『こころ日誌・リライト』③
こころ日誌・リライト
ピノ
9月に入っても、夏の暑さは少しもその猛威をやわらげる気はなさそうだ。新学期を迎える9月1日は防災の日である。1世紀前に起きた関東大震災の教訓を忘れず災害に備える日である。しかし、学校関係者にとっては他の理由で恐怖を駆り立てられる日でもある。中高生の自殺が一番増えるのが長期休みが明けたこの9月1日なのだ。私もスクールカウンセラーをしていたころから、毎年この日を戦々恐々として迎えていた。それはスクールカウンセラーを辞めて相談室を独立開業した今も変わらない。私の相談室に通ってくるクライアントにも中高生はいる。そしてその中には「死にたい」と訴える子も。そのことを思うとやはり心配は尽きない。そんな中高生の一人が坂部かほりである。
20XX+1年9月11日 かほり#18 母親#12
突き刺すような陽射しから相談室に逃げ込むように入ってきたかほりとその母親を迎え入れると、私はいつも通り茶菓子を出して迎える。新学期に入り、かほりは久しぶりのセーラー服を着ての来談、母親は薄手のブラウスにスカートといういで立ちだ。母親は額に浮かべた汗をハンカチで拭っている。
この日はたまたま冷蔵庫にピノが入っていたので、
「いつもクッキーをお出ししていますが、今日はピノがありますけど、いかがですか?」
と問いかけた。
母親は
「お構い頂かなくて結構ですよ」
と言うが、私は
「この暑さです。冷えた甘いものは美味しいですよ」
と言って、ピノを一つずつ皿の上に爪楊枝を添えて置き、盆に乗せる。更にグラスに氷を入れて、ウーロン茶と一緒に二人の前に差し出した。
「どうぞ」
と笑顔で言うと
「ありがとうございます」
と母親。
ここで少々びっくりなことが起きた。
かほりがピノに爪楊枝を刺したかと思うと、マスクを下げて、口の中に入れたのだ。
正直何も考えていなかった。これまでもずっとかほりに茶菓子を出してきたが手が付けられたことはない。いつも残して帰り、その後クッキーは私の腹の中に納まるのがある意味お決まりとなっていた。今回出したのがアイスクリームという、すぐに食べないと溶けてしまうものだからなのか、暑かったからなのかは分からない。しかしかほりは確かにマスクを下げて、食べた。このとき、私は初めてマスクを下げたかほりの顔を見たのだ。母親によく似ているという印象を持ったのも束の間、一瞬でまたマスクをしてしまう。しかし、私の前で自然とマスクを下げて顔を見せてくれたのが嬉しくて、私は笑顔を作り、
「おいしい?」
と問いかける。
するとかほりは照れ臭そうに母親の方に頭をもたれさせた。
私の目にはその仕草がとても微笑ましく映る。
「あ、お母さんもどうぞ」
と勧めると、
「じゃ、失礼します」
と言って母親もピノに手を伸ばした。
「新学期が始まりましたね」
私から話を振ると、
「始まりましたよ。どうかなって思ってたんですが、やっぱり行けたり行けなかったりですね」
と、かほりではなく、母親が答える。
―――まぁ、相変わらずだなぁ。
母親は、
「行くときは自分で用意して出ていくし、行けないときは朝ずっとトイレに籠ってるしで。私も仕事もあるし、本人に任せちゃってます。行けないときは相変わらず絵を描いてるよね」
と、近況報告のように伝えてくれる。
だが、学校に行けないことに関して、母親から以前のような重い雰囲気を感じない。
と、母親は表情を改め、私の方を向いた。
「実は…、この子から聞きました。リストカットしてしまうって」
―――えっ?
かほりが顔を見せてくれたことに続いて、ここでもびっくりさせられた。
前回あんなに母親に知られるのを恐れていたのに。
「かほりちゃん、自分でお母さんに話したの?」
かほりは頷いた。
「え~!ちょっとびっくりしました。どうしたんですか?」
かほりがモジモジとしているのを見て、やはりここでも母親が代わりに答えた。
「夏休みの最後の日、明日から制服嫌だなって言うんです。それで理由を聞くと、半袖だからって。そんな話の流れで、『切っちゃうから』ってこの子から話してくれました」
「そうだったんだね。そのことを聞いて、お母さん、どんな風に思われました?」
かほりの前で母親に気持ちを聞くのも気が引ける部分もあったが、今日の母子の様子から見るに、そこまで否定的な答えは返ってこないだろうという予測のもとの質問であった。しかし、母親の答えは私の予測の範疇を超えていた。
「いえ、ちょっとそうかなっていうのは思っていましたので、話してくれて良かったって思いました。それに......」
少し言いよどんでから母親は続ける。
「実は、私も昔そういうことしてた時期があったんです」
―――え~!
今日はびっくりすることばっかりだ...。
私の驚きを他所に、母親は続けた。
「ずっと忘れていました。でも、以前にお見せしたこの子の描いた絵を見たとき、そのことも前回ここで話したんですよね。あの絵を見たとき、なんか全部思い出したんです。......そういえば私、若いころリスカしてたなって」
急に予想外の告白をされて、私も驚いたが、かほりも隣で驚いた表情を浮かべている。母親もこの告白は勇気が要るだろう。間を取りつつ、言葉を選んでいるようだ。
20XX+1年9月11日 かほり#18 母親#12
突き刺すような陽射しから相談室に逃げ込むように入ってきたかほりとその母親を迎え入れると、私はいつも通り茶菓子を出して迎える。新学期に入り、かほりは久しぶりのセーラー服を着ての来談、母親は薄手のブラウスにスカートといういで立ちだ。母親は額に浮かべた汗をハンカチで拭っている。
この日はたまたま冷蔵庫にピノが入っていたので、
「いつもクッキーをお出ししていますが、今日はピノがありますけど、いかがですか?」
と問いかけた。
母親は
「お構い頂かなくて結構ですよ」
と言うが、私は
「この暑さです。冷えた甘いものは美味しいですよ」
と言って、ピノを一つずつ皿の上に爪楊枝を添えて置き、盆に乗せる。更にグラスに氷を入れて、ウーロン茶と一緒に二人の前に差し出した。
「どうぞ」
と笑顔で言うと
「ありがとうございます」
と母親。
ここで少々びっくりなことが起きた。
かほりがピノに爪楊枝を刺したかと思うと、マスクを下げて、口の中に入れたのだ。
正直何も考えていなかった。これまでもずっとかほりに茶菓子を出してきたが手が付けられたことはない。いつも残して帰り、その後クッキーは私の腹の中に納まるのがある意味お決まりとなっていた。今回出したのがアイスクリームという、すぐに食べないと溶けてしまうものだからなのか、暑かったからなのかは分からない。しかしかほりは確かにマスクを下げて、食べた。このとき、私は初めてマスクを下げたかほりの顔を見たのだ。母親によく似ているという印象を持ったのも束の間、一瞬でまたマスクをしてしまう。しかし、私の前で自然とマスクを下げて顔を見せてくれたのが嬉しくて、私は笑顔を作り、
「おいしい?」
と問いかける。
するとかほりは照れ臭そうに母親の方に頭をもたれさせた。
私の目にはその仕草がとても微笑ましく映る。
「あ、お母さんもどうぞ」
と勧めると、
「じゃ、失礼します」
と言って母親もピノに手を伸ばした。
「新学期が始まりましたね」
私から話を振ると、
「始まりましたよ。どうかなって思ってたんですが、やっぱり行けたり行けなかったりですね」
と、かほりではなく、母親が答える。
―――まぁ、相変わらずだなぁ。
母親は、
「行くときは自分で用意して出ていくし、行けないときは朝ずっとトイレに籠ってるしで。私も仕事もあるし、本人に任せちゃってます。行けないときは相変わらず絵を描いてるよね」
と、近況報告のように伝えてくれる。
だが、学校に行けないことに関して、母親から以前のような重い雰囲気を感じない。
と、母親は表情を改め、私の方を向いた。
「実は…、この子から聞きました。リストカットしてしまうって」
―――えっ?
かほりが顔を見せてくれたことに続いて、ここでもびっくりさせられた。
前回あんなに母親に知られるのを恐れていたのに。
「かほりちゃん、自分でお母さんに話したの?」
かほりは頷いた。
「え~!ちょっとびっくりしました。どうしたんですか?」
かほりがモジモジとしているのを見て、やはりここでも母親が代わりに答えた。
「夏休みの最後の日、明日から制服嫌だなって言うんです。それで理由を聞くと、半袖だからって。そんな話の流れで、『切っちゃうから』ってこの子から話してくれました」
「そうだったんだね。そのことを聞いて、お母さん、どんな風に思われました?」
かほりの前で母親に気持ちを聞くのも気が引ける部分もあったが、今日の母子の様子から見るに、そこまで否定的な答えは返ってこないだろうという予測のもとの質問であった。しかし、母親の答えは私の予測の範疇を超えていた。
「いえ、ちょっとそうかなっていうのは思っていましたので、話してくれて良かったって思いました。それに......」
少し言いよどんでから母親は続ける。
「実は、私も昔そういうことしてた時期があったんです」
―――え~!
今日はびっくりすることばっかりだ...。
私の驚きを他所に、母親は続けた。
「ずっと忘れていました。でも、以前にお見せしたこの子の描いた絵を見たとき、そのことも前回ここで話したんですよね。あの絵を見たとき、なんか全部思い出したんです。......そういえば私、若いころリスカしてたなって」
急に予想外の告白をされて、私も驚いたが、かほりも隣で驚いた表情を浮かべている。母親もこの告白は勇気が要るだろう。間を取りつつ、言葉を選んでいるようだ。
母親の告白
「この子の前でこんなこと言うのもなんですが、私若いころずっと死にたいって思ってたんです。それで、かほりが生まれるくらいまで主人に隠れて切っていました。でも、かほりが生まれて、産後うつになって、一時期、本当に死ぬことばかり考えてたんです。そうなると切る気も起きなくなったと言うか。気づいたらしなくなっていました。本当にリスカしてたこと、ほとんど忘れていたというか、考えることなかったんです」
―――こんな話…かほりに聞かせて大丈夫なんだろうか。
止めた方が良い?
だが、今止めたとして、家に帰って続きをしないとも限らない。それよりは…。
思考を巡らせつつ、結局私は何も言わず傾聴を続けた。
「前回、ここで消毒してくださったって聞きました。この子嬉しかったみたいです」
私はかほりの方に視線を向ける。母親のリスカの告白をどう消化していいのか分からない様子で目を泳がせていたが、急に自分の話を振られて照れたのか、はたまた母親の告白を聞いて不安になったのか分からない。母親の方に頭をもたれさせて甘える仕草を見せた。
しかしそれに対する母親の様子は少し今までと違った。かほりの甘えに応えるようではなく、机の上に置いたカレンダー辺りの空間を眺めながらつぶやくように言う。
「私にはそういう風に手当てしてくれる人、いなかったなぁ」
ついさっきまではかほりの甘えを受け入れており、微笑ましい感じだったが、少し雰囲気が違う。これは......。私は即座に言った。
「かほりちゃん、今、お母さんの肩から頭離さないで」
かほりも母親も私がこれまでの柔和な感じから、急に声に緊張の色合いを含ませたことに驚いている様子だ。
私は続ける。
「お母さん、今お母さんの肩にかほりちゃんの頭が乗っています。背中にはかほりちゃんの体が当たってるの、分かりますか?」
「はい」
母親は戸惑いを見せながら答える。
「その感じ、よぉく感じてください。肩に乗っているかほりちゃんの頭、背中に当たっている体からかほりちゃんの体温を感じましょう」
エアコンが効いた部屋では、ブラウスを通してかほりの体温は伝わりやすいはずだ。私は更に続けた。
「かほりちゃんもお母さんの体温を感じていきましょう。そしてお互いに呼吸を感じていきましょう。ゆったりと深呼吸して。今二人が触れ合っている部分から、感じられるお互いの発しているメッセージ、なんでも受け取っていきましょう」
このようにお互いの接触を十分に感じる時間を取ってから、更に私は続けた。
「かほりちゃん、いつもお母さんからもらっている安心する気持ち、今はかほりちゃんからお母さんに送ってあげて」
次に母親に向けて言う。
「お母さん、今、かほりちゃんがお母さんに今までお母さんがかほりちゃんに与えてくれたたくさんの安心、精一杯返してくれています。かほりちゃんがお母さんにピタッとくっついてくれる安心感、お母さんの体でしっかりと感じていきましょう。ゆったりと深呼吸しながら、かほりちゃんに安心をもらって気持ちをリラックスさせていきましょう」
母親は依然として卓上カレンダーを見つめたままだ。
「ご自身の傷を消毒してくれる人がいなかった......そのことを思い出すと今どんな気持ちですか?」
「えぇ......なんでしょう。やっぱり寂しかったですね」
「その気持ち......ちょっと味わってみましょう。でも、今はかほりちゃんがお母さんに安心を送ってくれています」
「あ......はい」
私の教示を受け入れたような返事をするが、その表情は眉と目じりに力が入り苦痛に耐えているように見える。
「その寂しい気持ち......味わっていると、体はどんな感じがしますか?胸が苦しいとか、お腹が痛いとか」
「胸から、お腹にかけてですか。キューっと絞られる感じと言うか」
以前もそうだったが、母親は体の感覚を言語化することに関して上手に伝えてくれる。
「その感じ、MAXで辛くて耐えられない状態が10、全然平気な状態が0だとしたら、今いくつくらいですか?」
「8くらいです」
「教えてくれてありがとうございます。よく味わっていきましょう」
しばらく感情を味わうための間を取る。
「イメージしてみてください。お母さんの胸からお腹にかけて......寂しいっていう気持ちが締め付けています。とっても寂しい。でも今、お母さんのそばにかほりちゃんがいてくれて、お母さんに精一杯優しい気持ちを送ってくれています。お母さんの肩や背中の感覚を通してかほりちゃんの優しい気持ちがお母さんの中に入ってくる。どんどん流れ込んでくる。かほりちゃんの優しい気持ちが流れ込んできて、お母さんの胸からお腹にかけて締め付けている寂しい気持ち、孤独な気持ちをどんどん中和していきます。どんどん中和していきます。今お母さんはかほりちゃんの愛情をいっぱい受けて、寂しい気持ちがどんどん中和されています。体の感覚をよく感じてください。ゆっくりでいいですよ。寂しい気持ちが中和されていくのを感じてください」
次に私はかほりにも話を振る。
「かほりちゃんも、お母さんにいっぱい愛情の気持ち、安心する気持ちを送ってあげてね。その気持ちがお母さんの寂しさを癒していくのを一緒にイメージしていきましょう。そして、お母さんとかほりちゃんのイメージが重なっていると強く信じてください。そう、お母さんの寂しい気持ちがどんどんかほりちゃんからの愛情で癒されていく…」
更に間を取る。
しばらく私は黙って二人の様子を見つめていた。いつの間にか母親はカレンダーを見つめるのをやめ、目を閉じていた。自身の気持ちと戦っているんだろう。その横でかほりは目を開いてじっと母親に密着している。
「今、胸からお腹にかけて、締め付けられる感じ、数字で言うといくつくらいですか?」
「3か4くらいです」
「とてもいいですね。最初に比べて楽になってきました。かほりちゃん、かほりちゃんのおかげで、お母さん、寂しさが和らいできたって。もっと愛情と優しさを送ってあげてね」
「ハイ」
私は自身もリラックス呼吸を意識しながら母親の表情や、呼吸に連動する胸の上下動をつぶさに観察する。
「お母さんの呼吸が少しずつ落ち着いてきました。かほりちゃんが安心感をいっぱい送ってくれるおかげで、深い呼吸が楽にできるようになってきます」
こうガイダンスしながら、更に様子を観察し、ときおり「いいですね、いいですね」と勇気づけながら見守る。
母親の表情や呼吸が大分落ち着いてきたのが見て取れたので質問する。
「いかがですか?」
「大分楽になりました」
「数字で言うと?」
「1か2くらいです」
「いいですね。では、お母さん、目を閉じたまま、今の体験をもう一度振り返っていきましょう。自分がリストカットしてしまっていた時、誰も助けてくれなかった。そのことを考えると、とても寂しい気持ちがした。でも、かほりちゃんからしっかりと愛情をもらって、大分楽になれた。この感覚、今一度よく味わって。お母さんの中にしっかりと落とし込んでいきましょう。しっかりと落とし込んで」
しばらく間を取る。
「しっかりと癒される感覚がお母さんの中に落とし込まれるのを感じたら、お母さんのタイミングで目を開けて、今ここに戻ってきてください」
しばらくジーっと余韻に浸っていた様子だが、やがて、母親はゆっくりと目を開けた。
「では、しっかりと伸びをしていきましょう。体を伸ばして」
私も自分で言いながらストレッチするように両手を上げて、体を伸ばす。それを見て母親もそれに従った。
「かほりちゃんもしっかり体を伸ばして」と私が言うと、かほりもそれに従う。
私はつづけて母親に聞いた。
「今ご気分はいかがですか?」
「なにか、温かくなりました」
「かほりちゃん、お母さん、あったかい気持ちになれたって。かほりちゃんのおかげです。ありがとうね」
かほりが照れるように笑うと、母親もかほりの方を見て「ありがとうね」と優しく言った。
時間が終了に近づいていた。
―――こんな話…かほりに聞かせて大丈夫なんだろうか。
止めた方が良い?
