになってほしいって本気で思っています。お母さん、今、旦那さんが変わらないって仰いましたね。そんな旦那さんとこれからもずっと今の生活を続けていくこと、お母さん、幸せですか?」
母親もかほりも顔を強張らせる。
「それは......離婚しろっていうことですか?」
母親が身構えたように言う。
「ごめんなさい。そんなつもりじゃないんです。私、そんな無責任なこと、とても言えません。ただ、今の関係を改善することを諦めないでくださいってこと、お伝えしたくて」
そう伝えると、少し力が抜けた様子で答える。
「そうは言っても、どうしたらいいか」
私の口調は説得モードになっている。
「お母さん、私から見てですが、お母さん、ここに来られてから、随分変わられたと思いますよ」
「はい。私もとても心が軽くなりました」
そう聞くと、嬉しく思う。だから聞く。
「旦那さんは、変われませんか」と。
しかしこれに再び母親は身構える。
「それは......やっぱり主人もここに来た方が良いってことでしょうか」
母親が身構えたように言う。
「以前も言ってましたが、主人はカウンセリングに頼るのを反対していまして」
「確かに最初の頃はそうおっしゃっていましたね。でも、今は本当、お母さん、かほりちゃんによく向き合ってくれています。お母さんが変わったことを伝えれば、お父さんも分かってくれませんか?」
「どうでしょうか。でも、どうやって主人に話していいか......」
「すみません。私がお父さんを連れてくることを提案しているみたいな流れになっちゃってますが、かほりちゃん、お父さんがここに来ることについてはどう思うかな?」
急に話を振られて少しびっくりしたような様子のかほりだが、
「え~、多分来ないと思います」
と答えた。
「すみません。今日はお時間が来ています。次回また、お父さんにここにお越しいただく案も含めて、今後のカウンセリングの方向性について、もう一度私とお母さんとかほりちゃんで作戦会議をするというのはいかがでしょうか」
「分かりました」
と母親。
かほりは無反応で、父親の来談について、本当のところどう思っているのか、読み取れなかった。
「今日はビデオカメラ越しに教室を眺めるイメージをして、緊張感を下げるワークをしました。こうやってイメージ上でも徐々に教室に近づいて行って緊張を感じなくしていくのが目的です。これの大事なところは、かほりちゃんが怖くなったらいつでも、お母さんのところに帰ってこられるという意識をしっかりと持つところです。少しでも怖いと思ったらすぐに帰ってくる。それを繰り返していくうちに、必ず少しずつ慣れていきます」
二人は真剣に聞いている。
ここで私は一呼吸おいてから、次の質問をした。
「ところで、かほりちゃんは家ではお父さんとお母さんにしっかり甘えることができていますか?」
かほりはキョトンとしている。急な質問で、意味が分からないのかもしれない。もしくは甘えられているのかいないのか、自分では分からないということか。
一方、母親も黙っている。言葉を選んでいるが、上手い言葉が見つからないという表情だ。
「ごめんなさい。困らせるつもりはなかったんです。そんな簡単じゃないですか」
私が助け舟を出した。
「いえ、前にここで甘えさせ方を教えてもらって、なんか自然に甘えられるようにはなってきてる気がします」
言いながら母親はかほりの方を見る。
「結構甘えてくるよね」
かほりは照れているのか、顔を崩すように笑ったと思うと、母親の陰に顔を隠すような素振りをした。確かに甘えている感じだ。
私はそれを見て「そうそう。そういう感じ。お母さんに隠れると、お母さんがちゃんと守ってくれるよね」と促す。
二人は見つめ合って、互いに照れ笑いを浮かべる。
しかし母親は私の方を向き直って言う。
「私たち二人の時はいいんです。でも、どうしても主人がいると、上手く甘えさせてあげられないと言うか、かほりも主人の前で甘えてくることもないですし」
そう聞いて私はかほりに話を振る。
「お父さんといるときは、甘えないの?」
かほりは困ったように言う。
「え~。普通です」
何か聞かれたときに普通という表現を使う子どもは多いが、子どもがこの表現を使うとき、そこに答えはないということを私は知っている。
そこで私は突っ込んで質問をする。
「かほりちゃん、さっき緊張がゼロになったって言ってくれたよね。今、お父さんと家にいるときの状況を思い浮かべてみて。緊張......いくつくらいかな?」
するとかほりは間をおいてから答えた
「......8」
「そうなんだね。家にお父さんいると、かほりちゃん、緊張しちゃうんだね」
かほりは答えないが、代わりに母親が口を開いた。
「かほりには気を遣わせていると思います。ときどき『お母さん、大丈夫?』って聞いてくるんです。以前お話したみたいに、私が主人と口をきかないでいると、この子、すごく気を遣ってくれて、『お母さんは悪くないよ』って言ってくれて」
母親は涙ぐんでいる。
「それで、主人に対しても、なんか和ませるようなこと言ってみたり。そういうこの子を見てると、すごい申し訳ないって思うんですけど、どうやって仲直りしていいか分からなくて」
かほりは少しバツが悪そうに座っている。
「かほりちゃん、お父さん、怖い?」
私が聞くと、かほりは困ったように間をおくが、「怒ると怖いけど、普段は怖くないです」と返事をする。
「お父さんとお母さんが喧嘩してるときって、お父さん怒ってるときでしょ?怖いけど、頑張ってかほりちゃん、お父さんの気分を和ませようとするんだね。すごい勇気あるね」と伝えるも、かほりはどう答えていいか分からない様子で返事をしない。
代わりに母親が言う。
「結局、私たちがこんな風だから、かほりが学校行けないんですよね。家が休まらないから」
以前に私が、かほりの不登校の原因を夫婦関係にあると思うと伝えたこと、しっかりと母親は受け止めてくれているようだ。
「でも、今更どうしていいか分からないんです。主人は変わらないですし」
母親の言葉からは諦めの気持ちが滲み出ている。
そんな母親に私は伝えた。
「お母さん、私、お母さんにもかほりちゃんにも幸せになってほしいって本気で思っています。お母さん、今、旦那さんが変わらないって仰いましたね。そんな旦那さんとこれからもずっと今の生活を続けていくこと、お母さん、幸せですか?」
母親もかほりも顔を強張らせる。
「それは......離婚しろっていうことですか?」
母親が身構えたように言う。
「ごめんなさい。そんなつもりじゃないんです。私、そんな無責任なこと、とても言えません。ただ、今の関係を改善することを諦めないでくださいってこと、お伝えしたくて」
そう伝えると、少し力が抜けた様子で答える。
「そうは言っても、どうしたらいいか」
私の口調は説得モードになっている。
「お母さん、私から見てですが、お母さん、ここに来られてから、随分変わられたと思いますよ」
「はい。私もとても心が軽くなりました」
そう聞くと、嬉しく思う。だから聞く。
「旦那さんは、変われませんか」と。
しかしこれに再び母親は身構える。
「それは......やっぱり主人もここに来た方が良いってことでしょうか」
母親が身構えたように言う。
「以前も言ってましたが、主人はカウンセリングに頼るのを反対していまして」
「確かに最初の頃はそうおっしゃっていましたね。でも、今は本当、お母さん、かほりちゃんによく向き合ってくれています。お母さんが変わったことを伝えれば、お父さんも分かってくれませんか?」
「どうでしょうか。でも、どうやって主人に話していいか......」