だが、今止めたとして、家に帰って続きをしないとも限らない。それよりは…。
思考を巡らせつつ、結局私は何も言わず傾聴を続けた。
「前回、ここで消毒してくださったって聞きました。この子嬉しかったみたいです」
私はかほりの方に視線を向ける。母親のリスカの告白をどう消化していいのか分からない様子で目を泳がせていたが、急に自分の話を振られて照れたのか、はたまた母親の告白を聞いて不安になったのか分からない。母親の方に頭をもたれさせて甘える仕草を見せた。
しかしそれに対する母親の様子は少し今までと違った。かほりの甘えに応えるようではなく、机の上に置いたカレンダー辺りの空間を眺めながらつぶやくように言う。
「私にはそういう風に手当てしてくれる人、いなかったなぁ」
ついさっきまではかほりの甘えを受け入れており、微笑ましい感じだったが、少し雰囲気が違う。これは......。私は即座に言った。
「かほりちゃん、今、お母さんの肩から頭離さないで」
かほりも母親も私がこれまでの柔和な感じから、急に声に緊張の色合いを含ませたことに驚いている様子だ。
私は続ける。
「お母さん、今お母さんの肩にかほりちゃんの頭が乗っています。背中にはかほりちゃんの体が当たってるの、分かりますか?」
「はい」
母親は戸惑いを見せながら答える。
「その感じ、よぉく感じてください。肩に乗っているかほりちゃんの頭、背中に当たっている体からかほりちゃんの体温を感じましょう」
エアコンが効いた部屋では、ブラウスを通してかほりの体温は伝わりやすいはずだ。私は更に続けた。
「かほりちゃんもお母さんの体温を感じていきましょう。そしてお互いに呼吸を感じていきましょう。ゆったりと深呼吸して。今二人が触れ合っている部分から、感じられるお互いの発しているメッセージ、なんでも受け取っていきましょう」
このようにお互いの接触を十分に感じる時間を取ってから、更に私は続けた。
「かほりちゃん、いつもお母さんからもらっている安心する気持ち、今はかほりちゃんからお母さんに送ってあげて」
次に母親に向けて言う。
「お母さん、今、かほりちゃんがお母さんに今までお母さんがかほりちゃんに与えてくれたたくさんの安心、精一杯返してくれています。かほりちゃんがお母さんにピタッとくっついてくれる安心感、お母さんの体でしっかりと感じていきましょう。ゆったりと深呼吸しながら、かほりちゃんに安心をもらって気持ちをリラックスさせていきましょう」
母親は依然として卓上カレンダーを見つめたままだ。
「ご自身の傷を消毒してくれる人がいなかった......そのことを思い出すと今どんな気持ちですか?」
「えぇ......なんでしょう。やっぱり寂しかったですね」
「その気持ち......ちょっと味わってみましょう。でも、今はかほりちゃんがお母さんに安心を送ってくれています」
「あ......はい」
私の教示を受け入れたような返事をするが、その表情は眉と目じりに力が入り苦痛に耐えているように見える。
「その寂しい気持ち......味わっていると、体はどんな感じがしますか?胸が苦しいとか、お腹が痛いとか」
「胸から、お腹にかけてですか。キューっと絞られる感じと言うか」
以前もそうだったが、母親は体の感覚を言語化することに関して上手に伝えてくれる。
「その感じ、MAXで辛くて耐えられない状態が10、全然平気な状態が0だとしたら、今いくつくらいですか?」
「8くらいです」
「教えてくれてありがとうございます。よく味わっていきましょう」
しばらく感情を味わうための間を取る。
「イメージしてみてください。お母さんの胸からお腹にかけて......寂しいっていう気持ちが締め付けています。とっても寂しい。でも今、お母さんのそばにかほりちゃんがいてくれて、お母さんに精一杯優しい気持ちを送ってくれています。お母さんの肩や背中の感覚を通してかほりちゃんの優しい気持ちがお母さんの中に入ってくる。どんどん流れ込んでくる。かほりちゃんの優しい気持ちが流れ込んできて、お母さんの胸からお腹にかけて締め付けている寂しい気持ち、孤独な気持ちをどんどん中和していきます。どんどん中和していきます。今お母さんはかほりちゃんの愛情をいっぱい受けて、寂しい気持ちがどんどん中和されています。体の感覚をよく感じてください。ゆっくりでいいですよ。寂しい気持ちが中和されていくのを感じてください」
次に私はかほりにも話を振る。
「かほりちゃんも、お母さんにいっぱい愛情の気持ち、安心する気持ちを送ってあげてね。その気持ちがお母さんの寂しさを癒していくのを一緒にイメージしていきましょう。そして、お母さんとかほりちゃんのイメージが重なっていると強く信じてください。そう、お母さんの寂しい気持ちがどんどんかほりちゃんからの愛情で癒されていく…」
更に間を取る。
しばらく私は黙って二人の様子を見つめていた。いつの間にか母親はカレンダーを見つめるのをやめ、目を閉じていた。自身の気持ちと戦っているんだろう。その横でかほりは目を開いてじっと母親に密着している。
「今、胸からお腹にかけて、締め付けられる感じ、数字で言うといくつくらいですか?」
「3か4くらいです」
「とてもいいですね。最初に比べて楽になってきました。かほりちゃん、かほりちゃんのおかげで、お母さん、寂しさが和らいできたって。もっと愛情と優しさを送ってあげてね」
「ハイ」
私は自身もリラックス呼吸を意識しながら母親の表情や、呼吸に連動する胸の上下動をつぶさに観察する。
「お母さんの呼吸が少しずつ落ち着いてきました。かほりちゃんが安心感をいっぱい送ってくれるおかげで、深い呼吸が楽にできるようになってきます」
こうガイダンスしながら、更に様子を観察し、ときおり「いいですね、いいですね」と勇気づけながら見守る。
母親の表情や呼吸が大分落ち着いてきたのが見て取れたので質問する。
「いかがですか?」
「大分楽になりました」
「数字で言うと?」
「1か2くらいです」
「いいですね。では、お母さん、目を閉じたまま、今の体験をもう一度振り返っていきましょう。自分がリストカットしてしまっていた時、誰も助けてくれなかった。そのことを考えると、とても寂しい気持ちがした。でも、かほりちゃんからしっかりと愛情をもらって、大分楽になれた。この感覚、今一度よく味わって。お母さんの中にしっかりと落とし込んでいきましょう。しっかりと落とし込んで」
しばらく間を取る。
「しっかりと癒される感覚がお母さんの中に落とし込まれるのを感じたら、お母さんのタイミングで目を開けて、今ここに戻ってきてください」
しばらくジーっと余韻に浸っていた様子だが、やがて、母親はゆっくりと目を開けた。
「では、しっかりと伸びをしていきましょう。体を伸ばして」
私も自分で言いながらストレッチするように両手を上げて、体を伸ばす。それを見て母親もそれに従った。
「かほりちゃんもしっかり体を伸ばして」と私が言うと、かほりもそれに従う。
私はつづけて母親に聞いた。
「今ご気分はいかがですか?」
「なにか、温かくなりました」
「かほりちゃん、お母さん、あったかい気持ちになれたって。かほりちゃんのおかげです。ありがとうね」
かほりが照れるように笑うと、母親もかほりの方を見て「ありがとうね」と優しく言った。
時間が終了に近づいていた。
ついに来た!
「今日はとっても重い気持ちをお話いただきました。私は今日ここでお話いただけたこと、とても良かったと思っています。でも、この話は今日この部屋を出るときに一旦、お母さんの胸にしまって鍵をかけましょう。今日大分楽になれたようなので、このまま霧散してくれるといいと思いますが、気持ちってそんな簡単なものではないかもしれません。もしまた扱う必要が出てきた時は、ここに持ってきていただいて、ここでしっかりと扱えるといいと思います」
私がこう伝えるのは、家でむやみにトラウマにまつわるネガティブな気持ちが開くと、母親にとって良くないからだ。もちろんそれはかほりの心にも悪影響を及ぼす。
「分かりました」
母親もそう返事をした。
二人を見送ると、ピノが入っていた袋と乗っていた皿、ウーロン茶が入っていたグラスを片付ける。なかなかに濃いセッションだった。私も糖分を補給しようと、冷蔵庫を開け、余っている残り一個のピノの袋を割く。そして中身を口に放り込でんから、パソコンを起動し、記録に取り掛かる。
かほりが初めて顔を見せてくれたこと、母親にリスカのことを自分から伝えたこと。そして母親自身の希死念慮の告白からのリゾネイティング。記録を書きながらこの面接はかほりの不登校が出発点であったが、それはあくまでも入り口であり、主題が母親のトラウマケアに移ってきていることを実感する。
かほりにとって大好きな母親の傷を癒したい気持ちが不登校というSOSとして顕在化したというのが私のケース理解だ。
だが、母親の今回の訴えを聞くに、父親との関係以前から母親には希死念慮があった。「お前にできるはずがない」半年以上前に薪ストーブで燃やした言葉が再び私の頭に呼び起された。
まだ、問題は根深そうだ。
アセスメント
・母親の潜在的なトラウマは想像以上に重く、背景にはやはり母親自身の生育歴がありそう。
・かほりは母親を癒すという役割を得たことで自己価値を感じられている。しかし役割が過剰になりすぎないように注意が必要。
方針
・継続して母親をエンパワーしていく。
・かほりへの負担が重くなり過ぎないように注視する。
―――――――――――――――――――――――
坂部母子の面接から二日後のこと、その日入っていた面接がすべて終了し、私はケースの記録をまとめるためにパソコンに向かっていた。
「ピロ~ン」
電子音とともにメーラーのアイコンに新着メールが入ったことを知らせる「1」という数字が付せられる。私はその知らせが迷惑メールでないことを願い、そしてあわよくば新規の申し込みであることを期待してアイコンをクリックした。
subject「ご相談」 from: Sakabe Tomoko 受信日時:20XX+1年9月13日19:15
そのどちらでもない。
「坂部さんからだ」と思い私はメールを開ける。
「いつもお世話になっております。
次回のカウンセリングですが、主人も来てくれることを了解してくれました。一緒に伺ってもよろしいでしょうか。
お返事お待ちしております。
坂部とも子」
―――!!!
ついにきた!
短いメールを読み終えた私の率直な感想だ。
そいて、普段よりも心臓の鼓動が大きくなっている自分に一瞬遅れて気づいた。
これは、なんとか父親とつながりたい、その思いがようやく叶ったことによる興奮だろうか。
いや、違う。
それよりも、母子を常に緊張状態にさせる父親に対する威圧的なイメージが頭に浮かぶ。それによる緊張感が私の拍動を大きくしていることを誤魔化してはいけない。
そして、父親が一緒に来談した時に起こるであろうことを色々想像する。やはり、母親もかほりも私に父親を責め立てる役割を期待するのだろうか。
そんなことを考えてふと我に返ると、目の前にはまだ書きかけの他のケース記録が,私が再び作業に取り掛かるのを待っている。
「おっと、いけない」
私は氷が溶けてぬるくなったアイスコーヒーのグラスを口に運ぶと、先にそちらの方を片付け、それから先ほど来たメールに対する返信の文面を考える。
Subject「Re: ご相談」 from: 山の香りカウンセリングサービス
送信日時20XX+1年9月13日 19:55
「坂部様
お世話になっております。
次回の旦那さんの来談について、お母さんとかほりちゃんが勇気を出して働きかけてくれたであろうことにとても敬服いたします。
ただ、3人で一緒に来談いただくとなると、60分という時間の組み立てがかなり複雑になり、話の焦点がぼやけてしまうことが懸念されます。そこで、もしよければ、まずはいつものお二人とは別に、旦那さんお一人で来談いただくというのはいかがでしょうか。
お返事いただくようよろしくお願いします。
山の香りカウンセリングサービス代表
榊」
すると、すぐに母親からの返信があった。父親単独での来談となると、また父親と話す必要があるとのことだ。それはそうだろう。その旨を了承し、その後何回かのメールのやり取りをした。その結果、父親との面談は一週間後、次の土曜日である、9月20日となった。父親は仕事が土日休みなのである。9月25日に次回のかほりの予約が入っているのだが、そこもキャンセルはせず、いつもより父親の分料金がかかることも承知してくれた。母親のカウンセリングに対する期待をひしひしと感じる。
ただ、『山の香りカウンセリングサービス』では土曜日のカウンセリングは対面では受けておらず、オンラインのみとなっている。つまり父親とはZoomを使ってカウンセリングすることに決まった。
オンライン面談は料金の当日払いができないため、事前に振り込みをお願いしている。果たして、口座に料金の振り込みが確認されたので、私はZoomのURLをメールで送った。
―――――――――――――――――――――――――――――――
その日、私は今までのケース記録を読み返しつつ、頭の中で母親とかほりから聞いていた父親像を整理していた。
家の中で緊張を作り出している。かほりには優しいが母親に対して攻撃的。しかし暴力があるわけではない。あるとしたら心理的な、いわゆるモラハラの範疇に入るような接し方か。ケンカになると母親は黙り、父親は酒に逃げるという話も聞いていた。様々な情報を整理しつつ、やはり会ってみないと分からない。約束の時間は11時からだ。
今は10時55分。
「そろそろいいか」
私はZoomのスケジューラ―を開き、「予定されているミーティング」から、「坂部様」というカードをクリックする。すると画面にミーティングの詳細が現れる。
それをざっと確認し、私はその下の方にある「開始する」という青いボタンを押した。
「ドクン」
やはり緊張している自分を感じる。
かと言ってすぐに入室があるわけではない。
少し待ってからパソコンの右下に表示された時計を見るとまだ10時57分だ。まだ3分ある。オンライン面談の部屋を立ち上げてからクライアントが入室までの時間はいつも手持ち無沙汰で長く感じる。
今回のように緊張を伴う面談は尚更だ。
10時59分を数秒過ぎたとき「『sakabe takashi』の入室がありました。許可しますか?」というポップアップが現れた。
私は意識的に深呼吸をしながら、「許可する」というボタンを押した。
私がこう伝えるのは、家でむやみにトラウマにまつわるネガティブな気持ちが開くと、母親にとって良くないからだ。もちろんそれはかほりの心にも悪影響を及ぼす。
「分かりました」
母親もそう返事をした。
二人を見送ると、ピノが入っていた袋と乗っていた皿、ウーロン茶が入っていたグラスを片付ける。なかなかに濃いセッションだった。私も糖分を補給しようと、冷蔵庫を開け、余っている残り一個のピノの袋を割く。そして中身を口に放り込でんから、パソコンを起動し、記録に取り掛かる。
かほりが初めて顔を見せてくれたこと、母親にリスカのことを自分から伝えたこと。そして母親自身の希死念慮の告白からのリゾネイティング。記録を書きながらこの面接はかほりの不登校が出発点であったが、それはあくまでも入り口であり、主題が母親のトラウマケアに移ってきていることを実感する。
かほりにとって大好きな母親の傷を癒したい気持ちが不登校というSOSとして顕在化したというのが私のケース理解だ。
だが、母親の今回の訴えを聞くに、父親との関係以前から母親には希死念慮があった。「お前にできるはずがない」半年以上前に薪ストーブで燃やした言葉が再び私の頭に呼び起された。
まだ、問題は根深そうだ。
アセスメント
・母親の潜在的なトラウマは想像以上に重く、背景にはやはり母親自身の生育歴がありそう。
・かほりは母親を癒すという役割を得たことで自己価値を感じられている。しかし役割が過剰になりすぎないように注意が必要。
方針
・継続して母親をエンパワーしていく。
・かほりへの負担が重くなり過ぎないように注視する。
―――――――――――――――――――――――
坂部母子の面接から二日後のこと、その日入っていた面接がすべて終了し、私はケースの記録をまとめるためにパソコンに向かっていた。
「ピロ~ン」
電子音とともにメーラーのアイコンに新着メールが入ったことを知らせる「1」という数字が付せられる。私はその知らせが迷惑メールでないことを願い、そしてあわよくば新規の申し込みであることを期待してアイコンをクリックした。
subject「ご相談」 from: Sakabe Tomoko 受信日時:20XX+1年9月13日19:15
そのどちらでもない。
「坂部さんからだ」と思い私はメールを開ける。
「いつもお世話になっております。
次回のカウンセリングですが、主人も来てくれることを了解してくれました。一緒に伺ってもよろしいでしょうか。
お返事お待ちしております。
坂部とも子」
―――!!!
ついにきた!