「すみません。私がお父さんを連れてくることを提案しているみたいな流れになっちゃってますが、かほりちゃん、お父さんがここに来ることについてはどう思うかな?」
急に話を振られて少しびっくりしたような様子のかほりだが、
「え~、多分来ないと思います」
と答えた。
「すみません。今日はお時間が来ています。次回また、お父さんにここにお越しいただく案も含めて、今後のカウンセリングの方向性について、もう一度私とお母さんとかほりちゃんで作戦会議をするというのはいかがでしょうか」
「分かりました」
と母親。
かほりは無反応で、父親の来談について、本当のところどう思っているのか、読み取れなかった。
かほりの申し出
その後は特に連絡もなく2週間が過ぎた。次の来談日、やはりいつものように母親とかほりと二人での来談である。
「やっぱりどう話していいか分からなくて…」
「そいう流れにならないもんね」
前回の来談時に話していた作戦会議だが、父親を誘うというのは、やはり難しいという母親とかほりの認識だ。
父親は1月の雪の日以来、カウンセリングについて聞いてくることはない。学校に行けない日があることは父親も分かっているし、IBSの診断を受けたことは母親から伝えてはいる。「そのときの主人の反応、正直分からないんですよね。なんか、怒るわけでもなく、仕方ないとか受け入れるわけでもなく、もしかしたら興味ないのかなって思っちゃいます」
そういうことで、父親をカウンセリングの舞台に上がってもらうという方針は一旦とん挫し、かほりの心的エネルギーを上げ、学校場面での緊張を下げるためのトレーニングを継続するという方針に落ち着いた。
「先週、修学旅行行けたんです。2泊3日で東京の方に行ったんですけど、もうギリギリまで行くって言ったり行かないって言ったりで。その前の一週間くらいはずっとトイレに籠ってました。それで、学校も配慮してくれて、当日行けるパターンと行けないパターンを考えてくれたんですよね。で、当日の朝になって、本当出かけるギリギリまでトイレに入ってたんですけど、時間になって出てきて『行く』って。だから、私もその日は午前中休み取っていたので、集合場所の駅まで送っていったんです」
母親が語りに対して、
「お母さん、心配し過ぎだよ。行くって最初から言ってたじゃん」
とかほり。
「かほりちゃん、頑張ったんだね。修学旅行どうでしたか?」
「すごく楽しかったです。でも、お腹はずっと痛くて、ちょっとでも時間があるときはトイレに行っていました」
腹痛よりも旅行に行けた達成感の方が大きかったのだろう。答える表情は明るい。
そこに母親が付け足すように
「でも、疲れたんだと思うんですけど、帰ってきてから次の日は本当にずっと寝てて、その後、今日まで学校休んでました。今日久しぶりに学校行けたね」
と加えた。
母親の話す表情や口調に、休んでいるかほりに対する攻撃的なニュアンスは感じない。
「今週テストだったんですけど、一応全部受けれました。学校は別室受験もOKしてくれてたんですけど、頑張ってみんなと一緒に教室で受けることができたんです」
次の回には、かほりがなんとか学校生活に食らいついて行っている様子を話してくれた。
そんな経過が続いていくうちに、どんどん気温は上がっていき、外に出るにも肌を突き刺すような陽射しにたじろぐ季節を迎えていた。
夏休みに入り、かほりは学校に行かなくてはという悩みから解放されたのか、とても体調が良いようだ。カウンセリング場面で見せる顔は、好きなゲームの話やハマっている動画の話を楽しそうにしてくれ、そこだけ見ると、どうしてこの子が不登校なのだろうと感じてしまうくらいだ。
そして、そんな夏休みも後半に入り、二学期の始まりを意識し始めるころ、母親からメールで連絡が入った。
Subject 「次回のカウンセリングについて」
受信日時 20XX+1/8/25 21:23
「いつもお世話になっております。
夜分に申し訳ありません。
次回のカウンセリングですが、かほりが一人で行きたいと言っています。
ですから、次回は私抜きでお願いします。
よろしくお願いします。
坂部とも子」
―――なんだろう?
一人で来談したいということは、母親に聞かれたくない話をしたいのだろうか。
聞かれたくない話......。
様々な可能性を想像しながらも、そのとき私にできるのはかほりの来談を待つことだけだた。
「やっぱりどう話していいか分からなくて…」
「そいう流れにならないもんね」
前回の来談時に話していた作戦会議だが、父親を誘うというのは、やはり難しいという母親とかほりの認識だ。
父親は1月の雪の日以来、カウンセリングについて聞いてくることはない。学校に行けない日があることは父親も分かっているし、IBSの診断を受けたことは母親から伝えてはいる。「そのときの主人の反応、正直分からないんですよね。なんか、怒るわけでもなく、仕方ないとか受け入れるわけでもなく、もしかしたら興味ないのかなって思っちゃいます」
そういうことで、父親をカウンセリングの舞台に上がってもらうという方針は一旦とん挫し、かほりの心的エネルギーを上げ、学校場面での緊張を下げるためのトレーニングを継続するという方針に落ち着いた。
「先週、修学旅行行けたんです。2泊3日で東京の方に行ったんですけど、もうギリギリまで行くって言ったり行かないって言ったりで。その前の一週間くらいはずっとトイレに籠ってました。それで、学校も配慮してくれて、当日行けるパターンと行けないパターンを考えてくれたんですよね。で、当日の朝になって、本当出かけるギリギリまでトイレに入ってたんですけど、時間になって出てきて『行く』って。だから、私もその日は午前中休み取っていたので、集合場所の駅まで送っていったんです」
母親が語りに対して、
「お母さん、心配し過ぎだよ。行くって最初から言ってたじゃん」
とかほり。
「かほりちゃん、頑張ったんだね。修学旅行どうでしたか?」
「すごく楽しかったです。でも、お腹はずっと痛くて、ちょっとでも時間があるときはトイレに行っていました」
腹痛よりも旅行に行けた達成感の方が大きかったのだろう。答える表情は明るい。
そこに母親が付け足すように
「でも、疲れたんだと思うんですけど、帰ってきてから次の日は本当にずっと寝てて、その後、今日まで学校休んでました。今日久しぶりに学校行けたね」
と加えた。
母親の話す表情や口調に、休んでいるかほりに対する攻撃的なニュアンスは感じない。
「今週テストだったんですけど、一応全部受けれました。学校は別室受験もOKしてくれてたんですけど、頑張ってみんなと一緒に教室で受けることができたんです」
次の回には、かほりがなんとか学校生活に食らいついて行っている様子を話してくれた。
そんな経過が続いていくうちに、どんどん気温は上がっていき、外に出るにも肌を突き刺すような陽射しにたじろぐ季節を迎えていた。
夏休みに入り、かほりは学校に行かなくてはという悩みから解放されたのか、とても体調が良いようだ。カウンセリング場面で見せる顔は、好きなゲームの話やハマっている動画の話を楽しそうにしてくれ、そこだけ見ると、どうしてこの子が不登校なのだろうと感じてしまうくらいだ。
そして、そんな夏休みも後半に入り、二学期の始まりを意識し始めるころ、母親からメールで連絡が入った。
Subject 「次回のカウンセリングについて」
受信日時 20XX+1/8/25 21:23
「いつもお世話になっております。
夜分に申し訳ありません。
次回のカウンセリングですが、かほりが一人で行きたいと言っています。
ですから、次回は私抜きでお願いします。
よろしくお願いします。
坂部とも子」
―――なんだろう?
一人で来談したいということは、母親に聞かれたくない話をしたいのだろうか。
聞かれたくない話......。
様々な可能性を想像しながらも、そのとき私にできるのはかほりの来談を待つことだけだた。
かほりの告白
20XX+1年8月28日 かほり#17
学校のある時は制服であるセーラー服だったが、夏休み中の来談は当然のように私服になる。Tシャツの上に長袖のUVカットのカーディガンを羽織り、下はジーンズ、顔にはいつものようにマスクという格好でかほりは相談室に現れた。
夏休みに入ってからのかほりはいつも同じようないで立ちだ。外のうだるような暑さを考えるとマスクをしてカーディガンを羽織っているのは暑くないのかとも思うのだが、突き刺す陽射しから肌を守るための装備は今の時代欠かせないのかもしれない。
私は相談室のエアコンの設定温度を低くして、かほりを迎えた。そして、いつものクッキーと冷えたウーロン茶をかほりにだしながら「こんにちは。暑い中よく来てくれたね。こうして二人でお話するの、結構久しぶりだね」と声かける。
かほりは、目だけで笑顔を作っていることを知らせている。
「今日はお母さんから、かほりちゃんが一人で来たいって自分から言ったって聞いたんだけど、お母さんに聞かれたくない話がしたいのかな?」
かほりの語りを促した。
少しの間を置いた後、かほりはマスクをしていても伝わる真剣な表情で言う。
「ここで私が話したことって、後でお母さんに言いますか?」
私は自分がたじろいでしまうのを感じた。
せっかく勇気を出して一人で来てくれたかほり。ここでかほりを失望させると、もう二度と私に話してみようという気にならないかもしれない。
だから私は言う。
「かほりちゃん、とても重要なことを話そうとしてくれているんだろうと思います。でも、それをお母さんに知られたくないんだね。お母さんに知られたら、どんなことが起こりそう?」
するとかほりは呟くように言う。
「分からない」
「かほりちゃんはお母さんがどんな反応をするか分からないから怖いんだね」
かほりが頷く。
「じゃぁ、もしもお母さんに言わないといけないようなお話なら、この後、お母さんが迎えに来てくれた時に、僕と一緒に伝えるのはどうだろう?」
しかしかほりはそれでは納得しないらしい。
少し考えた後に、「......やっぱり言わないでほしいです」と答えた。
「そうなんだね。でも、お母さんに言えないお話、もし今日ここで僕に話さなかったら、かほりちゃん、自分一人で抱え込まないといけなくなっちゃうでしょ?かほりちゃんの今日の表情見てて、そのことを想像すると、とても辛いんじゃないかなって思うんだけど」
「だから、ここに話しに来たんです。お母さんには言わないでください」
「……ごめんね。大抵のことは誰にも言わないって約束できる。でも、もし、かほりちゃんの命や安全に関わることだったら……僕はかほりちゃんを守るために、絶対とは言いきれないの」
かほりの顔は硬直している。
そこで私は苦渋とも言える提案をする。
「でも、やっぱりかほりちゃんが今日ここに一人で来る勇気を出してくれたこと、何よりも尊重したいし、その気持ちに全力で応えたいのね。だから、もしお母さんに言わないといけない内容だった場合、僕からも約束してほしいことがあるの。僕に話したことを、僕がお母さんに言わない代わりに、そのことに関して、後から取り返しのつかないことだけは絶対にしないでください。その約束ができないと、僕も聞けないかもしれません」
ここまでのやり取りで、かほりはとても一人で抱えているのがしんどくなっていて、どうしても今日話したくなっていることが想像された。
果たしてかほりは口を開いた。
「切っちゃうんです」
なるほど、そのことか。かほりの苦しみを考えれば大変失礼な話であるが、少しホッとする自分も感じる。その内容であれば、母親に伝えるかどうかという葛藤が私の中で軽減されるからだ。しかし依然としてかほりの苦しみを共有しないといけないことに変わりはない。
だから声のトーンを落とし、真剣な顔で答える。
「そうなんだね。かほりちゃんの苦しみを思うと、胸が痛くなります。本当によく話してくれたね」
かほりは答えない。しばしの沈黙が訪れた。
相談室内に聞こえる音と言ったら、極低音でYoutubeから流している川のせせらぐ音と、強めに設定したエアコンの音、外からわずかに聞こえる蝉の鳴き声くらいだ。この沈黙は多くの葛藤の末にようやく打ち明けたリストカットの告白に対する私の反応をかほりが頭の中で消化している時間だ。私は私が持てる最大限の想像力をかほりの気持ちに共鳴することにつかいながら、かほりを見つめた。
「ダメだって思うけど、切るとスッキリすると言うか」
ようやくかほりが口を開いた。
「だから、いつもカーディガン着てるんだね」
「はい」
「今も切りたいですか?」
「今は大丈夫です」
「今も腕とかに痕はあるの?」
「見ますか?」
「嫌じゃなければ見せてくれる?」
かほりは左腕の袖をめくって私の前に差し出した。
その腕にはまだ新しいと思われる傷が3本、ケロイドになっているものや、薄っすらとしているものは複数見られた。
「これ、まだ新しいよね。ちゃんと消毒していますか?」と聞く。
「消毒って言うか、しばらく血が流れるの見てると勝手に止まるから、止まってから、ティッシュとかで拭く感じです」
「ちょっと待っててね」
私は奥の棚から救急箱を取り出し、消毒液を見つけて持ってくる。
「はい、もう一回手を出してごらん」
そう言って消毒液に浸した脱脂綿をピンセットでつまみ、傷口に優しく当てながら聞いた。
「いつくらいから切ってるの?」
「酷くなったのは最近です。学校行けなくなってから、冬の間はときどき切っちゃうことがあって、でも、夏服になって長袖着れなくなってからは切りたくなっても我慢してたんです。でも、夏休みに入って、半袖じゃなくてもよくなったら......止まらなくなっちゃって」