短いメールを読み終えた私の率直な感想だ。
そいて、普段よりも心臓の鼓動が大きくなっている自分に一瞬遅れて気づいた。
これは、なんとか父親とつながりたい、その思いがようやく叶ったことによる興奮だろうか。
いや、違う。
それよりも、母子を常に緊張状態にさせる父親に対する威圧的なイメージが頭に浮かぶ。それによる緊張感が私の拍動を大きくしていることを誤魔化してはいけない。
そして、父親が一緒に来談した時に起こるであろうことを色々想像する。やはり、母親もかほりも私に父親を責め立てる役割を期待するのだろうか。
そんなことを考えてふと我に返ると、目の前にはまだ書きかけの他のケース記録が,私が再び作業に取り掛かるのを待っている。
「おっと、いけない」
私は氷が溶けてぬるくなったアイスコーヒーのグラスを口に運ぶと、先にそちらの方を片付け、それから先ほど来たメールに対する返信の文面を考える。
Subject「Re: ご相談」 from: 山の香りカウンセリングサービス
送信日時20XX+1年9月13日 19:55
「坂部様
お世話になっております。
次回の旦那さんの来談について、お母さんとかほりちゃんが勇気を出して働きかけてくれたであろうことにとても敬服いたします。
ただ、3人で一緒に来談いただくとなると、60分という時間の組み立てがかなり複雑になり、話の焦点がぼやけてしまうことが懸念されます。そこで、もしよければ、まずはいつものお二人とは別に、旦那さんお一人で来談いただくというのはいかがでしょうか。
お返事いただくようよろしくお願いします。
山の香りカウンセリングサービス代表
榊」
すると、すぐに母親からの返信があった。父親単独での来談となると、また父親と話す必要があるとのことだ。それはそうだろう。その旨を了承し、その後何回かのメールのやり取りをした。その結果、父親との面談は一週間後、次の土曜日である、9月20日となった。父親は仕事が土日休みなのである。9月25日に次回のかほりの予約が入っているのだが、そこもキャンセルはせず、いつもより父親の分料金がかかることも承知してくれた。母親のカウンセリングに対する期待をひしひしと感じる。
ただ、『山の香りカウンセリングサービス』では土曜日のカウンセリングは対面では受けておらず、オンラインのみとなっている。つまり父親とはZoomを使ってカウンセリングすることに決まった。
オンライン面談は料金の当日払いができないため、事前に振り込みをお願いしている。果たして、口座に料金の振り込みが確認されたので、私はZoomのURLをメールで送った。
―――――――――――――――――――――――――――――――
その日、私は今までのケース記録を読み返しつつ、頭の中で母親とかほりから聞いていた父親像を整理していた。
家の中で緊張を作り出している。かほりには優しいが母親に対して攻撃的。しかし暴力があるわけではない。あるとしたら心理的な、いわゆるモラハラの範疇に入るような接し方か。ケンカになると母親は黙り、父親は酒に逃げるという話も聞いていた。様々な情報を整理しつつ、やはり会ってみないと分からない。約束の時間は11時からだ。
今は10時55分。
「そろそろいいか」
私はZoomのスケジューラ―を開き、「予定されているミーティング」から、「坂部様」というカードをクリックする。すると画面にミーティングの詳細が現れる。
それをざっと確認し、私はその下の方にある「開始する」という青いボタンを押した。
「ドクン」
やはり緊張している自分を感じる。
かと言ってすぐに入室があるわけではない。
少し待ってからパソコンの右下に表示された時計を見るとまだ10時57分だ。まだ3分ある。オンライン面談の部屋を立ち上げてからクライアントが入室までの時間はいつも手持ち無沙汰で長く感じる。
今回のように緊張を伴う面談は尚更だ。
10時59分を数秒過ぎたとき「『sakabe takashi』の入室がありました。許可しますか?」というポップアップが現れた。
私は意識的に深呼吸をしながら、「許可する」というボタンを押した。
父親の目線
20XX+1年 9月20日 父親#1 オンライン面接
相手のカメラがつながり、画面の向こうに座っている男性を映しだした。上半身しか見えないが、黒っぽいシャツで眼鏡をかけ、頭は天然と思われるパーマ、インテリ風の眼鏡をかけているといったいで立ちだ。
「こんにちは」
私はできるだけ朗らかに挨拶をした。
「あ、こんにちは」
父親も挨拶を返してくれる。男性にしては高めの良く通る声が印象的で、かほりの声を初めて聞いたとき、母親の声質と違う感じを受けたことを思い起こさせた。しかし、マイク越しに伝わってくる口調はカウンセリングに対してドライな姿勢を感じさせる。
「今日はお忙しい中、カウンセリングのためにお時間を頂き、誠にありがとうございます。私、カウンセラーの榊と申します。よろしくお願いします」
と伝えると、やや表情は硬いながら、
「こちらこそ、いつも妻と娘がお世話になっております。よろしくお願いします」
と丁寧に返してくれる。
冷静に考えれば当たり前なのだが、いきなり戦闘モードで突進してくるわけではなさそうだ。
「そうですね。昨年11月からお会いしていますから、もうちょっとで1年になりますね。これまでの間、奥さんと娘さんをカウンセリングに通わせていただいたこと、重ねてお礼いたします。ありがとうございます」
それに応えて、画面越しに父親はペコリと頭を下げた。
「それで、今回、お父さんがカウンセリングを受けていただけることになったわけですが、ご家庭の中でどういった話があって、今回の流れになったのか、教えていただけますでしょうか」
私は今回の申し込みに至った経緯から質問した。
「その辺、妻から聞いてないですか」
父親の言葉の裏側に「そんなこと確認しておけよ」という攻撃的なニュアンスを感じるのは勘繰りすぎだろうか。
「あ、メールでお父さんがいらっしゃるという風に頂いただけですので経緯までは聞けてないんですよ」
すると父親は答えてくれる。
「娘からですね。娘がお父さんも一緒に来てって。僕としても仕事の都合がつけば拒否する理由もないですし、『いいよ』って返事をしたんです。そしたら、そちらから、一緒じゃなくて一人で来いって言われたって聞きましたが」
「なるほど、そういうことですね。色々奥さんや娘さんからお話を伺ってはおりますが、3人で話すと話が複雑になりそうでしたので、まずは一度、お父さんと1対1でお話できればと思い、私が提案させていただいたんです。素直に応じていただいてありがとうございます」
「いえ、それはいいんですが、どんなことをお話すればいいですか?」
この質問も流れを考えれば自然な質問だが、どこか言外に攻撃性を感じてしまう。このような一つ一つのやり取りに緊張を覚えるのは、私が今までかほりや母親に会ってきて、彼女らの側にに立っているからだということを自覚する。本来は中立でないといけないと頭では解っているのだが、これは私の体の反応だ。そして私は今、坂部家の中に漂っている緊張感を体験している。
しかし、怯むわけにはいかない。
「これまでかほりちゃんが不登校になって、それをなんとかしたいというきっかけでこちらに来ていただいているわけですが、お父さんがそのことについてどんなお気持ちでいらっしゃるのか、率直なところをまずお聞かせいただけますか?」
私は緊張を気取られないように意識的に声のトーンを低くして聞いた。
「妻からどう聞いているか分からないですが、僕としては娘が不登校になっても、仕方ないと思ってます。妻があんなですから」
いきなり、かほりの不登校を母親のせいにしている風全開の話しぶりだ。
「さっき妻とかほりを1年カウンセリングに通わせたって仰ってましたが、僕としては娘の不登校もそうですけど、妻を見てほしいって思ってたんです。妻は外では仕事頑張ってますし、それなりに人当たりよく振舞っていますが、かほりに対して本当にキツイと言うか、責めるような言い方ばかりするんですよね。できているところは見ないで、できないところばっかり指摘するんです。小学校のとき、テストで一つでも間違いがあると、他は全部合ってても、それは全く褒めないで、間違いだけ指摘する。それで、何度も間違い直しをさせるんです。そんなに怒りながらやらせても、かほりが委縮しちゃうだけで、効果ないからやめろって何度も言いましたが、聞きません。スマホだって、小学校高学年のころには今時みんな使ってるじゃないですか。それなのに、妻はダメだって見せなかったんです。今時の子の話題って全部インスタとか、TikTokじゃないですか。それで、友達の輪に入れないと可愛そうだって僕が言うと、『依存症になったらどうするんだ』って言ってましたね」
確かに来談当初の母親を思い出すと、その光景が目に浮かぶ。
そして、母親の告白も同時に思い出す。
「母は私を責める人でした」
人は自分が育てられたようにしか子どもを育てられないと言うことか......。
父親の語りは続いた。
「それで友達と上手くいかなくなる方がよっぽど大変ですよね。そんなだから、僕も多少言い方がきつくなることもありました。そしたら妻は、『いつもあなたは私を責めてばかり」って言うんですよ。それって僕が悪いんですか?」
一旦は私に問いかけるも、私の返事を期待しているわけではない。
「そんなだから、家で妻とあまり会話ができないんですよ。僕が何か言うと、普通に話しかけても、もう怒ってることもあるし。僕も最低限、かほりにもう少し優しく声かけてやれとか、やりたいことやらせてやれとか伝えるんですが、そう言うとすぐに拗ねちゃうから、会話になりません。そりゃ、そんなだから子どもも不登校になりますよね」
父親の話を聞きながら、私の中では、以前、父親に対して気持ちを吐き出した時の母親の言葉が思い起こされる。
「文句ばっかり言うなら全部自分でやればいいでしょ!」
「こんなに頑張ってるのに......」
やはり両者から聞くと、印象が変わるものだ。
「そうなんですね。伺っていると、お父さんもずっと苦労していらしたんですね」
「そうですね。妻には正直苦労しています」
全く否定しない辺り、相当にストレスを溜めているようだ。
私は話を掘り下げる。
「いつごろから奥さん、そうなんですか?」
少し考えるように間をおいてから父親は答えた。
「いつからだろう。娘が生まれる前まではそこまで感じてなかったです。いや、その前からそうだったのかな。でも、二人とも共働きでそれぞれの仕事の方を向いていたと言うか。もちろん夫婦なので、会話がなかったわけじゃないですが、目立たなかったんだと思います。でも、やっぱり娘が生まれてからですね。自分は産後うつだって言い出してあからさまに不安定になった気がします。もうどうしようもないと言うか。そして、ちょっとケンカになると『死にたい、死にたい』って言ってましたね」
前回の母親の告白を思い出す。
「かほりが生まれるくらいまで主人に隠れて切っていました。でも、かほりが生まれて、産後うつになって、一時期、本当に死ぬことばかり考えてたんです。そうなると切る気も起きなくなったと言うか。気づいたらしなくなっていました」
もしかして、リスカが母親の安全弁になっていた?そんな可能性も頭に浮かんだ。
しかし、そんな母親に対して、父親の語り口調からは辟易していた様子がありありと伝わってくる。
往々にして「死にたい」という、いわゆる希死念慮の訴えを繰り返すことは、周囲に怒りの反応を引き起こす。言われる側にしてみれば、どうしようもないことを延々と言われ続けるわけなので、どうしても「いい加減にしてくれ」という気持ちになり、怒りで返さざるを得なくなるのだ。
相手のカメラがつながり、画面の向こうに座っている男性を映しだした。上半身しか見えないが、黒っぽいシャツで眼鏡をかけ、頭は天然と思われるパーマ、インテリ風の眼鏡をかけているといったいで立ちだ。
「こんにちは」
私はできるだけ朗らかに挨拶をした。
「あ、こんにちは」
父親も挨拶を返してくれる。男性にしては高めの良く通る声が印象的で、かほりの声を初めて聞いたとき、母親の声質と違う感じを受けたことを思い起こさせた。しかし、マイク越しに伝わってくる口調はカウンセリングに対してドライな姿勢を感じさせる。
「今日はお忙しい中、カウンセリングのためにお時間を頂き、誠にありがとうございます。私、カウンセラーの榊と申します。よろしくお願いします」
と伝えると、やや表情は硬いながら、
「こちらこそ、いつも妻と娘がお世話になっております。よろしくお願いします」
と丁寧に返してくれる。
冷静に考えれば当たり前なのだが、いきなり戦闘モードで突進してくるわけではなさそうだ。
「そうですね。昨年11月からお会いしていますから、もうちょっとで1年になりますね。これまでの間、奥さんと娘さんをカウンセリングに通わせていただいたこと、重ねてお礼いたします。ありがとうございます」
それに応えて、画面越しに父親はペコリと頭を下げた。
「それで、今回、お父さんがカウンセリングを受けていただけることになったわけですが、ご家庭の中でどういった話があって、今回の流れになったのか、教えていただけますでしょうか」
私は今回の申し込みに至った経緯から質問した。
「その辺、妻から聞いてないですか」
父親の言葉の裏側に「そんなこと確認しておけよ」という攻撃的なニュアンスを感じるのは勘繰りすぎだろうか。
「あ、メールでお父さんがいらっしゃるという風に頂いただけですので経緯までは聞けてないんですよ」
すると父親は答えてくれる。
「娘からですね。娘がお父さんも一緒に来てって。僕としても仕事の都合がつけば拒否する理由もないですし、『いいよ』って返事をしたんです。そしたら、そちらから、一緒じゃなくて一人で来いって言われたって聞きましたが」
「なるほど、そういうことですね。色々奥さんや娘さんからお話を伺ってはおりますが、3人で話すと話が複雑になりそうでしたので、まずは一度、お父さんと1対1でお話できればと思い、私が提案させていただいたんです。素直に応じていただいてありがとうございます」
「いえ、それはいいんですが、どんなことをお話すればいいですか?」
この質問も流れを考えれば自然な質問だが、どこか言外に攻撃性を感じてしまう。このような一つ一つのやり取りに緊張を覚えるのは、私が今までかほりや母親に会ってきて、彼女らの側にに立っているからだということを自覚する。本来は中立でないといけないと頭では解っているのだが、これは私の体の反応だ。そして私は今、坂部家の中に漂っている緊張感を体験している。
しかし、怯むわけにはいかない。
「これまでかほりちゃんが不登校になって、それをなんとかしたいというきっかけでこちらに来ていただいているわけですが、お父さんがそのことについてどんなお気持ちでいらっしゃるのか、率直なところをまずお聞かせいただけますか?」
私は緊張を気取られないように意識的に声のトーンを低くして聞いた。
「妻からどう聞いているか分からないですが、僕としては娘が不登校になっても、仕方ないと思ってます。妻があんなですから」
いきなり、かほりの不登校を母親のせいにしている風全開の話しぶりだ。
「さっき妻とかほりを1年カウンセリングに通わせたって仰ってましたが、僕としては娘の不登校もそうですけど、妻を見てほしいって思ってたんです。妻は外では仕事頑張ってますし、それなりに人当たりよく振舞っていますが、かほりに対して本当にキツイと言うか、責めるような言い方ばかりするんですよね。できているところは見ないで、できないところばっかり指摘するんです。小学校のとき、テストで一つでも間違いがあると、他は全部合ってても、それは全く褒めないで、間違いだけ指摘する。それで、何度も間違い直しをさせるんです。そんなに怒りながらやらせても、かほりが委縮しちゃうだけで、効果ないからやめろって何度も言いましたが、聞きません。スマホだって、小学校高学年のころには今時みんな使ってるじゃないですか。それなのに、妻はダメだって見せなかったんです。今時の子の話題って全部インスタとか、TikTokじゃないですか。それで、友達の輪に入れないと可愛そうだって僕が言うと、『依存症になったらどうするんだ』って言ってましたね」
確かに来談当初の母親を思い出すと、その光景が目に浮かぶ。
そして、母親の告白も同時に思い出す。
「母は私を責める人でした」
人は自分が育てられたようにしか子どもを育てられないと言うことか......。
父親の語りは続いた。
「それで友達と上手くいかなくなる方がよっぽど大変ですよね。そんなだから、僕も多少言い方がきつくなることもありました。そしたら妻は、『いつもあなたは私を責めてばかり」って言うんですよ。それって僕が悪いんですか?」
一旦は私に問いかけるも、私の返事を期待しているわけではない。
「そんなだから、家で妻とあまり会話ができないんですよ。僕が何か言うと、普通に話しかけても、もう怒ってることもあるし。僕も最低限、かほりにもう少し優しく声かけてやれとか、やりたいことやらせてやれとか伝えるんですが、そう言うとすぐに拗ねちゃうから、会話になりません。そりゃ、そんなだから子どもも不登校になりますよね」
父親の話を聞きながら、私の中では、以前、父親に対して気持ちを吐き出した時の母親の言葉が思い起こされる。
「文句ばっかり言うなら全部自分でやればいいでしょ!」
「こんなに頑張ってるのに......」
やはり両者から聞くと、印象が変わるものだ。
「そうなんですね。伺っていると、お父さんもずっと苦労していらしたんですね」
「そうですね。妻には正直苦労しています」
全く否定しない辺り、相当にストレスを溜めているようだ。
私は話を掘り下げる。
「いつごろから奥さん、そうなんですか?」
少し考えるように間をおいてから父親は答えた。
「いつからだろう。娘が生まれる前まではそこまで感じてなかったです。いや、その前からそうだったのかな。でも、二人とも共働きでそれぞれの仕事の方を向いていたと言うか。もちろん夫婦なので、会話がなかったわけじゃないですが、目立たなかったんだと思います。でも、やっぱり娘が生まれてからですね。自分は産後うつだって言い出してあからさまに不安定になった気がします。もうどうしようもないと言うか。そして、ちょっとケンカになると『死にたい、死にたい』って言ってましたね」
前回の母親の告白を思い出す。
「かほりが生まれるくらいまで主人に隠れて切っていました。でも、かほりが生まれて、産後うつになって、一時期、本当に死ぬことばかり考えてたんです。そうなると切る気も起きなくなったと言うか。気づいたらしなくなっていました」
もしかして、リスカが母親の安全弁になっていた?そんな可能性も頭に浮かんだ。
しかし、そんな母親に対して、父親の語り口調からは辟易していた様子がありありと伝わってくる。
往々にして「死にたい」という、いわゆる希死念慮の訴えを繰り返すことは、周囲に怒りの反応を引き起こす。言われる側にしてみれば、どうしようもないことを延々と言われ続けるわけなので、どうしても「いい加減にしてくれ」という気持ちになり、怒りで返さざるを得なくなるのだ。
スーパーサイヤ人とコーヒー牛乳
「それで、そう。一回『かほりと一緒に死ぬ』って言ったことがあって、そのときは流石に僕もキレちゃって。『いい加減にしろ!死ぬなら一人で死ね!かほりを道連れにするな!』って怒鳴っちゃったんですよね。あれが僕ら夫婦の間に決定的に溝ができた事件だったかもしれません」
以前、大雪の日のかほりの告白を思い出す。
父親は語気を強めて続けた。
「今でも思い出すとどうしても腹が立っちゃうんです。かほりがまだ1歳かそこらの話ですよ!」
ひどい修羅場だった様子が想像される。
その事件が坂部家の関係を崩壊させるには十分な家族トラウマになっていたということを私は確信した。
それは父親がそのことを語りながら怒りに震えているということからだけで判断しているわけではない。今の場面はかほりからも聞いている場面だ。ということは、かほりが覚えている場面ということになる。1歳かそこらのかほりがだ。
トラウマ治療において、物心つく前の記憶を、催眠状態で呼び起すということがある。
かほりからその話が出たのは、あの大雪の日だった。薪ストーブの火に当たりながら十分にリラックスした状態で、私は両親について聞いた。あのとき、かほりの抑制が取れて、催眠状態と同じようなことが起こっていたのだ。そして、物心つく前の重篤なトラウマの記憶が呼び覚まされたということか。
私はその時の情景を思い浮かべて、自分の胸が締め付けられるのを意識した。そして、ほんの少しの間、その胸の痛みを味わった後、深呼吸してから静かに父親に伝えた。
「坂部さん、今、私、本当に胸が張り裂けそうです。坂部家のみんなが苦しんでいるのがヒシヒシと伝わってくるんです」
私に共感を伝えられて、父親はどう反応していいのか分からないのかもしれない。何も返事が返ってこない。
私は構わず続けた。
「坂部家みんなが傷ついたその場面、皆で克服する必要があるように思います」
父親は怪訝な顔をしながら答える。
「今更ですよ。過去は変えられません」
「確かに過去に起きたことは変えられません。でも、その起きた事実から受けた傷を癒すことはできるはずです」
「どうやって?」
「坂部さん。坂部さんは今、とても辛い過去の記憶を語ってくれました。記憶の想起に怒りが伴っているの......感じますか?」
「そうですね。思い出すとやっぱり怒れちゃいます」
「大丈夫です。その怒りの感覚、今よく味わってみてください。腹が立つと、坂部さんの身体はどんな反応をしますか?例えば、顔が紅潮するとか、口のあたりがワナワナするとか」
「なんでしょう。そんなこと、あまり考えたことないですが、今言われたように顔が赤くなるって程ではないです。そこまで怒ってるわけじゃないですが、よく漫画なんかでありますけど、髪の毛が逆立つような感じがすると言うか」
「スーパーサイヤ人みたいな?」
「そうですそうです。って、なんか急にそんな話したら、怒りが薄らいじゃいますね」
そう言って、苦笑いを浮かべる。
私もそれに合わせて笑顔を作り、それから伝えた。
「大丈夫ですよ。今、ちょっと坂部さんにとって辛い記憶を想起してもらいました。そしたらスーパーサイヤ人になりそうになりましたね。流石に髪の毛の色は変わりませんが、頭皮がゾワっとしたんだと思います。いいですよ。そしたら、今度は全く逆の、坂部さんが落ち着ける情景を思い浮かべてみてほしいんです。坂部さんにとって、安心できる記憶、情景、音楽、何でもいいです。それを思い出すと、心が落ち着くな、安心だなっていうもの、何かありますか?」
「え、なんでしょう。急に言われてもちょっと出てこないです」
「もう少し考えてみましょう。何でもいいですよ」
そう伝えてしばらく間を取る。
「そうですねぇ」父親は記憶をたどるように目線を斜め上に向けながら答えた。「ちょっと恥ずかしいですが、子どものころに自分の家族と一緒に行った温泉を思い出しました。なんかとっても落ち着いた記憶があります」
「いいですね、いいですね。その時のことできるだけ思い出して下さい。温泉の風景。どんな温泉でしたか?」
「あれ、北海道だったんですよね。今思えば温泉に含まれる銅のせいだって分かるんですけど、入ると体が青く光るんです。子ども心にすごい面白くて。後、お湯がすごいぬるぬるしてました。そして、そう、温泉から上がって飲んだ瓶のコーヒー牛乳がすごく美味しくて」
まさか、ここでコーヒー牛乳が出てくるとは思いもよらなかった。かほりの顔を思い出しながらも、私は続けた。
「いいですねぇ。すごくいいです。コーヒー牛乳の味、よく思い出していきましょう」
「はい」
「その時の情景を思い浮かべていると......どんな気持ちがしますか?」
「なんでしょう。懐かしい感じ。あの頃は平和だったなぁっていう」
「身体でそのときの平和な感じを感じてください」
「はい」
「思い出しながら深呼吸していきましょう。ゆったりと深呼吸しながら、身体の力を抜いて。ご自身の体が安心するのを感じてください」
「はい」
「温泉のぬるぬるしたお湯、青い光。美味しいコーヒー牛乳の味。十分にその感覚を味わっていきましょう」
父親は目を閉じて、私の声に従っている。
私はできるだけ低めの声で、ゆっくりとした口調で伝える。
「身体の力が抜けて、ゆったりとした深い呼吸が楽にできるようになるのを感じてください」
私はそう伝えると時計を見て時間を確認した。「11:37」と表示されている。残り時間は20分と少しだ。
そこから私は2分間時間を取った。
カウンセリングにおいて2分間の沈黙は結構長く感じる。
これが、話題が煮詰まっての沈黙なら、双方にとって、とても苦痛な時間となる。しかし今は父親に安心を感じてもらうための時間だ。私は父親の表情をよく観察するが、あまり変化は見られない。気持ちが表情に出ないタイプのようだ。
しかし、表情以外にも、感じている気持ちを伝えてくれる非言語の信号はある。
私は、画面越しに見える体の動きをよく観察した。
父親の呼吸に合わせて、小さく肩や胸が上下しているのが分かる。そしてそのリズムは父親が一定程度リラックスしている様子を伝えている。
「はい、いいですよ。今とってもリラックスして、心地のいいい時間を過ごしていただきました。では、もう一度、先ほどの場面、奥さんがかほりちゃんと一緒に死ぬって言っていた場面を思い出してください」と教示した。
少し視線を右上にそらすのは父親が何かを考えるときの癖のようだ。
「どんな気持ちですか?」
「なんでしょう。さっきほど腹は立ちませんが、良い気持ちはしないです」
「いいですね。さっきほど腹が立たないというのはとてもいいです。それではさっきの温泉の感覚に立ち戻りましょう」
これはペンデュレーションと呼ばれる技法で、心地の良い記憶と、トラウマ記憶を行き来することで、トラウマ記憶にまつわるネガティブな感情の中和効果を期待している。
「コーヒー牛乳の味を思い出してください」
「なんでしょう。難しいです。さっきは安心する記憶って言われて、思い出せたのですが、今は妻の顔がコーヒー牛乳の味を思い出すのを邪魔する感じと言うか」
「いいです。いいです。嫌な記憶が良い記憶を思い出すのを邪魔するわけですね。それはつまり、逆も起こりうるということです。今はその時のとっても辛かった記憶がまだまだ坂部さんの中で強力ですから、嫌な記憶が勝ってしまっている状態です。今、坂部さんに必要なのは良い記憶にもっともっと栄養を与えてあげることです。そうすることでコーヒー牛乳がスーパーサイヤ人に勝てるようになります」
「栄養を与えるってどうやってやるんですか?」
「まずは単純に思い出す回数を増やします。何度も何度も思い出すことで、その記憶は確実に太っていきます。そして、その記憶にまつわる別の記憶もどんどん掘り起こしていくのも有効です。例えば、そのときの写真を見たりして、その時にあったこと、感じたことをもっと思い出していきます。後は、実際に風呂上がりにコーヒー牛乳を飲んでみるのもいいと思います。そういうことを繰り返していくと、いい思い出が膨らんでいって、嫌な記憶が沸き上がるのを抑えてくれるようになります」
「そんなもんですかねぇ」
父親の反応には私の話を信用していいのかどうかという迷いが読み取れる。
それも仕方がない。だが、父親が私の教示に従いワークに取り組んでくれたこと、また腹立ちの程度が和らぐ経験をしてもらえたことで、私がセッションの最初に感じていた緊張感は大分薄らいでいた。
以前、大雪の日のかほりの告白を思い出す。
父親は語気を強めて続けた。
「今でも思い出すとどうしても腹が立っちゃうんです。かほりがまだ1歳かそこらの話ですよ!」
ひどい修羅場だった様子が想像される。
その事件が坂部家の関係を崩壊させるには十分な家族トラウマになっていたということを私は確信した。
それは父親がそのことを語りながら怒りに震えているということからだけで判断しているわけではない。今の場面はかほりからも聞いている場面だ。ということは、かほりが覚えている場面ということになる。1歳かそこらのかほりがだ。
トラウマ治療において、物心つく前の記憶を、催眠状態で呼び起すということがある。
かほりからその話が出たのは、あの大雪の日だった。薪ストーブの火に当たりながら十分にリラックスした状態で、私は両親について聞いた。あのとき、かほりの抑制が取れて、催眠状態と同じようなことが起こっていたのだ。そして、物心つく前の重篤なトラウマの記憶が呼び覚まされたということか。
私はその時の情景を思い浮かべて、自分の胸が締め付けられるのを意識した。そして、ほんの少しの間、その胸の痛みを味わった後、深呼吸してから静かに父親に伝えた。
「坂部さん、今、私、本当に胸が張り裂けそうです。坂部家のみんなが苦しんでいるのがヒシヒシと伝わってくるんです」
私に共感を伝えられて、父親はどう反応していいのか分からないのかもしれない。何も返事が返ってこない。
私は構わず続けた。
「坂部家みんなが傷ついたその場面、皆で克服する必要があるように思います」
父親は怪訝な顔をしながら答える。
「今更ですよ。過去は変えられません」
「確かに過去に起きたことは変えられません。でも、その起きた事実から受けた傷を癒すことはできるはずです」
「どうやって?」
「坂部さん。坂部さんは今、とても辛い過去の記憶を語ってくれました。記憶の想起に怒りが伴っているの......感じますか?」
「そうですね。思い出すとやっぱり怒れちゃいます」
「大丈夫です。その怒りの感覚、今よく味わってみてください。腹が立つと、坂部さんの身体はどんな反応をしますか?例えば、顔が紅潮するとか、口のあたりがワナワナするとか」
「なんでしょう。そんなこと、あまり考えたことないですが、今言われたように顔が赤くなるって程ではないです。そこまで怒ってるわけじゃないですが、よく漫画なんかでありますけど、髪の毛が逆立つような感じがすると言うか」
「スーパーサイヤ人みたいな?」
「そうですそうです。って、なんか急にそんな話したら、怒りが薄らいじゃいますね」
そう言って、苦笑いを浮かべる。
私もそれに合わせて笑顔を作り、それから伝えた。
「大丈夫ですよ。今、ちょっと坂部さんにとって辛い記憶を想起してもらいました。そしたらスーパーサイヤ人になりそうになりましたね。流石に髪の毛の色は変わりませんが、頭皮がゾワっとしたんだと思います。いいですよ。そしたら、今度は全く逆の、坂部さんが落ち着ける情景を思い浮かべてみてほしいんです。坂部さんにとって、安心できる記憶、情景、音楽、何でもいいです。それを思い出すと、心が落ち着くな、安心だなっていうもの、何かありますか?」
「え、なんでしょう。急に言われてもちょっと出てこないです」
「もう少し考えてみましょう。何でもいいですよ」
そう伝えてしばらく間を取る。
「そうですねぇ」父親は記憶をたどるように目線を斜め上に向けながら答えた。「ちょっと恥ずかしいですが、子どものころに自分の家族と一緒に行った温泉を思い出しました。なんかとっても落ち着いた記憶があります」
「いいですね、いいですね。その時のことできるだけ思い出して下さい。温泉の風景。どんな温泉でしたか?」
「あれ、北海道だったんですよね。今思えば温泉に含まれる銅のせいだって分かるんですけど、入ると体が青く光るんです。子ども心にすごい面白くて。後、お湯がすごいぬるぬるしてました。そして、そう、温泉から上がって飲んだ瓶のコーヒー牛乳がすごく美味しくて」
まさか、ここでコーヒー牛乳が出てくるとは思いもよらなかった。かほりの顔を思い出しながらも、私は続けた。
「いいですねぇ。すごくいいです。コーヒー牛乳の味、よく思い出していきましょう」
「はい」
「その時の情景を思い浮かべていると......どんな気持ちがしますか?」
「なんでしょう。懐かしい感じ。あの頃は平和だったなぁっていう」
「身体でそのときの平和な感じを感じてください」
「はい」
「思い出しながら深呼吸していきましょう。ゆったりと深呼吸しながら、身体の力を抜いて。ご自身の体が安心するのを感じてください」
「はい」
「温泉のぬるぬるしたお湯、青い光。美味しいコーヒー牛乳の味。十分にその感覚を味わっていきましょう」
父親は目を閉じて、私の声に従っている。
私はできるだけ低めの声で、ゆっくりとした口調で伝える。
「身体の力が抜けて、ゆったりとした深い呼吸が楽にできるようになるのを感じてください」
私はそう伝えると時計を見て時間を確認した。「11:37」と表示されている。残り時間は20分と少しだ。
そこから私は2分間時間を取った。
カウンセリングにおいて2分間の沈黙は結構長く感じる。
これが、話題が煮詰まっての沈黙なら、双方にとって、とても苦痛な時間となる。しかし今は父親に安心を感じてもらうための時間だ。私は父親の表情をよく観察するが、あまり変化は見られない。気持ちが表情に出ないタイプのようだ。
しかし、表情以外にも、感じている気持ちを伝えてくれる非言語の信号はある。
私は、画面越しに見える体の動きをよく観察した。
父親の呼吸に合わせて、小さく肩や胸が上下しているのが分かる。そしてそのリズムは父親が一定程度リラックスしている様子を伝えている。
「はい、いいですよ。今とってもリラックスして、心地のいいい時間を過ごしていただきました。では、もう一度、先ほどの場面、奥さんがかほりちゃんと一緒に死ぬって言っていた場面を思い出してください」と教示した。
少し視線を右上にそらすのは父親が何かを考えるときの癖のようだ。
「どんな気持ちですか?」
「なんでしょう。さっきほど腹は立ちませんが、良い気持ちはしないです」
「いいですね。さっきほど腹が立たないというのはとてもいいです。それではさっきの温泉の感覚に立ち戻りましょう」
これはペンデュレーションと呼ばれる技法で、心地の良い記憶と、トラウマ記憶を行き来することで、トラウマ記憶にまつわるネガティブな感情の中和効果を期待している。
「コーヒー牛乳の味を思い出してください」
「なんでしょう。難しいです。さっきは安心する記憶って言われて、思い出せたのですが、今は妻の顔がコーヒー牛乳の味を思い出すのを邪魔する感じと言うか」
「いいです。いいです。嫌な記憶が良い記憶を思い出すのを邪魔するわけですね。それはつまり、逆も起こりうるということです。今はその時のとっても辛かった記憶がまだまだ坂部さんの中で強力ですから、嫌な記憶が勝ってしまっている状態です。今、坂部さんに必要なのは良い記憶にもっともっと栄養を与えてあげることです。そうすることでコーヒー牛乳がスーパーサイヤ人に勝てるようになります」
「栄養を与えるってどうやってやるんですか?」
「まずは単純に思い出す回数を増やします。何度も何度も思い出すことで、その記憶は確実に太っていきます。そして、その記憶にまつわる別の記憶もどんどん掘り起こしていくのも有効です。例えば、そのときの写真を見たりして、その時にあったこと、感じたことをもっと思い出していきます。後は、実際に風呂上がりにコーヒー牛乳を飲んでみるのもいいと思います。そういうことを繰り返していくと、いい思い出が膨らんでいって、嫌な記憶が沸き上がるのを抑えてくれるようになります」
「そんなもんですかねぇ」
父親の反応には私の話を信用していいのかどうかという迷いが読み取れる。
それも仕方がない。だが、父親が私の教示に従いワークに取り組んでくれたこと、また腹立ちの程度が和らぐ経験をしてもらえたことで、私がセッションの最初に感じていた緊張感は大分薄らいでいた。
説得
しかし、ここで不意に父親は、
「妻や娘ともこういうことをしているんですか?」
と聞いてきた。
父親がどういう意図で質問しているのか計りかねた私は再び緊張を覚える。
「奥さんとかほりちゃんはお越しいただいていますので、もっと直接的に安全を体感してもらうワークをしています」
やや構えてしまった私は、言い訳めいた返答になったかもしれない。
「いろんなやり方があるんですね」
「そうですね。心の傷を癒す方法はたくさんあります。是非坂部さんにも体験していただきたいと思っています」
時間を見ると、残り時間は10分を切っている。残りの時間で、今後の方針について提案して、合意を得なくてはならない。
「今日お話伺えて本当に良かったです。私としては、ご家族のトラウマを明確にしていただいたと思っています。お父さんにもお母さんにも、そしてかほりちゃんにもその時のこと、とっても大きく影を落としていると思うんです。どうでしょう。私としてはお父さんもカウンセリングに参加していただいて、しっかりと克服していければと思うのですが、どう思われますか?」
私はこう問いかけた。
しかし父親は乗り気な表情ではない。
「ん~正直に言いますと、まだ半信半疑です。僕もってことになると、また余分にお金かかりますよね。僕自身が困っているのは妻のことであって、妻がもう少し穏やかになってくれればいいわけですから」
父親の答えはある意味普通の人の感覚なのかもしれない。最初にかほりの不登校問題を私に丸投げしてきた母親もそうだった。自分の問題を扱わずに周りが変わってくれるならこんな楽なことはない。
「もちろんお金の問題もあるのは分かります。ですが、私から見てですが、奥さん、以前より大分柔らかくなったように思います。ご家庭ではそうでもないですか?」
「どうでしょうか。ちょっと分かりません」
毎日接しているようで、会話がない夫婦である。あまり変化に気づかないのか、それとも家では本当に変わっていないのか定かではないが、私は続けた。
「奥さんの状態を改善するためにも、坂部さんには奥さんのうつ状態について、もっと詳しく知っていただく必要があると思うんです。今日お話していて、坂部さんが奥さんに対してとても複雑な感情を持っていらっしゃることが伝わってきました。特に、奥さんに対してイライラしてしまうのもよく分かります。でも、奥さんも、それを何とか改善しようと、ご自身の問題に本当に一生懸命取り組んでくれています。そして、それをかほりちゃんがとっても一生懸命手助けしようとしてくれているんですよ」
私は、かほりの無意識が家族を再生しようと懸命になっていることに思いを馳せ、目頭がやや熱くなる。
「かほりちゃん、お父さんのことを聞くと、いつも、優しいって言ってくれるんですよ。お父さん、かほりちゃんが好きな飲み物何か知っていますか?」
私はかなり前にかほりから聞いたことを思い出していた。
「え~、なんですかね。家では特に何を好んで飲んでるかちょっと分からないです」
私はどうしてもかほりへの感情移入を止められないでいる。
「かほりちゃん、コーヒー牛乳が好きなんです。僕も今日、お父さんのお話を聞いてびっくりしました。お父さんが安心した思い出に出てきたコーヒー牛乳。どうつながったのかは私にもわかりません。でも、偶然とは思えません」
「それは確かに不思議ですね。でも、家で僕そんなの飲んだ記憶ないですから、偶然だと思いますよ」
「そうかもしれません。でも、かほりちゃんがお父さんとお母さんのこと、とっても大好きで、仲良くしてほしいって思っている。そのためにお父さんにもカウンセリングを受けてほしいと思っていること......伝わりますか?」
私は最初に感じていた緊張も忘れ、普段の受容的なカウンセリングの態度でもなく、説得モードに入っている。
「榊さんが言わんとしていることは分かります。でも、今更妻と仲良くって言われても、ちょっとどうしていいか分からないですね」
父親は戸惑いながら答えた。
「仰ること、とてもよく分かります。今までずっと続いてきた関係はそう簡単には変わらないと思いますよね。奥さんも同じように言ってました。でも、だからこそのカウンセリングです。かほりちゃん、最初はお父さんのことを誘うこと自体無理って言ってたんですよ。でも、誘ってくれた。とっても勇気が要ったと思うんです。かほりちゃんは、その勇気を出してくれたんです。希望を見出してくれたんです。かほりちゃんがようやく見出した希望に、応える努力をしてくれませんか?」
かほりをだしに説得するのはカウンセラーの態度として批判されるかもしれない。しかし、私はこのときどうしても、父親をカウンセリングの構造に取り込む必要性を感じていた。
困ったような顔を見せる父親を私はじっと見つめた。
短い沈黙の後、父親は深いため息をついた。
「......分かりました」
それまでの平坦な声のトーンから読み取れなかった感情が、ここにきてやや変化し、観念したような響きにも聞こえる。
「榊さんの熱意が伝わってきましたし、なによりかほりの期待を裏切れません。よろしくお願いします」
私は無意識に顔がほころんでいたかもしれない。確かに父親を説得出来て嬉しかったのだ。
私は自然と
「ありがとうございます」
と伝えていた。
こうして父親との最初の面接は終了の時間を迎えた。
意外なことに、父親は、次回の予約について来週、またZoomで会う選択をした。かほりたちの面接は隔週であるが、渋っている父親が一週間後に予約を入れたのである。カウンセリングに対する期待感があるのか、もしくは面倒なものは早めに終わらせたい質なのか。後者の可能性が高いと思うが、それはそれでいい。密なカウンセリングで父親との関係を深めていけることに私は期待する。
父親が退室し、画面がブラックアウトしたのを確認した後、私も退室ボタンを押してZoomを閉じた。
何度も経験してきたつもりだが、それでも緊張感の強いカウンセリングには疲労感を伴う。私は駄々下がった血糖値を上げるべく、珍しくコーヒーに砂糖とミルクを入れた。
記録を書きながら同時に反省もする。かほりを出汁に父親を説得したことで、一応の合意を取り付けた。しかしあくまでも形の上である。カウンセリングとは本来、クライアントに共感することに徹し、クライアントの自発的行動を促すものである。
「これは説得であってカウンセリングではない」
10年以上前に参加した事例検討会で、高名な臨床心理士の先生が言っていたセリフが思い出される。今回の私のケースもその検討会に出したら同じように言われるのだろう。
そう反省しつつも、そうしなかったら父親とは今回限りになっていたかもしれない。やはり父親に家族の問題にしっかりと向き合ってもらうことは絶対に必要だという思いも私の中で譲れない。
そんなことを考えながらセッションをまとめ、アセスメントと方針を書く。
アセスメント
・母親がもともと持っていた自己否定感を父親も取り込み、母親を否定するようになった。それが、更に母親のエネルギーを奪うという悪循環を作り出している。
・子どもの頃の北海道の温泉旅行の記憶がリソースとして出てきて、あの頃は平和だったと言っているあたり、父親の子ども時代には健全さがあったようだ。
記録画面に打ち込まれた文字を見つめながら、私はふと手を止めた。
「健全さ、か……」
幼少期に健全な愛着や安心感を経験している人間には、柔軟性があることが多い。
ここまで私が築いてきた父親イメージは、モラハラ気質が強く、こちらにも怒りを向けてくるといった人間像だった。だが、それはあくまでも傷ついたかほりや母親のフィルターを通した人間像に過ぎなかったのかもしれない。
私はアセスメントを見直し、方針を修正することにした。
方針
・父親が母親の自己否定感を取り込まざるを得なかった背景に光を当て、父親が納得する形で母親との関係を修復できるよう、まずは個別面接を行う。
「妻や娘ともこういうことをしているんですか?」
と聞いてきた。
父親がどういう意図で質問しているのか計りかねた私は再び緊張を覚える。
「奥さんとかほりちゃんはお越しいただいていますので、もっと直接的に安全を体感してもらうワークをしています」
やや構えてしまった私は、言い訳めいた返答になったかもしれない。
「いろんなやり方があるんですね」
「そうですね。心の傷を癒す方法はたくさんあります。是非坂部さんにも体験していただきたいと思っています」
時間を見ると、残り時間は10分を切っている。残りの時間で、今後の方針について提案して、合意を得なくてはならない。
「今日お話伺えて本当に良かったです。私としては、ご家族のトラウマを明確にしていただいたと思っています。お父さんにもお母さんにも、そしてかほりちゃんにもその時のこと、とっても大きく影を落としていると思うんです。どうでしょう。私としてはお父さんもカウンセリングに参加していただいて、しっかりと克服していければと思うのですが、どう思われますか?」
私はこう問いかけた。
しかし父親は乗り気な表情ではない。
「ん~正直に言いますと、まだ半信半疑です。僕もってことになると、また余分にお金かかりますよね。僕自身が困っているのは妻のことであって、妻がもう少し穏やかになってくれればいいわけですから」
父親の答えはある意味普通の人の感覚なのかもしれない。最初にかほりの不登校問題を私に丸投げしてきた母親もそうだった。自分の問題を扱わずに周りが変わってくれるならこんな楽なことはない。
「もちろんお金の問題もあるのは分かります。ですが、私から見てですが、奥さん、以前より大分柔らかくなったように思います。ご家庭ではそうでもないですか?」
「どうでしょうか。ちょっと分かりません」