「そうなんだね。かほりちゃん、ダメだって思って苦しんでるの、とってもよく伝わってくるよ。かほりちゃんに伝えたいことがあって、切っちゃうことも含めて、かほりちゃん、全然駄目じゃないからね。かほりちゃんがやめたいと思ってるのに切っちゃうってことは、かほりちゃんにとって切らないといけない事情があるからなの。それは絶対にかほりちゃんが悪いなんてことはない。かほりちゃんは無意識のうちにそう追い込まれちゃっただけ」
かほりは無表情に聞いている。
「ガーゼ貼っていく?でも、上羽織ってても目立っちゃうかな」
「このままでいいです」
「切った後は、ちゃんと清潔にしないとダメだよ。ばい菌が入って感染したら大変だからね」
「はい」
「よかったら、ここで何がかほりちゃんを切りたい衝動に追い込んでるのか、一緒に考えていけるといいと思うんだけど、どうかな?」
「別に何も追い込まれてるわけじゃないと思います」
「それは多分、かほりちゃんが余りにつらいから......心が麻痺しちゃってて辛さを感じられなくなってるんじゃないかなって思うの。自分で自分を傷つけることを自傷行為って言うんだけど、心や体の感覚が麻痺しちゃった人が必死で自分の感覚を取り戻そうとする行為なんだよ」
私は以前に母親がスマホのカメラで撮った、かほりが描いたという女の子の絵を思い出していた。
再びかほりは無表情で私の話を聞いている。
「僕の言っていること、伝わりますか?」
私はかほりの反応を確かめるように聞いた。
するとかほりから意外な反応が返ってきた。
学校のある時は制服であるセーラー服だったが、夏休み中の来談は当然のように私服になる。Tシャツの上に長袖のUVカットのカーディガンを羽織り、下はジーンズ、顔にはいつものようにマスクという格好でかほりは相談室に現れた。
夏休みに入ってからのかほりはいつも同じようないで立ちだ。外のうだるような暑さを考えるとマスクをしてカーディガンを羽織っているのは暑くないのかとも思うのだが、突き刺す陽射しから肌を守るための装備は今の時代欠かせないのかもしれない。
私は相談室のエアコンの設定温度を低くして、かほりを迎えた。そして、いつものクッキーと冷えたウーロン茶をかほりにだしながら「こんにちは。暑い中よく来てくれたね。こうして二人でお話するの、結構久しぶりだね」と声かける。
かほりは、目だけで笑顔を作っていることを知らせている。
「今日はお母さんから、かほりちゃんが一人で来たいって自分から言ったって聞いたんだけど、お母さんに聞かれたくない話がしたいのかな?」
かほりの語りを促した。
少しの間を置いた後、かほりはマスクをしていても伝わる真剣な表情で言う。
「ここで私が話したことって、後でお母さんに言いますか?」
私は自分がたじろいでしまうのを感じた。
せっかく勇気を出して一人で来てくれたかほり。ここでかほりを失望させると、もう二度と私に話してみようという気にならないかもしれない。
だから私は言う。
「かほりちゃん、とても重要なことを話そうとしてくれているんだろうと思います。でも、それをお母さんに知られたくないんだね。お母さんに知られたら、どんなことが起こりそう?」
するとかほりは呟くように言う。
「分からない」
「かほりちゃんはお母さんがどんな反応をするか分からないから怖いんだね」
かほりが頷く。
「じゃぁ、もしもお母さんに言わないといけないようなお話なら、この後、お母さんが迎えに来てくれた時に、僕と一緒に伝えるのはどうだろう?」
しかしかほりはそれでは納得しないらしい。
少し考えた後に、「......やっぱり言わないでほしいです」と答えた。
「そうなんだね。でも、お母さんに言えないお話、もし今日ここで僕に話さなかったら、かほりちゃん、自分一人で抱え込まないといけなくなっちゃうでしょ?かほりちゃんの今日の表情見てて、そのことを想像すると、とても辛いんじゃないかなって思うんだけど」
「だから、ここに話しに来たんです。お母さんには言わないでください」
「……ごめんね。大抵のことは誰にも言わないって約束できる。でも、もし、かほりちゃんの命や安全に関わることだったら……僕はかほりちゃんを守るために、絶対とは言いきれないの」
かほりの顔は硬直している。
そこで私は苦渋とも言える提案をする。
「でも、やっぱりかほりちゃんが今日ここに一人で来る勇気を出してくれたこと、何よりも尊重したいし、その気持ちに全力で応えたいのね。だから、もしお母さんに言わないといけない内容だった場合、僕からも約束してほしいことがあるの。僕に話したことを、僕がお母さんに言わない代わりに、そのことに関して、後から取り返しのつかないことだけは絶対にしないでください。その約束ができないと、僕も聞けないかもしれません」
ここまでのやり取りで、かほりはとても一人で抱えているのがしんどくなっていて、どうしても今日話したくなっていることが想像された。
果たしてかほりは口を開いた。
「切っちゃうんです」
なるほど、そのことか。かほりの苦しみを考えれば大変失礼な話であるが、少しホッとする自分も感じる。その内容であれば、母親に伝えるかどうかという葛藤が私の中で軽減されるからだ。しかし依然としてかほりの苦しみを共有しないといけないことに変わりはない。
だから声のトーンを落とし、真剣な顔で答える。
「そうなんだね。かほりちゃんの苦しみを思うと、胸が痛くなります。本当によく話してくれたね」
かほりは答えない。しばしの沈黙が訪れた。
相談室内に聞こえる音と言ったら、極低音でYoutubeから流している川のせせらぐ音と、強めに設定したエアコンの音、外からわずかに聞こえる蝉の鳴き声くらいだ。この沈黙は多くの葛藤の末にようやく打ち明けたリストカットの告白に対する私の反応をかほりが頭の中で消化している時間だ。私は私が持てる最大限の想像力をかほりの気持ちに共鳴することにつかいながら、かほりを見つめた。
「ダメだって思うけど、切るとスッキリすると言うか」
ようやくかほりが口を開いた。
「だから、いつもカーディガン着てるんだね」
「はい」
「今も切りたいですか?」
「今は大丈夫です」
「今も腕とかに痕はあるの?」
「見ますか?」
「嫌じゃなければ見せてくれる?」
かほりは左腕の袖をめくって私の前に差し出した。
その腕にはまだ新しいと思われる傷が3本、ケロイドになっているものや、薄っすらとしているものは複数見られた。
「これ、まだ新しいよね。ちゃんと消毒していますか?」と聞く。
「消毒って言うか、しばらく血が流れるの見てると勝手に止まるから、止まってから、ティッシュとかで拭く感じです」
「ちょっと待っててね」
私は奥の棚から救急箱を取り出し、消毒液を見つけて持ってくる。
「はい、もう一回手を出してごらん」
そう言って消毒液に浸した脱脂綿をピンセットでつまみ、傷口に優しく当てながら聞いた。
「いつくらいから切ってるの?」
「酷くなったのは最近です。学校行けなくなってから、冬の間はときどき切っちゃうことがあって、でも、夏服になって長袖着れなくなってからは切りたくなっても我慢してたんです。でも、夏休みに入って、半袖じゃなくてもよくなったら......止まらなくなっちゃって」
「そうなんだね。かほりちゃん、ダメだって思って苦しんでるの、とってもよく伝わってくるよ。かほりちゃんに伝えたいことがあって、切っちゃうことも含めて、かほりちゃん、全然駄目じゃないからね。かほりちゃんがやめたいと思ってるのに切っちゃうってことは、かほりちゃんにとって切らないといけない事情があるからなの。それは絶対にかほりちゃんが悪いなんてことはない。かほりちゃんは無意識のうちにそう追い込まれちゃっただけ」
かほりは無表情に聞いている。
「ガーゼ貼っていく?でも、上羽織ってても目立っちゃうかな」
「このままでいいです」
「切った後は、ちゃんと清潔にしないとダメだよ。ばい菌が入って感染したら大変だからね」
「はい」
「よかったら、ここで何がかほりちゃんを切りたい衝動に追い込んでるのか、一緒に考えていけるといいと思うんだけど、どうかな?」
「別に何も追い込まれてるわけじゃないと思います」
「それは多分、かほりちゃんが余りにつらいから......心が麻痺しちゃってて辛さを感じられなくなってるんじゃないかなって思うの。自分で自分を傷つけることを自傷行為って言うんだけど、心や体の感覚が麻痺しちゃった人が必死で自分の感覚を取り戻そうとする行為なんだよ」
私は以前に母親がスマホのカメラで撮った、かほりが描いたという女の子の絵を思い出していた。
再びかほりは無表情で私の話を聞いている。
「僕の言っていること、伝わりますか?」
私はかほりの反応を確かめるように聞いた。
するとかほりから意外な反応が返ってきた。
続・かほりの告白
「いつも、ここに来て、お母さんが私の肩に手を置くヤツ、やるじゃないですか」
リゾネイティングのことだ。母親がかほりを受け入れる準備ができてからお互いの気持ちを調律することで、かほりの中に安心感を育てることを狙いとした技法だ。
しかしかほりは言う。
「あれ、怖いんです」
「!?」
私はこの告白に頭を殴られたような衝撃を受けた。良かれと思ってしてきたことをかほりが怖いと感じていた。カウンセリングにおいて一番してはいけないことの一つに、クライアントを怖がらせてしまうことがある。それを私はずっと続けていたと言うのか。そこで私はその思いをそのまま伝えた。
「よく教えてくれました。ありがとうございます。そしてごめんね。かほりちゃんに安心してもらいたくてやっていたことがかほりちゃんを怖がらせていたなんて。思いが至っていなかったこと、謝ります」
しかしかほりは言う。
「いえ、私が悪いんです。どうしてもあれしてるとき、私の全部がお母さんに伝わっちゃう気がして。」
「切ってることも......バレちゃうかもって思う?」
「はい」
なるほど、それで怖いということか。
「ね、かほりちゃん。今かほりちゃんはとってもとっても大事な話をしてくれていると思うの。さっきも言ったけど、リスカしちゃうことも含めてかほりちゃんは何にも悪くないの。大切な大切な存在なの。そのかほりちゃん、ありのままのかほりちゃんのこと、ちゃんと受け入れられるお母さんになってもらえるようにここで今まで僕はお母さんにもカウンセリングしてきたのね。お母さん、大分変ったと思わない?」
「優しくなりました」
「そう思えるのはとってもいいことだね。僕から見ても最初の頃より大分お母さん柔らかくなったなって思うよ。そして、僕はかほりちゃんがここに来てくれている意味って、そこに凝縮されていると思っているの。それでも、かほりちゃんがまだお母さんに受け入れてもらえていないって思えちゃうんだね」
「いえ、そんなことないです。でも、切ってることバレたら......」
「さっき、お母さんがどんな反応するか分からないって言ってたけど、ちょっと想像してみよう。どんな反応しそうかな?」
かほりは少し間を取って考えているような表情をつくる。
「......怒る?」
親が子のリスカを知ったとき多くは悲しむという方が先に来そうだが、かほりは怒られるイメージが先に来たらしい。
その答えを聞いて私は問い返した。
「怒るかもしれないって思うんだね。どうしてお母さんは怒ると思う?」
「親からもらった体を傷つけるから」
しかしまた問い返す。
「他には理由ある?」
「世間体が悪い」
更に聞く。
「他には?」
「......分かりません」
「もし仮にお母さんが怒るとしたら、その怒りの裏には必ず恐れがあるはずなのね。お母さんは何を恐れてるんだろう。それを解消することが大切なのかもしれないね」
......?
今、自分で言って、私はハッとした。
私の中で何かがつながった。
絵の写真を見せてくれた時の母親の言葉が思い出される。
「そうなんです。怖くて......私、この絵を見たとき、すごく動揺しちゃって。なんか胸が苦しくなりました」
母親は恐れている。
何を?