毎日接しているようで、会話がない夫婦である。あまり変化に気づかないのか、それとも家では本当に変わっていないのか定かではないが、私は続けた。
「奥さんの状態を改善するためにも、坂部さんには奥さんのうつ状態について、もっと詳しく知っていただく必要があると思うんです。今日お話していて、坂部さんが奥さんに対してとても複雑な感情を持っていらっしゃることが伝わってきました。特に、奥さんに対してイライラしてしまうのもよく分かります。でも、奥さんも、それを何とか改善しようと、ご自身の問題に本当に一生懸命取り組んでくれています。そして、それをかほりちゃんがとっても一生懸命手助けしようとしてくれているんですよ」
私は、かほりの無意識が家族を再生しようと懸命になっていることに思いを馳せ、目頭がやや熱くなる。
「かほりちゃん、お父さんのことを聞くと、いつも、優しいって言ってくれるんですよ。お父さん、かほりちゃんが好きな飲み物何か知っていますか?」
私はかなり前にかほりから聞いたことを思い出していた。
「え~、なんですかね。家では特に何を好んで飲んでるかちょっと分からないです」
私はどうしてもかほりへの感情移入を止められないでいる。
「かほりちゃん、コーヒー牛乳が好きなんです。僕も今日、お父さんのお話を聞いてびっくりしました。お父さんが安心した思い出に出てきたコーヒー牛乳。どうつながったのかは私にもわかりません。でも、偶然とは思えません」
「それは確かに不思議ですね。でも、家で僕そんなの飲んだ記憶ないですから、偶然だと思いますよ」
「そうかもしれません。でも、かほりちゃんがお父さんとお母さんのこと、とっても大好きで、仲良くしてほしいって思っている。そのためにお父さんにもカウンセリングを受けてほしいと思っていること......伝わりますか?」
私は最初に感じていた緊張も忘れ、普段の受容的なカウンセリングの態度でもなく、説得モードに入っている。
「榊さんが言わんとしていることは分かります。でも、今更妻と仲良くって言われても、ちょっとどうしていいか分からないですね」
父親は戸惑いながら答えた。
「仰ること、とてもよく分かります。今までずっと続いてきた関係はそう簡単には変わらないと思いますよね。奥さんも同じように言ってました。でも、だからこそのカウンセリングです。かほりちゃん、最初はお父さんのことを誘うこと自体無理って言ってたんですよ。でも、誘ってくれた。とっても勇気が要ったと思うんです。かほりちゃんは、その勇気を出してくれたんです。希望を見出してくれたんです。かほりちゃんがようやく見出した希望に、応える努力をしてくれませんか?」
かほりをだしに説得するのはカウンセラーの態度として批判されるかもしれない。しかし、私はこのときどうしても、父親をカウンセリングの構造に取り込む必要性を感じていた。
困ったような顔を見せる父親を私はじっと見つめた。
短い沈黙の後、父親は深いため息をついた。
「......分かりました」
それまでの平坦な声のトーンから読み取れなかった感情が、ここにきてやや変化し、観念したような響きにも聞こえる。
「榊さんの熱意が伝わってきましたし、なによりかほりの期待を裏切れません。よろしくお願いします」
私は無意識に顔がほころんでいたかもしれない。確かに父親を説得出来て嬉しかったのだ。
私は自然と
「ありがとうございます」
と伝えていた。
こうして父親との最初の面接は終了の時間を迎えた。
意外なことに、父親は、次回の予約について来週、またZoomで会う選択をした。かほりたちの面接は隔週であるが、渋っている父親が一週間後に予約を入れたのである。カウンセリングに対する期待感があるのか、もしくは面倒なものは早めに終わらせたい質なのか。後者の可能性が高いと思うが、それはそれでいい。密なカウンセリングで父親との関係を深めていけることに私は期待する。
父親が退室し、画面がブラックアウトしたのを確認した後、私も退室ボタンを押してZoomを閉じた。
何度も経験してきたつもりだが、それでも緊張感の強いカウンセリングには疲労感を伴う。私は駄々下がった血糖値を上げるべく、珍しくコーヒーに砂糖とミルクを入れた。
記録を書きながら同時に反省もする。かほりを出汁に父親を説得したことで、一応の合意を取り付けた。しかしあくまでも形の上である。カウンセリングとは本来、クライアントに共感することに徹し、クライアントの自発的行動を促すものである。
「これは説得であってカウンセリングではない」
10年以上前に参加した事例検討会で、高名な臨床心理士の先生が言っていたセリフが思い出される。今回の私のケースもその検討会に出したら同じように言われるのだろう。
そう反省しつつも、そうしなかったら父親とは今回限りになっていたかもしれない。やはり父親に家族の問題にしっかりと向き合ってもらうことは絶対に必要だという思いも私の中で譲れない。
そんなことを考えながらセッションをまとめ、アセスメントと方針を書く。
アセスメント
・母親がもともと持っていた自己否定感を父親も取り込み、母親を否定するようになった。それが、更に母親のエネルギーを奪うという悪循環を作り出している。
・子どもの頃の北海道の温泉旅行の記憶がリソースとして出てきて、あの頃は平和だったと言っているあたり、父親の子ども時代には健全さがあったようだ。
記録画面に打ち込まれた文字を見つめながら、私はふと手を止めた。
「健全さ、か……」
幼少期に健全な愛着や安心感を経験している人間には、柔軟性があることが多い。
ここまで私が築いてきた父親イメージは、モラハラ気質が強く、こちらにも怒りを向けてくるといった人間像だった。だが、それはあくまでも傷ついたかほりや母親のフィルターを通した人間像に過ぎなかったのかもしれない。
私はアセスメントを見直し、方針を修正することにした。
方針
・父親が母親の自己否定感を取り込まざるを得なかった背景に光を当て、父親が納得する形で母親との関係を修復できるよう、まずは個別面接を行う。
ラポールの深まりと母親の内省
20XX+1年9月25日 かほり#19 母親#13
「先日はお父さんとZoomでお会いさせていただきました。かほりちゃん、お父さんに言ってくれたんだってね。前は絶対無理って言ってたのに、すごいじゃん」
父親との面談の次の回、私はかほりに向けて話題を振ってみた。
それに対してかほりは言葉を発するでもなく、頷くでもなく、なんとなく照れたように視線を外した。
私は更に尋ねた。
「どうやってお父さん誘ってくれたの?すごい勇気いったんじゃない?」
私の問いかけに対してかほりはモジモジしながらも、話し出した。
「部屋で絵を描いてたら、お父さんが話しかけてきて。最初は『やっぱり学校はまだ行くとしんどい』みたいな話だったんですけど......」
「うんうん」
私は相槌ちを交えながらかほりの語りを促した。
「進路どうするんだみたいな話になって、私がまだ分かんないって言って、カウンセラーに相談して来いって言うから、なんとなくその流れで、『一緒に行く?』って聞いたら『いいよ』って言ってくれました」
「そういうことだったんだね。お父さん、すんなり了解してくれた感じ?」
「......わかりません」
「お父さんがどう思って『いいよ』って言ってくれたのか分からないってことだね。でも、本当かほりちゃん、凄いよ。かほりちゃんが勇気出してくれたこと。僕本当にすごいことだと思うよ」
かほりの成長を心から嬉しく思う。
かほりは照れからか、「そんなことないです」と謙遜して答えた。
「それで......」
私は少し声のトーンを抑えて二人の顔を見た。
「私からはお父さんが話してくれた会話の中身までは勝手にお伝えすることはできないんですが、お父さんがここでカウンセリングを継続することを了解してくれたことをお二人と確認しておきたいと思います」
私から父親との最初の面接は個別でお願いしたのだったが、もしかしたら内容は当然伝えられるものだと思っていたのかもしれない。母親の顔が一瞬残念そうに曇った。
そこで私は言う。
「ご夫婦の問題を抱えていらっしゃるので、気になるのは当然だと思います。でも、お母さんがここでご自身にしっかりと向き合っていただいているように、お父さんにもちゃんとご自身の課題に向き合ってもらえたらと思っています。その作業は個別の物ですので、ご了承ください」
すると母親は、私の懸念を否定するでもなく、「わかりました」と返事をくれた。
父親との面接についての話がひと段落したので、私から「今日お二人から話題にしたいことはありますか?」と聞いた。
二人は目を見合わせてお互いに譲るような仕草をする。
私が「どちらからでもどうぞ」と促すと先に母親が口を開いた。
「あの......前から、私のこと、ここですごく聞いてもらっているの分かるんです。この前なんて、私の方がかほりに甘えちゃいました。それで、すごく心が軽くなって、でも......このままでいいのかなって言うか、心が軽くなった反面、情けないと言うか、申し訳ないと言うか......私のことが更にかほりの負担になって、学校に行きにくくならないかとか考えちゃいます」
前回みたいな、深く重い告白をした後に、カウンセリングに対して抵抗感を持つことはよくある。それで以前かほりも来れなかったことがあった。しかし母親はその抵抗感をこのように来談して言葉で表明してくれている。長い時間と回数をかけて築いてきたラポールのお陰だ。
そのことに感謝の気持ちを持って私は伝えた。
「お母さん、今のお気持ちを素直に、そして正直にお話いただいていることに、深い敬意を感じます。そして、お母さんの心配なお気持ち、とても自然なことだと思います。あんなに大切なお話、ずっと心にしまっていて、ご自身ですら長いこと思い出すことがなかったお話をしていただいたんですから、それは不安になります。あんなこと話しちゃって良かったんだろうかって、心が揺らいで当たり前です」
二人は真剣な顔で聞いてくれている。
「ずっと閉じていた蓋です。心にかかる負担はものすごかったのかもしれません。でも、開けてくれた。そして、それを前回のリゾネイティングでかほりちゃんが一生懸命癒してくれたんです」
そして私は今度はかほりの方を向いて伝えた。
「お母さんが、あんな風に心の内を話してくれたのは、お母さんがかほりちゃんを一人前に認めている証拠です。そして、かほりちゃんもそんな風に認めてくれたお母さんに精一杯応えたいと思ってくれたと思います。前回、僕はかほりちゃんの勇気にすごく感動したんですよ。そしてその勇気はお母さんを助けるだけじゃなくて、お父さんも動かした。本当にかほりちゃんには何度も感動させられます」
かほりは再び照れたように視線を伏せる。
「でも......」
私は、伝えるべきかどうか迷って一呼吸置いた。
しかし伝えないといけない。
「お母さん、お母さんの仰ること、一方でとてもお母さんの健全さを表していると思うんです。かほりちゃんに負担になって申し訳ないと思っていらっしゃる。かほりちゃんに甘え過ぎてはいけないって感じたんですね」
二人は顔を上げて、私の方を見た。私の次の言葉を待っている様子だ。その表情には不安が少なからず感じられる。それに、一瞬たじろぎながらも私は続けた。
「坂部家のご夫婦で抱えている葛藤は確かに小さくなさそうです。それをこの1年間かほりちゃんが力いっぱい訴えて、最近ではお母さんの傷を癒し、お父さんをカウンセリングに連れてきてくれました。もうかほりちゃんは十分ご両親のために頑張ってくれたと思うんです。だから......」
私は少し言葉をためらったが、意を決すると力を込めて言った。
「ご夫婦の問題、これからはご夫婦で解決していけるよう、かほりちゃんを少しずつでも解放してあげませんか」
「先日はお父さんとZoomでお会いさせていただきました。かほりちゃん、お父さんに言ってくれたんだってね。前は絶対無理って言ってたのに、すごいじゃん」
父親との面談の次の回、私はかほりに向けて話題を振ってみた。
それに対してかほりは言葉を発するでもなく、頷くでもなく、なんとなく照れたように視線を外した。
私は更に尋ねた。
「どうやってお父さん誘ってくれたの?すごい勇気いったんじゃない?」
私の問いかけに対してかほりはモジモジしながらも、話し出した。
「部屋で絵を描いてたら、お父さんが話しかけてきて。最初は『やっぱり学校はまだ行くとしんどい』みたいな話だったんですけど......」
「うんうん」
私は相槌ちを交えながらかほりの語りを促した。
「進路どうするんだみたいな話になって、私がまだ分かんないって言って、カウンセラーに相談して来いって言うから、なんとなくその流れで、『一緒に行く?』って聞いたら『いいよ』って言ってくれました」
「そういうことだったんだね。お父さん、すんなり了解してくれた感じ?」
「......わかりません」
「お父さんがどう思って『いいよ』って言ってくれたのか分からないってことだね。でも、本当かほりちゃん、凄いよ。かほりちゃんが勇気出してくれたこと。僕本当にすごいことだと思うよ」
かほりの成長を心から嬉しく思う。
かほりは照れからか、「そんなことないです」と謙遜して答えた。
「それで......」
私は少し声のトーンを抑えて二人の顔を見た。
「私からはお父さんが話してくれた会話の中身までは勝手にお伝えすることはできないんですが、お父さんがここでカウンセリングを継続することを了解してくれたことをお二人と確認しておきたいと思います」
私から父親との最初の面接は個別でお願いしたのだったが、もしかしたら内容は当然伝えられるものだと思っていたのかもしれない。母親の顔が一瞬残念そうに曇った。
そこで私は言う。
「ご夫婦の問題を抱えていらっしゃるので、気になるのは当然だと思います。でも、お母さんがここでご自身にしっかりと向き合っていただいているように、お父さんにもちゃんとご自身の課題に向き合ってもらえたらと思っています。その作業は個別の物ですので、ご了承ください」
すると母親は、私の懸念を否定するでもなく、「わかりました」と返事をくれた。
父親との面接についての話がひと段落したので、私から「今日お二人から話題にしたいことはありますか?」と聞いた。
二人は目を見合わせてお互いに譲るような仕草をする。
私が「どちらからでもどうぞ」と促すと先に母親が口を開いた。
「あの......前から、私のこと、ここですごく聞いてもらっているの分かるんです。この前なんて、私の方がかほりに甘えちゃいました。それで、すごく心が軽くなって、でも......このままでいいのかなって言うか、心が軽くなった反面、情けないと言うか、申し訳ないと言うか......私のことが更にかほりの負担になって、学校に行きにくくならないかとか考えちゃいます」
前回みたいな、深く重い告白をした後に、カウンセリングに対して抵抗感を持つことはよくある。それで以前かほりも来れなかったことがあった。しかし母親はその抵抗感をこのように来談して言葉で表明してくれている。長い時間と回数をかけて築いてきたラポールのお陰だ。
そのことに感謝の気持ちを持って私は伝えた。
「お母さん、今のお気持ちを素直に、そして正直にお話いただいていることに、深い敬意を感じます。そして、お母さんの心配なお気持ち、とても自然なことだと思います。あんなに大切なお話、ずっと心にしまっていて、ご自身ですら長いこと思い出すことがなかったお話をしていただいたんですから、それは不安になります。あんなこと話しちゃって良かったんだろうかって、心が揺らいで当たり前です」
二人は真剣な顔で聞いてくれている。
「ずっと閉じていた蓋です。心にかかる負担はものすごかったのかもしれません。でも、開けてくれた。そして、それを前回のリゾネイティングでかほりちゃんが一生懸命癒してくれたんです」
そして私は今度はかほりの方を向いて伝えた。
「お母さんが、あんな風に心の内を話してくれたのは、お母さんがかほりちゃんを一人前に認めている証拠です。そして、かほりちゃんもそんな風に認めてくれたお母さんに精一杯応えたいと思ってくれたと思います。前回、僕はかほりちゃんの勇気にすごく感動したんですよ。そしてその勇気はお母さんを助けるだけじゃなくて、お父さんも動かした。本当にかほりちゃんには何度も感動させられます」
かほりは再び照れたように視線を伏せる。
「でも......」
私は、伝えるべきかどうか迷って一呼吸置いた。
しかし伝えないといけない。
「お母さん、お母さんの仰ること、一方でとてもお母さんの健全さを表していると思うんです。かほりちゃんに負担になって申し訳ないと思っていらっしゃる。かほりちゃんに甘え過ぎてはいけないって感じたんですね」
二人は顔を上げて、私の方を見た。私の次の言葉を待っている様子だ。その表情には不安が少なからず感じられる。それに、一瞬たじろぎながらも私は続けた。
「坂部家のご夫婦で抱えている葛藤は確かに小さくなさそうです。それをこの1年間かほりちゃんが力いっぱい訴えて、最近ではお母さんの傷を癒し、お父さんをカウンセリングに連れてきてくれました。もうかほりちゃんは十分ご両親のために頑張ってくれたと思うんです。だから......」
私は少し言葉をためらったが、意を決すると力を込めて言った。
「ご夫婦の問題、これからはご夫婦で解決していけるよう、かほりちゃんを少しずつでも解放してあげませんか」
自立へ促し
二人の絶句する顔を見るのは辛い。
「えっと......どういう意味でしょうか」
母親が戸惑いを隠さずに聞いた。
「これまでご夫婦の問題にかほりちゃんが苦しんできました。それはお二人が問題にちゃんと向かい合わないで、まるでないもののようにしてきたからです。それをかほりちゃんがなんとかしたいって、全身で表現してくれたんです。でも、今、少しずつご夫婦で問題に向き合う準備ができてきていると思います。だから......かほりちゃんにそのことを伝えて、かほりちゃんは自分のためにエネルギーを使えるようにしてあげませんか」
「そんな......」今度はかほりが口を開いた。「私は、別に負担だなんて思ってません。お父さんとお母さんが一生懸命私を育ててくれました。私はなんにもしていません。私の方が甘えてばっかりなんです」
かほりの言葉には怒りとも取れる力を感じる。
「かほりちゃん、本当に、本当にごめんなさい。僕がかほりちゃんにお母さんを助けようって言い出したんです。でもね、今のかほりちゃん、すごくランナーズハイ状態になってると思うの。本当に頑張ってくれてる。でも、かほりちゃんが気づいていないところで、凄く負担がかかっていると思うの。その負担の揺り返しは、必ず来ます。そのときにかほりちゃんがもっと傷つくのを僕は止めないといけないんです」
しかしかほりは納得がいかない様子だ。
「そんなの大丈夫です。私は全然平気です!」と反論する。
「かほり......」
それまで静かに座って私の話を聞いていた母親だったが、かほりの腕に静かに手を置くと、食い下がるかほりを制するように言った。
「本当に......強くなったね」
その表情は力なく微笑んでいる。
その微笑みの意味をかほりは理解できないでいるのか、どう反応して良いか分からない様子だ。
戸惑っているかほりを横目に、母親は、すぐに真剣な顔に戻り私の方に視線を向けた。
「ありがとうございます。今、榊さんに言われて、私もスッキリしました。知らない内に、私たち夫婦がこの子に甘え過ぎていたんですね。これからは夫婦の問題は夫婦でしっかりと話し合って、」
「お母さん!」
「かほりには......自分の人生を生きさせてあげられるようにしたいと思います。そうできるように、これからもサポートしてもらえますか?」
「お母さん、ご立派です。今の決意表明、確かに受け取りました。かほりちゃんが今まで全力で訴えてくれていた坂部さんご夫婦の問題、ちゃんと向き合って、本当に納得のいく落としどころを見つけられるよう、私も誠心誠意お手伝いさせてください」
そして、私は隣で納得がいっていない表情のかほりに顔を向けた。
「かほりちゃん、怒ってますね。もっと怒っていいですよ。ここで、私に向かってもっと怒ってください。もっと怒って......そして、この部屋を出る前に深呼吸して、出た後はリセットしていきましょう」
「もういいです。お母さんがいいって言うなら、もういいです。でも、今度お父さんがお母さんに怒ったら、お父さんの目の前でリスカしてやります!」
本気とも冗談とも取れる口調に反応に困ってしまう私だったが、そこは母親が言った。
「そうならないように、お母さんも頑張るね」
その後、残りの時間は三人で呼吸合わせをして、グラウンディングの時間を取った。胸式呼吸を意識しながら心のつながりを感じてもらうことで、かほりのやや過剰に優位に働いていそうな交感神経を鎮静化させることを狙ったグラウンディングだ。
時間になり今後の見通しを話す中で、週末に会う約束をしている父親の話題になった。父親とのカウンセリングで夫婦の問題に向き合うことができるように父親に提案してみること、その過程で、今日のセッションで話した内容を父親に話すことの許可を得た。
最後に料金をお支払いいただくときに、隣にいるかほりにむけて、「そう言えば、今日みたいなセッションすると喉渇くでしょ。血糖値も下がると思うし。お茶とクッキーよかったらどう?」と勧める。すると、かほりは、さっきまでの納得のいかない感じを表面的に抑え込んだのか、気持ちが切り替わっているのか、「ありがとうございます」と言って、マスクを下げ、お茶を飲みほした。
私はクッキーを指し、「これも、よかったら帰りの車で食べてね」と伝える。するとかほりは皿の上からクッキーを手に取って母親の持っているカバンにしまった。
二人を見送ると、いつものように記録に取りかかる。
かほりが両親の仲を修復するという目的に向けて、躁的になっている。
かほりはこれまでずっと両親の冷戦の中、エネルギーを削られてきた。それを仕方のないものとして受け入れ、ずっと耐えてきたのだ。ところが、私とのカウンセリングの中で、自分が頑張れば両親は変えられると思うようになった。それ自体は本当にかほりの成長だ。単に与えられた環境に耐えるだけでなく、自から環境を変えようという主体性が出てきたことには心から頭が下がる。
しかし、両親に気づきを与えるだけで、かほりの役割としては十分だ。両親の不仲の責任はかほりが負うのではなく、両親に返さなくてはならない。かほりがエネルギーを使うべきは自分を癒し、自分の人生を進むためであり、両親のためであるべきではない。
しかし、そのためには夫婦のセッションを入れるべきか、かほり、母親、父親個別で面接していくべきか......