今回のかほりのリスカの告白が、どうしても私にあの絵を思い起こさせる。
母親はあの絵を恐れた。
つながりがあるかは分からない。だが、どうしてもそちらに引きずられてしまい、私は、これまでかほりとの間では意図的に避けてきたその話題について話を振った。
「ね、かほりちゃん、大分前だけど、僕、お母さんにかほりちゃんが描いた絵を見せてもらったことがあるの。ズタボロに刺されながら笑っている女の子の絵。あれ......意味があるの?」
もちろん母親が私との二人きりの面談の中で話してくれた内容なので、かほりに話すことに抵抗がなかったわけではない。しかし、それ以上にここでその話をすることに意味があると考えたので敢えて話題に出した。
「え~、あれ、お母さん、見せたんですか」
かほりのこの反応を見ると、半年以上前に描いた絵について覚えてはいるようだ。そして一応驚いて見せているだけなのか、本気で意外なのかは分からない。しかし、母親が勝手に私に絵を見せたことについて、怒ったり動揺したりという感じでもない。
「ごめんね。お母さん、あの絵を見たとき、とっても怖かったみたいなの。それで、かほりちゃんに聞けなかったみたい。話題に出すのが、苦しかったんだと思うの。だから、僕に相談したんだと思うのね。あの絵、かほりちゃん、何を描いてたの?」
かほりは自分の中で答えを探しながら答えているようだ。
「ただ、なんとなくこんな風に描いたら面白いかなって」
多分嘘ではないのだろう。でも、もっと込められたものはあるはずだ。
「あの絵は誰を描いてたの?」
「忘れちゃいました」
はぐらかしている風な返事だ。
「よく思い出して」
かほりはしばらく黙り込んだ。
私は威圧しないよう、極力優しい表情を作って見つめ、付け加えた。
「もう半年以上前のことだと思うんだけど、あの絵を描いた時のこと、良かったら話してくれないかな」
「え~、あんまり覚えてないです」
「大丈夫。かほりちゃんはちゃんと覚えているから。ちょっと深呼吸から入りましょう。ゆっくりと吸って、ゆっくりと吐いて」
「はい」
そして、意図的に低めの声で......ゆっくりとした口調で誘導していく。
「リラックスしながら、思い出していきましょう。僕がかほりちゃんについています。力を抜いて。深呼吸しながらあの日の記憶に少しずつ触れていきましょう。ゆっくりと。あの日のこと......どんなところからでもいいので、話してください」
後はただ待つのみだ。時間にして3分以上......体感的には5分くらいの沈黙があったかもしれない。かほりはゆっくりと語りだした。
リゾネイティングのことだ。母親がかほりを受け入れる準備ができてからお互いの気持ちを調律することで、かほりの中に安心感を育てることを狙いとした技法だ。
しかしかほりは言う。
「あれ、怖いんです」
「!?」
私はこの告白に頭を殴られたような衝撃を受けた。良かれと思ってしてきたことをかほりが怖いと感じていた。カウンセリングにおいて一番してはいけないことの一つに、クライアントを怖がらせてしまうことがある。それを私はずっと続けていたと言うのか。そこで私はその思いをそのまま伝えた。
「よく教えてくれました。ありがとうございます。そしてごめんね。かほりちゃんに安心してもらいたくてやっていたことがかほりちゃんを怖がらせていたなんて。思いが至っていなかったこと、謝ります」
しかしかほりは言う。
「いえ、私が悪いんです。どうしてもあれしてるとき、私の全部がお母さんに伝わっちゃう気がして。」
「切ってることも......バレちゃうかもって思う?」
「はい」
なるほど、それで怖いということか。
「ね、かほりちゃん。今かほりちゃんはとってもとっても大事な話をしてくれていると思うの。さっきも言ったけど、リスカしちゃうことも含めてかほりちゃんは何にも悪くないの。大切な大切な存在なの。そのかほりちゃん、ありのままのかほりちゃんのこと、ちゃんと受け入れられるお母さんになってもらえるようにここで今まで僕はお母さんにもカウンセリングしてきたのね。お母さん、大分変ったと思わない?」
「優しくなりました」
「そう思えるのはとってもいいことだね。僕から見ても最初の頃より大分お母さん柔らかくなったなって思うよ。そして、僕はかほりちゃんがここに来てくれている意味って、そこに凝縮されていると思っているの。それでも、かほりちゃんがまだお母さんに受け入れてもらえていないって思えちゃうんだね」
「いえ、そんなことないです。でも、切ってることバレたら......」
「さっき、お母さんがどんな反応するか分からないって言ってたけど、ちょっと想像してみよう。どんな反応しそうかな?」
かほりは少し間を取って考えているような表情をつくる。
「......怒る?」
親が子のリスカを知ったとき多くは悲しむという方が先に来そうだが、かほりは怒られるイメージが先に来たらしい。
その答えを聞いて私は問い返した。
「怒るかもしれないって思うんだね。どうしてお母さんは怒ると思う?」
「親からもらった体を傷つけるから」
しかしまた問い返す。
「他には理由ある?」
「世間体が悪い」
更に聞く。
「他には?」
「......分かりません」
「もし仮にお母さんが怒るとしたら、その怒りの裏には必ず恐れがあるはずなのね。お母さんは何を恐れてるんだろう。それを解消することが大切なのかもしれないね」
......?
今、自分で言って、私はハッとした。
私の中で何かがつながった。
絵の写真を見せてくれた時の母親の言葉が思い出される。
「そうなんです。怖くて......私、この絵を見たとき、すごく動揺しちゃって。なんか胸が苦しくなりました」
母親は恐れている。
何を?
今回のかほりのリスカの告白が、どうしても私にあの絵を思い起こさせる。
母親はあの絵を恐れた。
つながりがあるかは分からない。だが、どうしてもそちらに引きずられてしまい、私は、これまでかほりとの間では意図的に避けてきたその話題について話を振った。
「ね、かほりちゃん、大分前だけど、僕、お母さんにかほりちゃんが描いた絵を見せてもらったことがあるの。ズタボロに刺されながら笑っている女の子の絵。あれ......意味があるの?」
もちろん母親が私との二人きりの面談の中で話してくれた内容なので、かほりに話すことに抵抗がなかったわけではない。しかし、それ以上にここでその話をすることに意味があると考えたので敢えて話題に出した。
「え~、あれ、お母さん、見せたんですか」
かほりのこの反応を見ると、半年以上前に描いた絵について覚えてはいるようだ。そして一応驚いて見せているだけなのか、本気で意外なのかは分からない。しかし、母親が勝手に私に絵を見せたことについて、怒ったり動揺したりという感じでもない。
「ごめんね。お母さん、あの絵を見たとき、とっても怖かったみたいなの。それで、かほりちゃんに聞けなかったみたい。話題に出すのが、苦しかったんだと思うの。だから、僕に相談したんだと思うのね。あの絵、かほりちゃん、何を描いてたの?」
かほりは自分の中で答えを探しながら答えているようだ。
「ただ、なんとなくこんな風に描いたら面白いかなって」
多分嘘ではないのだろう。でも、もっと込められたものはあるはずだ。
「あの絵は誰を描いてたの?」
「忘れちゃいました」
はぐらかしている風な返事だ。
「よく思い出して」
かほりはしばらく黙り込んだ。
私は威圧しないよう、極力優しい表情を作って見つめ、付け加えた。
「もう半年以上前のことだと思うんだけど、あの絵を描いた時のこと、良かったら話してくれないかな」
「え~、あんまり覚えてないです」
「大丈夫。かほりちゃんはちゃんと覚えているから。ちょっと深呼吸から入りましょう。ゆっくりと吸って、ゆっくりと吐いて」
「はい」
そして、意図的に低めの声で......ゆっくりとした口調で誘導していく。
「リラックスしながら、思い出していきましょう。僕がかほりちゃんについています。力を抜いて。深呼吸しながらあの日の記憶に少しずつ触れていきましょう。ゆっくりと。あの日のこと......どんなところからでもいいので、話してください」
後はただ待つのみだ。時間にして3分以上......体感的には5分くらいの沈黙があったかもしれない。かほりはゆっくりと語りだした。
込められたメッセージ
「あの日......確か、夜......そう。その日も私切っちゃったんですよね。あの日の夜、それまであんまりなかったんですけど、久しぶりにお父さんと母さんが言い合ってて。私は部屋で一人で布団に入っていました。部屋の向こうからお父さんが『かほりをもっと自由にさせてやれ』とか、そんなだったと思うんですけど、お母さんに言ってて。お父さん、私にはすごく優しいんです。でも、お母さんには怒ってばかりいて。いつもはお母さん、言われると、しゅんってなっちゃうんですけど、あの時は、なんでか、言い返してたんです。『私ばっかり悪いみたいに言わないでよ』みたいに」
「!」
かほりの話を聞きながら、私の記憶が蘇る。前にここで母親から聞いた台詞だ。
かほりは続けた。
「お父さんがすごく怒ってて、お母さんは泣いてて。私、布団の中にくるまって聞こえないようにしてたんです。でも、どうしても聞こえてきて。それで、どうしても嫌で絵を描いて集中して聞こえないようにしようって思って。何でもいいから描こうって思って描き始めたんですけど、いつの間にかあんな絵になってて。それで、お父さんがお母さんを怒鳴る度に、絵に描いた女の子に刃物を刺していきました。そしたらなんか分からないけど、途中から、すごく楽しくなってきて...、それで机の中からカッターを取り出して......血で、絵に色を付けちゃったんです」
あの絵の、モノトーンの上に赤黒く塗られた血。スマホのカメラで撮られた写真の画像では判らなかったが、あれはかほりの本物の血だったのだ。
私はその場面を想像してとても胸が締め付けられる思いがした。
そして、母親は実物の絵を見ている。もしかしたら気づいていたのではないか?
「かほりちゃん、よく話してくれました。そしてかほりちゃんがお母さんにリスカのことを知られたくない理由も分かりました。かほりちゃん、お母さんのことが大好きなんだね」
かほりはキョトンとしている。
「かほりちゃんがあの絵に込めた思いは二つ。ひとつは、あの絵にはかほりちゃんの苦しみが描かれていた。やっぱりかほりちゃん、こんなに苦しいんだって分かってほしい気持ちがあるんだと思う。でも、かほりちゃんは直接リスカしていることを言えない。でも、気づいて欲しい。だから、あの絵をお母さんに見えるところに置いたんだと思う」
かほりは無表情なままだ。
「僕もお母さんもここまでは考えたんだ。かほりちゃんの苦しみが絵にこめられてるってね。でも、あのとき、僕たちはお母さんがかほりちゃんを心の底から甘えさせてあげられるようにっていう方向にセッションを持って行っちゃったのね。お母さんのかほりちゃんへの関わり方を改善しようと。でも、本当はかほりちゃんが送っているメッセージをもっと深く読み解く必要があったと思うの」
かほりは私と目を合わせない。
「かほりちゃんがあの絵で伝えたかったもう一つのメッセージ。あの絵は、かほりちゃんの苦痛だけじゃない。もっとかほりちゃんにとって重要なメッセージが込められていたと思う。あの女の子......」
私は一呼吸おいてから言った。
「お母さんだったんだね。お母さんに、『お母さんが死んじゃうよ』って伝えたかったんじゃない?」
相変わらず無表情なまま視線を机の上に落としているかほり。......?。確かに顔の表情は変わらない。しかし、表情の変わらないかほりの目から涙が自然と零れ落ちて、かほりの顔の下半分を覆っているマスクに染み込んでいく。そのことにかほりは気づいていない。
「そして、かほりちゃんがお母さんにリスカしてることを言いたくない理由......それはお母さんっていうより、お父さんにバレるのが怖いんじゃない?」
「......」
「お父さんにバレることで、またお母さんが怒られる。それが怖い......違う?」
「......」
「そして最近リスカが止められなくなっちゃったことで、バレそうで怖くなってきた。だから今日どうしてもどうにかしたくて、僕に話してくれたんだね。本当に本当に怖かったね。よく今まで耐えてきたね」
その瞬間、かほりは声を上げて泣き崩れた。
「かほりちゃんは自分のことよりもお母さんが心配なんだね。お母さんを守りたいんだね」
かほりは顔をぐしゃぐしゃにしながら、何度も頷いた。
かほりの涙が収まるまでしばらく待っているとかほりは自ら言った。
「お母さん、いつもお父さんに怒られてばかりで、かわいそうなんです。お父さん、私にはあんなに優しいのに、なんでお母さんには怒ってばかりなんだろう」
私は聞く。
「かほりちゃん、いつもお父さんは優しいって言うね。でも、お父さんが家にいると緊張しちゃうのは、お父さんがお母さんを怒るからなんだね」
「はい」
「かほりちゃんはお父さんにかほりちゃんにするのと同じようにお母さんにも優しくしてほしい?」
「そこまで言わないですけど、怒らないでほしいです」
「僕、かほりちゃんがエネルギータンクがいっつも空っぽなのはやっぱり家の中がずっと緊張状態で、補給できないからだと思っているのね。それを改善したいと思うんだ」
「そんなの無理と思います」
「かほりちゃん、君が不登校になってくれたこと、坂部家にとってはとってもありがたいことなんだよ。かほりちゃんが、『こんなのおかしい』って全身で訴えてるんだと思う。それはとっても正しいこと。かほりちゃんは家で安全に、安心して過ごす権利があって、それは本来絶対に守られないといけないものなのね。その権利が侵されてるんだもん。こんなの絶対おかしいんです」
かほりは黙って聞いている。
「ね、今までかほりちゃんの心にエネルギーを溜めてもらう目的でリゾネイティングをしてきたんだけど、今度、かほりちゃんがお母さんに愛情エネルギーを送ることにしてみない?」
かほりは少し驚いたような表情だ。
「坂部家の歪な夫婦関係って、お父さんとお母さんのパワーバランスが対等じゃないから起こってるのね。お母さんにエネルギーを貯めてもらうことで、バランスを取り戻せるかもしれない」
そう伝えるとかほりは少し笑顔を作って「はい」と頷いた。
ほどなくしてインターホンが鳴る。母親が迎えに来た合図だ。私は立ち上がり、インターホン越しに返事をして母親を迎え入れる。
入室した母親は柔和な表情でかほりに聞く。
「ちゃんと話したいこと話せた?」
声のトーンからも優しさを感じる。
「うん」
かほりは少し照れたように返事をした。
二人を見送った後、私はいつものようにコーヒーを飲みながらパソコンに向かい、今しがた終わったばかりの面接を振り返る。
普段言い返さなかった母親が父親に反論したのは、多分、かほりが抵抗を示して来れなかった日。私と母親との初回面接の後だ。あのとき、母親は言い返したい気持ちをここで話してくれた。それは不満のガス抜きが目的であったが、それが、家での行動を変え、父親からの更なる反撃を受けた可能性がある。
そして、かほりがリスカのことを話してほしくないのは母親を父親から守りたかったから。
これらのことを記録に落とし込み、アセスメントして方針を練る。
アセスメント
・夫婦間葛藤が家の中に緊張感をもたらし、それがかほりの安心感を棄損し、心理的なエネルギーの補充の妨げになっている。
方針
・かほりと母親との合同面接でかほりから母親を力づけることにより、夫婦のパワーバランスを回復し、家庭内の緊張感を下げる。
ーーーーーーー
「!」
かほりの話を聞きながら、私の記憶が蘇る。前にここで母親から聞いた台詞だ。
かほりは続けた。
「お父さんがすごく怒ってて、お母さんは泣いてて。私、布団の中にくるまって聞こえないようにしてたんです。でも、どうしても聞こえてきて。それで、どうしても嫌で絵を描いて集中して聞こえないようにしようって思って。何でもいいから描こうって思って描き始めたんですけど、いつの間にかあんな絵になってて。それで、お父さんがお母さんを怒鳴る度に、絵に描いた女の子に刃物を刺していきました。そしたらなんか分からないけど、途中から、すごく楽しくなってきて...、それで机の中からカッターを取り出して......血で、絵に色を付けちゃったんです」
あの絵の、モノトーンの上に赤黒く塗られた血。スマホのカメラで撮られた写真の画像では判らなかったが、あれはかほりの本物の血だったのだ。
私はその場面を想像してとても胸が締め付けられる思いがした。
そして、母親は実物の絵を見ている。もしかしたら気づいていたのではないか?