アセスメント
・かほりに主体性が出てきてたが、躁的な様子も見られる。一時的なものなのか、今後継続するのかは要注意。
・母親がかほりに対する親の責任を自覚し、自分たちで解決すると宣言したのは物凄い変化。
方針
・かほりの主体性を尊重しつつ、両親の問題から切り離して、自分の人生に関心を持てるように援助する。
・両親に関しては夫婦ともに、お互いの関係の問題に向き合うことができるよう援助する。
・今後の面接構造について、3人に提案して改めて作り直す。父親の様子によっては夫婦面接は頭に置いておく。
このように書きつつも、私にも迷いがある。今回の面接では特に、主導権を母親かかほりに取ってもらいたかったが、結局父親の面接についてや、かほりを問題から切り離すことについて、私が主導してしまった。本来カウンセリングの方針とはクライアントから出された物を根拠に考えないといけない。しかし、今回、私が主導してしまった結果が、かほりの憮然とした表情だ。母親の健全さに救われたセッションであったと感謝するとともに、つい出しゃばってしまう自分を自戒する。
そして、更に、面接の中でのそれぞれの位置づけだ。これまでの記録には全て「父親」「母親」「かほり」と表記してきた。しかし今後夫婦関係を援助のターゲットにしていくとするならば......。
私はアイスコーヒーの中に浮かぶ氷をグラスにぶつけるように少しグラスを揺すり、心地の良い音を楽しむと、苦みのある冷たい液体を自分の喉に流し込んだ。
「えっと......どういう意味でしょうか」
母親が戸惑いを隠さずに聞いた。
「これまでご夫婦の問題にかほりちゃんが苦しんできました。それはお二人が問題にちゃんと向かい合わないで、まるでないもののようにしてきたからです。それをかほりちゃんがなんとかしたいって、全身で表現してくれたんです。でも、今、少しずつご夫婦で問題に向き合う準備ができてきていると思います。だから......かほりちゃんにそのことを伝えて、かほりちゃんは自分のためにエネルギーを使えるようにしてあげませんか」
「そんな......」今度はかほりが口を開いた。「私は、別に負担だなんて思ってません。お父さんとお母さんが一生懸命私を育ててくれました。私はなんにもしていません。私の方が甘えてばっかりなんです」
かほりの言葉には怒りとも取れる力を感じる。
「かほりちゃん、本当に、本当にごめんなさい。僕がかほりちゃんにお母さんを助けようって言い出したんです。でもね、今のかほりちゃん、すごくランナーズハイ状態になってると思うの。本当に頑張ってくれてる。でも、かほりちゃんが気づいていないところで、凄く負担がかかっていると思うの。その負担の揺り返しは、必ず来ます。そのときにかほりちゃんがもっと傷つくのを僕は止めないといけないんです」
しかしかほりは納得がいかない様子だ。
「そんなの大丈夫です。私は全然平気です!」と反論する。
「かほり......」
それまで静かに座って私の話を聞いていた母親だったが、かほりの腕に静かに手を置くと、食い下がるかほりを制するように言った。
「本当に......強くなったね」
その表情は力なく微笑んでいる。
その微笑みの意味をかほりは理解できないでいるのか、どう反応して良いか分からない様子だ。
戸惑っているかほりを横目に、母親は、すぐに真剣な顔に戻り私の方に視線を向けた。
「ありがとうございます。今、榊さんに言われて、私もスッキリしました。知らない内に、私たち夫婦がこの子に甘え過ぎていたんですね。これからは夫婦の問題は夫婦でしっかりと話し合って、」
「お母さん!」
「かほりには......自分の人生を生きさせてあげられるようにしたいと思います。そうできるように、これからもサポートしてもらえますか?」
「お母さん、ご立派です。今の決意表明、確かに受け取りました。かほりちゃんが今まで全力で訴えてくれていた坂部さんご夫婦の問題、ちゃんと向き合って、本当に納得のいく落としどころを見つけられるよう、私も誠心誠意お手伝いさせてください」
そして、私は隣で納得がいっていない表情のかほりに顔を向けた。
「かほりちゃん、怒ってますね。もっと怒っていいですよ。ここで、私に向かってもっと怒ってください。もっと怒って......そして、この部屋を出る前に深呼吸して、出た後はリセットしていきましょう」
「もういいです。お母さんがいいって言うなら、もういいです。でも、今度お父さんがお母さんに怒ったら、お父さんの目の前でリスカしてやります!」
本気とも冗談とも取れる口調に反応に困ってしまう私だったが、そこは母親が言った。
「そうならないように、お母さんも頑張るね」
その後、残りの時間は三人で呼吸合わせをして、グラウンディングの時間を取った。胸式呼吸を意識しながら心のつながりを感じてもらうことで、かほりのやや過剰に優位に働いていそうな交感神経を鎮静化させることを狙ったグラウンディングだ。
時間になり今後の見通しを話す中で、週末に会う約束をしている父親の話題になった。父親とのカウンセリングで夫婦の問題に向き合うことができるように父親に提案してみること、その過程で、今日のセッションで話した内容を父親に話すことの許可を得た。
最後に料金をお支払いいただくときに、隣にいるかほりにむけて、「そう言えば、今日みたいなセッションすると喉渇くでしょ。血糖値も下がると思うし。お茶とクッキーよかったらどう?」と勧める。すると、かほりは、さっきまでの納得のいかない感じを表面的に抑え込んだのか、気持ちが切り替わっているのか、「ありがとうございます」と言って、マスクを下げ、お茶を飲みほした。
私はクッキーを指し、「これも、よかったら帰りの車で食べてね」と伝える。するとかほりは皿の上からクッキーを手に取って母親の持っているカバンにしまった。
二人を見送ると、いつものように記録に取りかかる。
かほりが両親の仲を修復するという目的に向けて、躁的になっている。
かほりはこれまでずっと両親の冷戦の中、エネルギーを削られてきた。それを仕方のないものとして受け入れ、ずっと耐えてきたのだ。ところが、私とのカウンセリングの中で、自分が頑張れば両親は変えられると思うようになった。それ自体は本当にかほりの成長だ。単に与えられた環境に耐えるだけでなく、自から環境を変えようという主体性が出てきたことには心から頭が下がる。
しかし、両親に気づきを与えるだけで、かほりの役割としては十分だ。両親の不仲の責任はかほりが負うのではなく、両親に返さなくてはならない。かほりがエネルギーを使うべきは自分を癒し、自分の人生を進むためであり、両親のためであるべきではない。
しかし、そのためには夫婦のセッションを入れるべきか、かほり、母親、父親個別で面接していくべきか......
アセスメント
・かほりに主体性が出てきてたが、躁的な様子も見られる。一時的なものなのか、今後継続するのかは要注意。
・母親がかほりに対する親の責任を自覚し、自分たちで解決すると宣言したのは物凄い変化。
方針
・かほりの主体性を尊重しつつ、両親の問題から切り離して、自分の人生に関心を持てるように援助する。
・両親に関しては夫婦ともに、お互いの関係の問題に向き合うことができるよう援助する。
・今後の面接構造について、3人に提案して改めて作り直す。父親の様子によっては夫婦面接は頭に置いておく。
このように書きつつも、私にも迷いがある。今回の面接では特に、主導権を母親かかほりに取ってもらいたかったが、結局父親の面接についてや、かほりを問題から切り離すことについて、私が主導してしまった。本来カウンセリングの方針とはクライアントから出された物を根拠に考えないといけない。しかし、今回、私が主導してしまった結果が、かほりの憮然とした表情だ。母親の健全さに救われたセッションであったと感謝するとともに、つい出しゃばってしまう自分を自戒する。
そして、更に、面接の中でのそれぞれの位置づけだ。これまでの記録には全て「父親」「母親」「かほり」と表記してきた。しかし今後夫婦関係を援助のターゲットにしていくとするならば......。
私はアイスコーヒーの中に浮かぶ氷をグラスにぶつけるように少しグラスを揺すり、心地の良い音を楽しむと、苦みのある冷たい液体を自分の喉に流し込んだ。
大和魂
20XX+1年 9月27日 隆志#2 オンライン面接
お互いのパソコンが正常に機能し、カメラの向こうにいるお互いの映像を確認するのに一瞬のタイムラグがある。マイクから向こうの音声は聞こえるが、相手側のカメラがまだオンになっていないため、坂部父を映し出していない。少しの間、私は声掛けをせずに待つ。するとカメラがオンになり、前回と変わらない様子の父親を映しだした。
おっと、違う。私は今後、父親、母親ではなく、隆志、とも子と頭の中で呼ぶことにしたことを思い出す。
「こんにちは」
私ができるだけ朗らかな口調で伝えると、それに応えて隆志も
「こんにちは」
と、こちらはややドライな印象を受ける声で挨拶をくれた。
「前回から一週間経ちましたが、今日はご気分いかがですか?」
という私の問いかけにも
「特に変わりありません」
とドライな返答が返ってくる。
私は前回のとも子とかほりの合同面接のことを頭に置きつつ聞く。
「その後、何かご家族で話されました?」
「まぁ、妻とは特に会話ないですね。これまでも、口を開けば喧嘩になるようなところも確かにあるなって、前回反省したんですが、じゃ、喧嘩にならないようにって思うと本当に話せなくなるって言うか。思うところがあっても、言わなければ喧嘩にはならないのかもしれませんが、これって本当にいいんですかって思います」
その口調からは、やはり納得のいかなさを感じる。
「なるほど。ちょっと前回の面接を振り返りましょう。前回、かほりちゃんが小さいときに奥さんと言い合いになった場面が語られましたね」
問題の場面について私から切り出した。
「はい」
「それが夫婦の亀裂を決定的にしたって」
「そうでした」
「つまり、もう10年以上亀裂の入ったままの状態で夫婦関係を続けてきていらっしゃるっていうこと」
「そういうことになりますね」
これまでの経緯を確認した上で私は掘り下げた。
「ちょっとイメージしてみてください。今、坂部さんの目の前に壺があったとします。でも、その壺には真ん中に決定的な亀裂が走っています。ヒビよりも深い、真っ二つにするような亀裂です。その状態で壺が形を維持するだけでも困難なのに、本来の壺としての役割を果たすのがとっても難しいということが解ると思います」
隆志は、この私の誘導にやや棘のある言い方で返す。
「回りくどい言い方しなくても、分かります。夫婦関係が良くないから、かほりが不登校になったってことですよね」
―――下手に触ると刺されるような感覚だ。
だが、棘を恐れてばかりいては、会話が上滑りして、核心から遠ざかってしまう。
そのことを意識しつつ私は続けた。
「まぁ、結果的にはそういう結論なんですが、その前段階のところで、なんで、壺は割れてしまわないのでしょうか。真ん中に真っ二つに引き裂くような亀裂が入っていたらそのまま割れてしまいそうですが」
カウンセリングの中で、「なぜ」という問いかけは少なからず攻撃的なニュアンスが含まれてしまう。それに隆志も反応するように、やや憮然とした返事をする。
「なんでそんな状態で別れないで一緒にいるのかってことですか」
私は自分の言葉が父親を追い詰めないように、できるだけ感情を抑えることを意識しつつ聞く。
「そういう選択を考えたことはあるんですか?」
そうすると父親の返答もフラットになるのを感じる。
「正直考えるだけなら何度も考えています」
「離婚を考えることがある」
「考えたことはありますが、実際にそのことを夫婦で話したことはないです。やはりこんなでもかほりにとっては両親がそろっていた方がいいのかなって」
「それはお父さんがかほりちゃんのことを本当に愛していらっしゃるからそう思うんですね」
「もちろん子どもはかわいいですよ。不登校は愛情不足なんて言う人もいますが、常識的な愛情はかけてきたつもりです......」
かほりへの愛情について私が共感の態度を示したことで、隆志も柔らかい返事に変わってくる。しかしそれに続く言葉はやはり隆志の価値観が強く反映されていた。
「でも、それよりも責任っていう言葉の方がしっくりくる気がします」
「責任?」
「子どもを作った親の責任もそうですし、妻と結婚した僕の責任もあります」
「責任感の強い方なんですね」
「自分の行動の責任を放棄することはできません」
圧のある言葉と、ストイックな姿勢に隆志の生きてきた歴史を想像させられる。
「もちろんそうなんですが、それをしっかりと遂行できない人がたくさんいます。坂部さん、立派だと思います。ただ、愛情って言うと能動的なイメージですが、責任って言うと、なにか義務を負わされている感じがしますね」
「そう思いますね」
とてもストレートで純直な人柄を感じつつ私は伝えた。
「坂部さん、私が簡単に考えていると思わないでください。離婚なんて夫婦や家族にとってものすごく大きな決断なのに、それを無責任にお勧めしているわけじゃないんです。ただ、私は坂部さんご自身も、奥さんもかほりちゃんにも、幸せになってほしいって本気で思っています。そして、離婚を考えるくらい、その責任に苦しんでいらっしゃるのに、それを手放すことができない坂部さんのお気持ちに、ある種大和魂を感じています」
「大和魂?なんでですか?」
「日本人の気質です。どんなに苦しくても、忍耐強く粘り抜く。自らを省みないで、周りとの調和を優先する姿勢です」
私の例えに隆志は苦笑いを見せる。
「そんな大袈裟なものじゃないですよ」
「でしたら......ちょっと想像してみましょう。坂部さんの幸せってなんですか?」
隆志が少し驚いた表情を見せる。
「なんでしょう......改まって聞かれると、パッと出てこないですが......」私の不意の問いかけに少し考えつつも、「人並みに働いて、仕事上がったら家で美味いビールを飲むくらいですかね」
「随分つつましいんですね」
「今更会社で出世してとか、望み薄ですしね」
「なるほど、そういう夢も持っておられた?」
「若いころはそういう時期もありました。でも、現実が見えてくると、そこまで思わなくなりますね」
「なるほど。坂部さん、幸せになれますよ」
「ハハ」
隆志は渇いた笑いで応える。
お互いのパソコンが正常に機能し、カメラの向こうにいるお互いの映像を確認するのに一瞬のタイムラグがある。マイクから向こうの音声は聞こえるが、相手側のカメラがまだオンになっていないため、坂部父を映し出していない。少しの間、私は声掛けをせずに待つ。するとカメラがオンになり、前回と変わらない様子の父親を映しだした。
おっと、違う。私は今後、父親、母親ではなく、隆志、とも子と頭の中で呼ぶことにしたことを思い出す。
「こんにちは」
私ができるだけ朗らかな口調で伝えると、それに応えて隆志も
「こんにちは」
と、こちらはややドライな印象を受ける声で挨拶をくれた。
「前回から一週間経ちましたが、今日はご気分いかがですか?」
という私の問いかけにも
「特に変わりありません」
とドライな返答が返ってくる。
私は前回のとも子とかほりの合同面接のことを頭に置きつつ聞く。
「その後、何かご家族で話されました?」
「まぁ、妻とは特に会話ないですね。これまでも、口を開けば喧嘩になるようなところも確かにあるなって、前回反省したんですが、じゃ、喧嘩にならないようにって思うと本当に話せなくなるって言うか。思うところがあっても、言わなければ喧嘩にはならないのかもしれませんが、これって本当にいいんですかって思います」
その口調からは、やはり納得のいかなさを感じる。
「なるほど。ちょっと前回の面接を振り返りましょう。前回、かほりちゃんが小さいときに奥さんと言い合いになった場面が語られましたね」
問題の場面について私から切り出した。
「はい」
「それが夫婦の亀裂を決定的にしたって」
「そうでした」
「つまり、もう10年以上亀裂の入ったままの状態で夫婦関係を続けてきていらっしゃるっていうこと」
「そういうことになりますね」
これまでの経緯を確認した上で私は掘り下げた。
「ちょっとイメージしてみてください。今、坂部さんの目の前に壺があったとします。でも、その壺には真ん中に決定的な亀裂が走っています。ヒビよりも深い、真っ二つにするような亀裂です。その状態で壺が形を維持するだけでも困難なのに、本来の壺としての役割を果たすのがとっても難しいということが解ると思います」
隆志は、この私の誘導にやや棘のある言い方で返す。
「回りくどい言い方しなくても、分かります。夫婦関係が良くないから、かほりが不登校になったってことですよね」
―――下手に触ると刺されるような感覚だ。
だが、棘を恐れてばかりいては、会話が上滑りして、核心から遠ざかってしまう。
そのことを意識しつつ私は続けた。
「まぁ、結果的にはそういう結論なんですが、その前段階のところで、なんで、壺は割れてしまわないのでしょうか。真ん中に真っ二つに引き裂くような亀裂が入っていたらそのまま割れてしまいそうですが」
カウンセリングの中で、「なぜ」という問いかけは少なからず攻撃的なニュアンスが含まれてしまう。それに隆志も反応するように、やや憮然とした返事をする。
「なんでそんな状態で別れないで一緒にいるのかってことですか」
私は自分の言葉が父親を追い詰めないように、できるだけ感情を抑えることを意識しつつ聞く。
「そういう選択を考えたことはあるんですか?」
そうすると父親の返答もフラットになるのを感じる。
「正直考えるだけなら何度も考えています」
「離婚を考えることがある」
「考えたことはありますが、実際にそのことを夫婦で話したことはないです。やはりこんなでもかほりにとっては両親がそろっていた方がいいのかなって」