「かほりちゃん、よく話してくれました。そしてかほりちゃんがお母さんにリスカのことを知られたくない理由も分かりました。かほりちゃん、お母さんのことが大好きなんだね」
かほりはキョトンとしている。
「かほりちゃんがあの絵に込めた思いは二つ。ひとつは、あの絵にはかほりちゃんの苦しみが描かれていた。やっぱりかほりちゃん、こんなに苦しいんだって分かってほしい気持ちがあるんだと思う。でも、かほりちゃんは直接リスカしていることを言えない。でも、気づいて欲しい。だから、あの絵をお母さんに見えるところに置いたんだと思う」
かほりは無表情なままだ。
「僕もお母さんもここまでは考えたんだ。かほりちゃんの苦しみが絵にこめられてるってね。でも、あのとき、僕たちはお母さんがかほりちゃんを心の底から甘えさせてあげられるようにっていう方向にセッションを持って行っちゃったのね。お母さんのかほりちゃんへの関わり方を改善しようと。でも、本当はかほりちゃんが送っているメッセージをもっと深く読み解く必要があったと思うの」
かほりは私と目を合わせない。
「かほりちゃんがあの絵で伝えたかったもう一つのメッセージ。あの絵は、かほりちゃんの苦痛だけじゃない。もっとかほりちゃんにとって重要なメッセージが込められていたと思う。あの女の子......」
私は一呼吸おいてから言った。
「お母さんだったんだね。お母さんに、『お母さんが死んじゃうよ』って伝えたかったんじゃない?」
相変わらず無表情なまま視線を机の上に落としているかほり。......?。確かに顔の表情は変わらない。しかし、表情の変わらないかほりの目から涙が自然と零れ落ちて、かほりの顔の下半分を覆っているマスクに染み込んでいく。そのことにかほりは気づいていない。
「そして、かほりちゃんがお母さんにリスカしてることを言いたくない理由......それはお母さんっていうより、お父さんにバレるのが怖いんじゃない?」
「......」
「お父さんにバレることで、またお母さんが怒られる。それが怖い......違う?」
「......」
「そして最近リスカが止められなくなっちゃったことで、バレそうで怖くなってきた。だから今日どうしてもどうにかしたくて、僕に話してくれたんだね。本当に本当に怖かったね。よく今まで耐えてきたね」
その瞬間、かほりは声を上げて泣き崩れた。
「かほりちゃんは自分のことよりもお母さんが心配なんだね。お母さんを守りたいんだね」
かほりは顔をぐしゃぐしゃにしながら、何度も頷いた。
かほりの涙が収まるまでしばらく待っているとかほりは自ら言った。
「お母さん、いつもお父さんに怒られてばかりで、かわいそうなんです。お父さん、私にはあんなに優しいのに、なんでお母さんには怒ってばかりなんだろう」
私は聞く。
「かほりちゃん、いつもお父さんは優しいって言うね。でも、お父さんが家にいると緊張しちゃうのは、お父さんがお母さんを怒るからなんだね」
「はい」
「かほりちゃんはお父さんにかほりちゃんにするのと同じようにお母さんにも優しくしてほしい?」
「そこまで言わないですけど、怒らないでほしいです」
「僕、かほりちゃんがエネルギータンクがいっつも空っぽなのはやっぱり家の中がずっと緊張状態で、補給できないからだと思っているのね。それを改善したいと思うんだ」
「そんなの無理と思います」
「かほりちゃん、君が不登校になってくれたこと、坂部家にとってはとってもありがたいことなんだよ。かほりちゃんが、『こんなのおかしい』って全身で訴えてるんだと思う。それはとっても正しいこと。かほりちゃんは家で安全に、安心して過ごす権利があって、それは本来絶対に守られないといけないものなのね。その権利が侵されてるんだもん。こんなの絶対おかしいんです」
かほりは黙って聞いている。
「ね、今までかほりちゃんの心にエネルギーを溜めてもらう目的でリゾネイティングをしてきたんだけど、今度、かほりちゃんがお母さんに愛情エネルギーを送ることにしてみない?」
かほりは少し驚いたような表情だ。
「坂部家の歪な夫婦関係って、お父さんとお母さんのパワーバランスが対等じゃないから起こってるのね。お母さんにエネルギーを貯めてもらうことで、バランスを取り戻せるかもしれない」
そう伝えるとかほりは少し笑顔を作って「はい」と頷いた。
ほどなくしてインターホンが鳴る。母親が迎えに来た合図だ。私は立ち上がり、インターホン越しに返事をして母親を迎え入れる。
入室した母親は柔和な表情でかほりに聞く。
「ちゃんと話したいこと話せた?」
声のトーンからも優しさを感じる。
「うん」
かほりは少し照れたように返事をした。
二人を見送った後、私はいつものようにコーヒーを飲みながらパソコンに向かい、今しがた終わったばかりの面接を振り返る。
普段言い返さなかった母親が父親に反論したのは、多分、かほりが抵抗を示して来れなかった日。私と母親との初回面接の後だ。あのとき、母親は言い返したい気持ちをここで話してくれた。それは不満のガス抜きが目的であったが、それが、家での行動を変え、父親からの更なる反撃を受けた可能性がある。
そして、かほりがリスカのことを話してほしくないのは母親を父親から守りたかったから。
これらのことを記録に落とし込み、アセスメントして方針を練る。
アセスメント
・夫婦間葛藤が家の中に緊張感をもたらし、それがかほりの安心感を棄損し、心理的なエネルギーの補充の妨げになっている。
方針
・かほりと母親との合同面接でかほりから母親を力づけることにより、夫婦のパワーバランスを回復し、家庭内の緊張感を下げる。
ーーーーーーー