「それはお父さんがかほりちゃんのことを本当に愛していらっしゃるからそう思うんですね」
「もちろん子どもはかわいいですよ。不登校は愛情不足なんて言う人もいますが、常識的な愛情はかけてきたつもりです......」
かほりへの愛情について私が共感の態度を示したことで、隆志も柔らかい返事に変わってくる。しかしそれに続く言葉はやはり隆志の価値観が強く反映されていた。
「でも、それよりも責任っていう言葉の方がしっくりくる気がします」
「責任?」
「子どもを作った親の責任もそうですし、妻と結婚した僕の責任もあります」
「責任感の強い方なんですね」
「自分の行動の責任を放棄することはできません」
圧のある言葉と、ストイックな姿勢に隆志の生きてきた歴史を想像させられる。
「もちろんそうなんですが、それをしっかりと遂行できない人がたくさんいます。坂部さん、立派だと思います。ただ、愛情って言うと能動的なイメージですが、責任って言うと、なにか義務を負わされている感じがしますね」
「そう思いますね」
とてもストレートで純直な人柄を感じつつ私は伝えた。
「坂部さん、私が簡単に考えていると思わないでください。離婚なんて夫婦や家族にとってものすごく大きな決断なのに、それを無責任にお勧めしているわけじゃないんです。ただ、私は坂部さんご自身も、奥さんもかほりちゃんにも、幸せになってほしいって本気で思っています。そして、離婚を考えるくらい、その責任に苦しんでいらっしゃるのに、それを手放すことができない坂部さんのお気持ちに、ある種大和魂を感じています」
「大和魂?なんでですか?」
「日本人の気質です。どんなに苦しくても、忍耐強く粘り抜く。自らを省みないで、周りとの調和を優先する姿勢です」
私の例えに隆志は苦笑いを見せる。
「そんな大袈裟なものじゃないですよ」
「でしたら......ちょっと想像してみましょう。坂部さんの幸せってなんですか?」
隆志が少し驚いた表情を見せる。
「なんでしょう......改まって聞かれると、パッと出てこないですが......」私の不意の問いかけに少し考えつつも、「人並みに働いて、仕事上がったら家で美味いビールを飲むくらいですかね」
「随分つつましいんですね」
「今更会社で出世してとか、望み薄ですしね」
「なるほど、そういう夢も持っておられた?」
「若いころはそういう時期もありました。でも、現実が見えてくると、そこまで思わなくなりますね」
「なるほど。坂部さん、幸せになれますよ」
「ハハ」
隆志は渇いた笑いで応える。
不登校の意味
そこに私は真剣な表情をとともに、低めの口調で言った。
「いや、冗談じゃなくて、本気で言っています。奥さんが、坂部さんとの関係を修復したいって本気で思っていらっしゃいます。どうか、奥さんとの問題に、坂部さんも真剣に向き合っていただけませんか。多分、お二人だとなかなかそういう感じになれないで、ご苦労なさってきているんだと思います。そして、これはハッキリ言わせてください。その間を取り持とうとして、かほりちゃんがこれまでものすごく、それこそ、彼女の全てをかけて、頑張ってくれてたんです。でも、それは中学生の子どもに負わせるには責任が重すぎます。そして、それが上手くいかない自分をかほりちゃんは責めちゃうんです。それがかほりちゃんを苦しめています。かほりちゃんのエネルギー奪っています。でも、彼女は彼女の大和魂で、それを遂行しようとしてきました。今、坂部家に必要なことは、ご両親がちゃんとお二人の課題に向き合って、かほりちゃんをその責任から解放してあげることです」
私の口調はここでも説得モードだ。
「ん~、かほりに良くないっていうのは解りますが、かほりが僕たちの間を取り持とうとしたっていうのは、あまり実感がありません。毎日家で絵を描いているか、スマホ見てるかゲームしているだけですよ」
「確かにかほりちゃんの行動はそうかもしれません。でも、彼女は不登校になりました。私たちカウンセラーは子どもが出す色々な症状は、子どもの切実なSOSであると捉えます。つまり、坂部さんも奥さんもいっぱい傷ついてらして、でも、誰にも助けを求められない。その代わりにかほりちゃんが全身でSOSを叫んでくれたんです。だから、結果として私がご夫婦の前に現れました」
「随分こじつけに聞こえます」
「でも、彼女が不登校にならなかったら、私は坂部さんご夫婦には会っていなかった。今この会話もかほりちゃんの不登校あったればこそです。仮にこじつけだったとしても、彼女の不登校を有益に意味づけてあげられたら、それはかほりちゃんにとって、救いになるはずです。もう一度言います。奥さんとの関係修復に向き合ってみませんか」
「いや、僕はちゃんと話し合うことを拒否しているわけじゃないです。だから、こうしてカウンセリングを受けることも了承しました。今までだって何度も話し合おうとしてきましたよ。でも、僕が話すたびに妻が黙り込んでしまうか、逃げてしまうんです」
「なるほど。坂部さんも努力していらしたんですね」
「それはそうですね」
「では、奥さんがちゃんと逃げないで話してくれれば、坂部さんも応えてくださるということですね」
「はい」
「それでしたら、私と奥さんと3人のセッションで話し合いができればと思うのですが、それはいかがですか?」
「僕は構いませんよ」
「ありがとうございます」
これで夫婦合同のセッションを組むことができることに私は一歩進んだ手応えを得た。ただ、単に私立ち合いの下で夫婦と話合わせても、目の前でケンカが起こったときに、コントロール不能になるのは避けたい。
そう思いつつ私は続けた。
「ただその前に、坂部さんの奥さんに対する気持ちも今日の残りの時間で整理していければと思います。前回も話していましたが、坂部さん、奥さんに対して、いろいろ複雑な思いを持っていらっしゃいますね」
「それはそうですね。繰り返しになりますが、僕は妻が家の中でイライラしていても、できるだけ我慢して過ごしてますし、死ぬ死ぬって言ったときも、できるだけ優しく話を聞いてやろうとしてきました。それなのに、妻は無視したり、逃げたり。時にはこちらの神経を逆なでするようなこと言ったりもしていました」
「逆なで?」
「僕が話を聞こうとしても、『あなたに話したってなにも解決しないでしょ』とか。そんなこと言われたら、どうしたって、勝手にしろっていう気持ちになりますよ」
「それは今の奥さんですか?」
「まぁ、最近はそこまでじゃないですが、かほりが赤ちゃんの頃は酷かったです」
私は想像する。隆志は今のとも子を見ることができていないのだろう。とも子がどんなに努力して変わっても、そこには目をくれず、過去に自身が傷つけられた時のとも子をずっと責め続けているんだろう。
「なるほど。最愛の人からそんなこと言われたら、傷つきますよね」
「最愛の人......なんでしょう。最愛の人なんですかね」
「しっくりこない?」
「今更妻を愛しているかと聞かれたら、正直なところ分かりません」
「今更っておっしゃいましたね。つまり以前は最愛の人だった。でも変わってしまった」
「誰だってそうじゃないですか」
「夫婦でぶつかり合って、傷ついて、愛情が失われていく?」
「そうなんですかね」
「仮にそうだとしたら、その傷つきを癒していければまた愛情は回復できますか」
「どうなんでしょう。分かりません」
やはりとも子の話をするとき、少なからず隆志の交感神経が優位になるのを感じる。
それを落ち着かせるため、私は安全な記憶を呼び覚ますところから入る。
「まずは前回話していた温泉のイメージを思い出してください」
「あ、はい」
「できれば、目を閉じていただいて、そのときの映像を頭の中に思い浮かべてください」
隆志は自然と目を閉じた。
「ゆったりと深呼吸して......」
私は意識的にややゆっくりとした口調の低めの声で誘導する。もちろん自分自身、リラックス呼吸も忘れない。
「温泉の硫黄の匂い、ヌルヌルする泉質、青く光るからだ、そしてコーヒー牛乳......思い出せますか」
「はい」
「温泉......季節はいつだったんですか?」
「冬だったと思います」
「北海道で冬でしたら、露天風呂なんか、雪景色に包まれてたりするんですか?」
「そうでした。周りには雪が降っていました」
「その映像をよく思い出していきましょう。綺麗な雪景色に包まれて、でも、温泉がぽかぽかとあったかくて」
隆志の呼吸を観察し、リラックスが少しずつ深まっていくのを確認しながら、私はつづけた。
「今、坂部さんは安全です。その光景を思い浮かべながら、自分が安全な場所にいるということをしっかりと確認していきましょう」
「はい」
「いいですね、いいですね」
隆志は目を閉じて私の教示を聞いている。
「ゆったりとその安全な感覚に浸って......そこから少しずつ少しずつ、奥さんとの問題に近づいていきましょう」
目を閉じている隆志の眉間に若干の皺がよるのをPCのカメラ越しでも私は見逃さなかった。
「そして、すぐに温泉に戻ります」
隆志は目を閉じたままだ。
「まるで、温泉から一瞬だけ上がって、雪に触りに行く感じです。ちょっとでも冷たいと思ったら、すぐにあったかい温泉に帰りましょう。そして十分にあったまって......」
一呼吸置いてから私はつづけた。
「もう一度、奥さんの言葉に少し近づきます。なんて言われたんでしたっけ」
「あなたに話しても何も解決しない」
「はい、すぐにまた温泉に戻ります。そして、あったかい温泉で雪の冷たい感覚を温めます」
「今はどんな感じですか」
「特に、大丈夫です」
「いいですねいいですね」
「そんなに何度も行き戻りしなくても大丈夫ですよ。妻とのことで話を進めてもらってもかまいません」
しかし私は、
「今していることの目的は、坂部さんが奥さんとの問題に向き合うにあたって、坂部さんの感情の起伏をできるだけ小さくすることです。ゆったりと落ち着いて、冷静な状態で、奥さんの言葉を吟味していただきたいと思っています。スーパーサイヤ人にならないように」
と促す。
「わかりました。でも、本当に大丈夫です」
やはり早く進めたいらしい。
「では、もう一度、少しずつ奥さんの言葉に近づいていきましょう」
「はい」
「いつでも温泉に入れますからね」
「はい」
「奥さんに『あなたに話しても何も解決しない』と言われた」
また眉間に少し皺が寄る
「どんな気持ちですか」
「今は冷静ですが、そのときは腹が立ちましたね」
「腹が立った」
「はい」
「その時の腹が立った感覚。坂部さん、今は冷静に見つめられそうですか。大丈夫ですか」
「大丈夫です」
「いや、冗談じゃなくて、本気で言っています。奥さんが、坂部さんとの関係を修復したいって本気で思っていらっしゃいます。どうか、奥さんとの問題に、坂部さんも真剣に向き合っていただけませんか。多分、お二人だとなかなかそういう感じになれないで、ご苦労なさってきているんだと思います。そして、これはハッキリ言わせてください。その間を取り持とうとして、かほりちゃんがこれまでものすごく、それこそ、彼女の全てをかけて、頑張ってくれてたんです。でも、それは中学生の子どもに負わせるには責任が重すぎます。そして、それが上手くいかない自分をかほりちゃんは責めちゃうんです。それがかほりちゃんを苦しめています。かほりちゃんのエネルギー奪っています。でも、彼女は彼女の大和魂で、それを遂行しようとしてきました。今、坂部家に必要なことは、ご両親がちゃんとお二人の課題に向き合って、かほりちゃんをその責任から解放してあげることです」
私の口調はここでも説得モードだ。
「ん~、かほりに良くないっていうのは解りますが、かほりが僕たちの間を取り持とうとしたっていうのは、あまり実感がありません。毎日家で絵を描いているか、スマホ見てるかゲームしているだけですよ」
「確かにかほりちゃんの行動はそうかもしれません。でも、彼女は不登校になりました。私たちカウンセラーは子どもが出す色々な症状は、子どもの切実なSOSであると捉えます。つまり、坂部さんも奥さんもいっぱい傷ついてらして、でも、誰にも助けを求められない。その代わりにかほりちゃんが全身でSOSを叫んでくれたんです。だから、結果として私がご夫婦の前に現れました」
「随分こじつけに聞こえます」
「でも、彼女が不登校にならなかったら、私は坂部さんご夫婦には会っていなかった。今この会話もかほりちゃんの不登校あったればこそです。仮にこじつけだったとしても、彼女の不登校を有益に意味づけてあげられたら、それはかほりちゃんにとって、救いになるはずです。もう一度言います。奥さんとの関係修復に向き合ってみませんか」
「いや、僕はちゃんと話し合うことを拒否しているわけじゃないです。だから、こうしてカウンセリングを受けることも了承しました。今までだって何度も話し合おうとしてきましたよ。でも、僕が話すたびに妻が黙り込んでしまうか、逃げてしまうんです」
「なるほど。坂部さんも努力していらしたんですね」
「それはそうですね」
「では、奥さんがちゃんと逃げないで話してくれれば、坂部さんも応えてくださるということですね」
「はい」
「それでしたら、私と奥さんと3人のセッションで話し合いができればと思うのですが、それはいかがですか?」
「僕は構いませんよ」
「ありがとうございます」
これで夫婦合同のセッションを組むことができることに私は一歩進んだ手応えを得た。ただ、単に私立ち合いの下で夫婦と話合わせても、目の前でケンカが起こったときに、コントロール不能になるのは避けたい。
そう思いつつ私は続けた。
「ただその前に、坂部さんの奥さんに対する気持ちも今日の残りの時間で整理していければと思います。前回も話していましたが、坂部さん、奥さんに対して、いろいろ複雑な思いを持っていらっしゃいますね」
「それはそうですね。繰り返しになりますが、僕は妻が家の中でイライラしていても、できるだけ我慢して過ごしてますし、死ぬ死ぬって言ったときも、できるだけ優しく話を聞いてやろうとしてきました。それなのに、妻は無視したり、逃げたり。時にはこちらの神経を逆なでするようなこと言ったりもしていました」
「逆なで?」
「僕が話を聞こうとしても、『あなたに話したってなにも解決しないでしょ』とか。そんなこと言われたら、どうしたって、勝手にしろっていう気持ちになりますよ」
「それは今の奥さんですか?」
「まぁ、最近はそこまでじゃないですが、かほりが赤ちゃんの頃は酷かったです」
私は想像する。隆志は今のとも子を見ることができていないのだろう。とも子がどんなに努力して変わっても、そこには目をくれず、過去に自身が傷つけられた時のとも子をずっと責め続けているんだろう。
「なるほど。最愛の人からそんなこと言われたら、傷つきますよね」
「最愛の人......なんでしょう。最愛の人なんですかね」
「しっくりこない?」
「今更妻を愛しているかと聞かれたら、正直なところ分かりません」
「今更っておっしゃいましたね。つまり以前は最愛の人だった。でも変わってしまった」
「誰だってそうじゃないですか」
「夫婦でぶつかり合って、傷ついて、愛情が失われていく?」
「そうなんですかね」
「仮にそうだとしたら、その傷つきを癒していければまた愛情は回復できますか」
「どうなんでしょう。分かりません」
やはりとも子の話をするとき、少なからず隆志の交感神経が優位になるのを感じる。
それを落ち着かせるため、私は安全な記憶を呼び覚ますところから入る。
「まずは前回話していた温泉のイメージを思い出してください」
「あ、はい」
「できれば、目を閉じていただいて、そのときの映像を頭の中に思い浮かべてください」
隆志は自然と目を閉じた。
「ゆったりと深呼吸して......」
私は意識的にややゆっくりとした口調の低めの声で誘導する。もちろん自分自身、リラックス呼吸も忘れない。
「温泉の硫黄の匂い、ヌルヌルする泉質、青く光るからだ、そしてコーヒー牛乳......思い出せますか」
「はい」
「温泉......季節はいつだったんですか?」
「冬だったと思います」
「北海道で冬でしたら、露天風呂なんか、雪景色に包まれてたりするんですか?」
「そうでした。周りには雪が降っていました」
「その映像をよく思い出していきましょう。綺麗な雪景色に包まれて、でも、温泉がぽかぽかとあったかくて」
隆志の呼吸を観察し、リラックスが少しずつ深まっていくのを確認しながら、私はつづけた。
「今、坂部さんは安全です。その光景を思い浮かべながら、自分が安全な場所にいるということをしっかりと確認していきましょう」
「はい」
「いいですね、いいですね」
隆志は目を閉じて私の教示を聞いている。
「ゆったりとその安全な感覚に浸って......そこから少しずつ少しずつ、奥さんとの問題に近づいていきましょう」
目を閉じている隆志の眉間に若干の皺がよるのをPCのカメラ越しでも私は見逃さなかった。
「そして、すぐに温泉に戻ります」
隆志は目を閉じたままだ。
「まるで、温泉から一瞬だけ上がって、雪に触りに行く感じです。ちょっとでも冷たいと思ったら、すぐにあったかい温泉に帰りましょう。そして十分にあったまって......」
一呼吸置いてから私はつづけた。
「もう一度、奥さんの言葉に少し近づきます。なんて言われたんでしたっけ」
「あなたに話しても何も解決しない」
「はい、すぐにまた温泉に戻ります。そして、あったかい温泉で雪の冷たい感覚を温めます」
「今はどんな感じですか」
「特に、大丈夫です」
「いいですねいいですね」
「そんなに何度も行き戻りしなくても大丈夫ですよ。妻とのことで話を進めてもらってもかまいません」
しかし私は、
「今していることの目的は、坂部さんが奥さんとの問題に向き合うにあたって、坂部さんの感情の起伏をできるだけ小さくすることです。ゆったりと落ち着いて、冷静な状態で、奥さんの言葉を吟味していただきたいと思っています。スーパーサイヤ人にならないように」
と促す。
「わかりました。でも、本当に大丈夫です」
やはり早く進めたいらしい。
「では、もう一度、少しずつ奥さんの言葉に近づいていきましょう」
「はい」
「いつでも温泉に入れますからね」
「はい」
「奥さんに『あなたに話しても何も解決しない』と言われた」
また眉間に少し皺が寄る
「どんな気持ちですか」
「今は冷静ですが、そのときは腹が立ちましたね」
「腹が立った」
「はい」
「その時の腹が立った感覚。坂部さん、今は冷静に見つめられそうですか。大丈夫ですか」
「大丈夫です」
隆志の回想
「では、あったかい温泉につかって、その中から、奥さんの言葉を咀嚼していきましょう。あったかい温泉で体をリラックスさせながら......その怒りをよく見ていきましょう」
怒りの感情を引き起こした状況を、リラックスした気持ちで回顧する。そうすることで、その状況を冷静に評価できるようになる。
私は隆志の様子をよく観察しながら、私は次の段階に入るための言葉をつなぐ。
「坂部さん、その種の怒り、坂部さんの人生の中で、何度か味わっているんじゃないかと思います」
「どういうことですか?」
「その時の腹立ちと似たような怒りを覚えた別の場面って、何か思い出せますか?」
「え、腹が立ったことなんていっぱいありますよ。出張から帰ってきても、僕が出かけたときにキッチンの流しに置いてあった洗い物が手を付けられずに残ってた時とか」
「なるほど、そんなこともあったんですね。それは最近のことですか?」
「いや、2年前くらいですかね」
「できれば、坂部さんが思い出せる一番古い記憶に立ち返ってもらうことはできますか?『あなたに話しても何も解決しない』って言われたときに感じた怒りと似たような気持ちになった一番古い記憶です」
「え~、なんでしょう。多分いっぱいあると思うんですが......」
目を閉じたまま、隆志は自身の記憶を遡ろうとする。その隆志の努力に敬意を感じつつ、私は深い呼吸をしながら見守った。
少しの間を置いた後に、隆志は語りだした。
「今思い出すのは、そう中学受験の時ですかね」
「何がありましたか?」
「僕、二つ上に兄がいるんですが、兄が行ってた中学に僕も行こうと思って受験したんですが、僕落ちちゃったんですよね。そのときに、兄が『お前馬鹿だな』って。今考えても酷いですよね。人が落ち込んでいるところに追い打ちをかけると言うか」
「なるほど、それで腹が立った」
「はい」
「そのときの感情よく味わっていきましょう。いつでも温泉に入れる準備をしながら」
「なんですかね。すごく悲しかったんですよね。親の期待を裏切ってしまったと言うか」
「結構教育熱心なご家庭だったんですか?」
「いや、そういうわけではないと思うんですが、母親はすごく優しかったですし。でも、父親が高卒なんで、子どもには学歴をつけさせたいっていう気持ちがあったの、今思えば理解できますが、それでかな。プレッシャーに感じてたんだと思います。それで、そう、腹が立ったっていうのとズレちゃいますが、親父の期待を裏切ってしまったっていう感じで途方に暮れていたと言うか。そこに追い打ちをかけられたから腹が立ったのかもしれません」
「なるほど。つまり腹が立ったっていう気持ちの裏には悲しみがあったんですね」
「そうかもしれません。そうするとさっき言ってた妻に腹が立ったっていうのと話がズレちゃいますね」
「ズレちゃいますか?」
「そんなことないですか?」
「今回は奥さんの『あなたに話しても仕方がない』でしたっけ」
「『何も解決しない』ですね」
「そうそう。『あなたに話しても何も解決しない』という言葉を起点に感情を遡っています。なので、何らかの関係性があるんだと思います」
「そうなんですか」
隆志は思い思い当たる感覚がない様子だ。
私は掘り下げる。
「奥さんへの怒りの裏にも、もしかしたら何らかの悲しみがあったのかもしれません。もう少しそのときの状況をよく探っていきましょう。お兄さんに『お前馬鹿だな』って言われて、腹が立って、それからどうなったんですか?」
「うろ覚えですが、多分、兄に言い返すこともできなくて、呆然としてたんですよね。そしたら、母が来て慰めてくれたのかな。って、それだけの話なんですけどね」
「さっきもお母さんは優しかったって言っていましたね。そのお母さんが、落ち込んでる隆志少年のところに来て、慰めてくれたんですね。それからどうなりました?」
「いや、ホントそれで終わりです」
「なるほど、ではこの話の中から、坂部さんの奥さんに感じている怒りの根源を探っていきましょう」
「そんなの分かるんですか?」
「登場人物は坂部さんの原家族4人です。お兄さん、お父さん、お母さん、そして隆志少年」
「はい」
「まずそれぞれの人物像を整理しましょう。お兄さんは、自分が落ちた学校に受かってて、マウント取ってくる感じだったんですかね」
「そうですね。その時以外にも、なんだかんだ、上から言ってくると言うか、そういう感じでした。まぁ、今では普通に仲いいですけどね。お互いに家庭を持っていますが、たまに一緒に飲んだりもします」
「あ、そうなんですね。子どものころと関係が変わった感じなんですね」
「お互いに大人になりましたからね」
「なるほど。次にお父さんです。高卒で、隆志少年に学歴をつけさせたいと思ってプレッシャーをかける人だった」
「具体的にプレッシャーをかけるって程、何か言ってきてたわけじゃないですが、でも、大学に行かせたい思いは強い人でしたね。なんか、今時当たり前なのに、未だに、俺は二人の息子を大学まで行かせたんだって誰かに自慢したりする恥ずかしい親父です」
「なるほど。よっぽど二人の息子さんを誇らしく思ってらっしゃるんですね」
「二人ともそんなにすごい大学入ったわけじゃないんですけどね」
「うんうん。そして、最後に、お母さんですね。優しくて、落ち込んでる隆志少年を慰めてくれる人だったわけですね」
「母はできた人と言うか、家は自営だったんですが、親父よりも、お袋の方が働いてたイメージです。まじめで優しくて。今でもかほりのこと、すごく気にかけてくれていますし」
「お近くなんですか?」
「ですね」
そう言えば、以前、かほりが時々お祖母ちゃんの家に行くという話をしていたことを思い出した。あれは父方の実家だったのかなと頭の片隅で思う。
「では、今挙げた3人の中で、誰に怒りを感じますか?」
「その中でと言えばやっぱり兄ですが、今その怒りを思い出せって言われても、今は何も感じません。あの時腹が立ったっていう話なので」
「もう一度、その場面を詳細に見ていきましょう。詳しくお話いただけますか?」
促しに応えて、隆志が話し出した。
「受験の発表があって、当時は今みたいにネット発表なんてなかったから、その学校まで発表を見に行くんですね。親父と二人で見に行って、『あぁ、駄目だった』ってなって。帰り道はなんか申し訳ない気持ちでしたね。親父も多分、なんて声掛けして良いか分からなかったんだと思うんですが、ずっと無言で。別に僕はどうしてもその学校に行きたかったわけじゃないんですが、それでも、親父の期待は感じていましたから。で、なんか、いたたまれない感じでした」
私は相槌を打ちつつ、隆志の語りを促した。
「それで、家に帰ったら、兄も母もいて。それで、どのタイミングだったのかなぁ。兄に『お前馬鹿だな』って言われたんです。そのとき、母がすごく怒ってくれました。で、『隆志は馬鹿じゃないよ』って言ってくれるんですが、本当に僕に気遣ってくれて、それがやっぱり申し訳ない気持ちになりました」
「自分が悪いと思ってしまった?」
「そうかもしれません。あ、なんとなく解ってきました。さっき兄に一番怒りを感じるって言いましたが、違いますね。自分です。今思い出しても、兄に対しては怒りは感じませんが、そんな空気を作ってしまった自分に腹が立ってたんですね」
「ご自身に対して腹が立っていた......罪悪感?」
「そうですね」
私は隆志から出てきた言葉を拾いながら、考察を巡らせる。
父親からの期待......。
申し訳ない気持ち......。
責任......。
大分私の中でストーリーが組み上がってきた。
そこで私は更に聞いた。
「今もその罪悪感がご自身の生活に影響してそうな感じがありますか?」
隆志は首をかしげるように言った。
「どうなんでしょう。中学は結局公立に行きましたが、そこで、友達にも恵まれたし、結局大学はそこそこのところには入れましたから。そんなにその時の罪悪感を抱えて生きているわけじゃないですよ」
隆志は一旦はその影響を否定するも、思い出したように続けた。
「あ、でも、やっぱり私立落ちちゃって悔しかったから、巻き返そうと思って勉強は頑張りましたね。そういう意味ではあの罪悪感が、僕を奮い立たせてくれたのはあると思います」
やはり、そういうことか。
私の中で合点がいった。
怒りの感情を引き起こした状況を、リラックスした気持ちで回顧する。そうすることで、その状況を冷静に評価できるようになる。
私は隆志の様子をよく観察しながら、私は次の段階に入るための言葉をつなぐ。
「坂部さん、その種の怒り、坂部さんの人生の中で、何度か味わっているんじゃないかと思います」
「どういうことですか?」
「その時の腹立ちと似たような怒りを覚えた別の場面って、何か思い出せますか?」
「え、腹が立ったことなんていっぱいありますよ。出張から帰ってきても、僕が出かけたときにキッチンの流しに置いてあった洗い物が手を付けられずに残ってた時とか」
「なるほど、そんなこともあったんですね。それは最近のことですか?」
「いや、2年前くらいですかね」
「できれば、坂部さんが思い出せる一番古い記憶に立ち返ってもらうことはできますか?『あなたに話しても何も解決しない』って言われたときに感じた怒りと似たような気持ちになった一番古い記憶です」
「え~、なんでしょう。多分いっぱいあると思うんですが......」
目を閉じたまま、隆志は自身の記憶を遡ろうとする。その隆志の努力に敬意を感じつつ、私は深い呼吸をしながら見守った。
少しの間を置いた後に、隆志は語りだした。
「今思い出すのは、そう中学受験の時ですかね」
「何がありましたか?」
「僕、二つ上に兄がいるんですが、兄が行ってた中学に僕も行こうと思って受験したんですが、僕落ちちゃったんですよね。そのときに、兄が『お前馬鹿だな』って。今考えても酷いですよね。人が落ち込んでいるところに追い打ちをかけると言うか」
「なるほど、それで腹が立った」
「はい」
「そのときの感情よく味わっていきましょう。いつでも温泉に入れる準備をしながら」
「なんですかね。すごく悲しかったんですよね。親の期待を裏切ってしまったと言うか」
「結構教育熱心なご家庭だったんですか?」
「いや、そういうわけではないと思うんですが、母親はすごく優しかったですし。でも、父親が高卒なんで、子どもには学歴をつけさせたいっていう気持ちがあったの、今思えば理解できますが、それでかな。プレッシャーに感じてたんだと思います。それで、そう、腹が立ったっていうのとズレちゃいますが、親父の期待を裏切ってしまったっていう感じで途方に暮れていたと言うか。そこに追い打ちをかけられたから腹が立ったのかもしれません」
「なるほど。つまり腹が立ったっていう気持ちの裏には悲しみがあったんですね」
「そうかもしれません。そうするとさっき言ってた妻に腹が立ったっていうのと話がズレちゃいますね」
「ズレちゃいますか?」
「そんなことないですか?」
「今回は奥さんの『あなたに話しても仕方がない』でしたっけ」
「『何も解決しない』ですね」
「そうそう。『あなたに話しても何も解決しない』という言葉を起点に感情を遡っています。なので、何らかの関係性があるんだと思います」
「そうなんですか」
隆志は思い思い当たる感覚がない様子だ。
私は掘り下げる。
「奥さんへの怒りの裏にも、もしかしたら何らかの悲しみがあったのかもしれません。もう少しそのときの状況をよく探っていきましょう。お兄さんに『お前馬鹿だな』って言われて、腹が立って、それからどうなったんですか?」
「うろ覚えですが、多分、兄に言い返すこともできなくて、呆然としてたんですよね。そしたら、母が来て慰めてくれたのかな。って、それだけの話なんですけどね」
「さっきもお母さんは優しかったって言っていましたね。そのお母さんが、落ち込んでる隆志少年のところに来て、慰めてくれたんですね。それからどうなりました?」
「いや、ホントそれで終わりです」
「なるほど、ではこの話の中から、坂部さんの奥さんに感じている怒りの根源を探っていきましょう」
「そんなの分かるんですか?」
「登場人物は坂部さんの原家族4人です。お兄さん、お父さん、お母さん、そして隆志少年」
「はい」
「まずそれぞれの人物像を整理しましょう。お兄さんは、自分が落ちた学校に受かってて、マウント取ってくる感じだったんですかね」
「そうですね。その時以外にも、なんだかんだ、上から言ってくると言うか、そういう感じでした。まぁ、今では普通に仲いいですけどね。お互いに家庭を持っていますが、たまに一緒に飲んだりもします」
「あ、そうなんですね。子どものころと関係が変わった感じなんですね」
「お互いに大人になりましたからね」
「なるほど。次にお父さんです。高卒で、隆志少年に学歴をつけさせたいと思ってプレッシャーをかける人だった」
「具体的にプレッシャーをかけるって程、何か言ってきてたわけじゃないですが、でも、大学に行かせたい思いは強い人でしたね。なんか、今時当たり前なのに、未だに、俺は二人の息子を大学まで行かせたんだって誰かに自慢したりする恥ずかしい親父です」
「なるほど。よっぽど二人の息子さんを誇らしく思ってらっしゃるんですね」
「二人ともそんなにすごい大学入ったわけじゃないんですけどね」
「うんうん。そして、最後に、お母さんですね。優しくて、落ち込んでる隆志少年を慰めてくれる人だったわけですね」
「母はできた人と言うか、家は自営だったんですが、親父よりも、お袋の方が働いてたイメージです。まじめで優しくて。今でもかほりのこと、すごく気にかけてくれていますし」
「お近くなんですか?」
「ですね」
そう言えば、以前、かほりが時々お祖母ちゃんの家に行くという話をしていたことを思い出した。あれは父方の実家だったのかなと頭の片隅で思う。
「では、今挙げた3人の中で、誰に怒りを感じますか?」
「その中でと言えばやっぱり兄ですが、今その怒りを思い出せって言われても、今は何も感じません。あの時腹が立ったっていう話なので」
「もう一度、その場面を詳細に見ていきましょう。詳しくお話いただけますか?」
促しに応えて、隆志が話し出した。
「受験の発表があって、当時は今みたいにネット発表なんてなかったから、その学校まで発表を見に行くんですね。親父と二人で見に行って、『あぁ、駄目だった』ってなって。帰り道はなんか申し訳ない気持ちでしたね。親父も多分、なんて声掛けして良いか分からなかったんだと思うんですが、ずっと無言で。別に僕はどうしてもその学校に行きたかったわけじゃないんですが、それでも、親父の期待は感じていましたから。で、なんか、いたたまれない感じでした」
私は相槌を打ちつつ、隆志の語りを促した。
「それで、家に帰ったら、兄も母もいて。それで、どのタイミングだったのかなぁ。兄に『お前馬鹿だな』って言われたんです。そのとき、母がすごく怒ってくれました。で、『隆志は馬鹿じゃないよ』って言ってくれるんですが、本当に僕に気遣ってくれて、それがやっぱり申し訳ない気持ちになりました」
「自分が悪いと思ってしまった?」
「そうかもしれません。あ、なんとなく解ってきました。さっき兄に一番怒りを感じるって言いましたが、違いますね。自分です。今思い出しても、兄に対しては怒りは感じませんが、そんな空気を作ってしまった自分に腹が立ってたんですね」
「ご自身に対して腹が立っていた......罪悪感?」
「そうですね」
私は隆志から出てきた言葉を拾いながら、考察を巡らせる。
父親からの期待......。
申し訳ない気持ち......。
責任......。
大分私の中でストーリーが組み上がってきた。
そこで私は更に聞いた。
「今もその罪悪感がご自身の生活に影響してそうな感じがありますか?」
隆志は首をかしげるように言った。
「どうなんでしょう。中学は結局公立に行きましたが、そこで、友達にも恵まれたし、結局大学はそこそこのところには入れましたから。そんなにその時の罪悪感を抱えて生きているわけじゃないですよ」
隆志は一旦はその影響を否定するも、思い出したように続けた。
「あ、でも、やっぱり私立落ちちゃって悔しかったから、巻き返そうと思って勉強は頑張りましたね。そういう意味ではあの罪悪感が、僕を奮い立たせてくれたのはあると思います」
やはり、そういうことか。
私の中で合点がいった。
大丈夫だ
「罪悪感を刺激されて、それを発奮材料にされたわけですね。素晴らしいです」
「いえ、まぁ、どうなんでしょうか」
褒められて、照れたように、隆志はお茶を濁すような返答だ。
「坂部さん、期待されるとすごく頑張っちゃうタイプなんですね」
「まぁ、そのときの経験でそうなったんですかね」
私はこれまでの話をまとめるように言う。
「隆志少年は期待に応えるために頑張る。そしてそれに応えられないと、自分を責めてしまう。そしてそれを反骨精神で更に頑張るタイプなんですね」
隆志は静かに聞いている。
「とてもストイックです。そして、ご家族に対する責任もきっちり果たしておられる。そんなストイックさがあるからこそ、ご自身が期待に応えられないとご自身に腹が立ちます」
隆志は無反応なままだ。
「そして、『あなたに話しても何も解決しない』って言われたとき、奥さんに『あなたは私の期待に応えられない』って通告された気持ちがしたんじゃないでしょうか」
私は問いかけるように言う......が、やはり無反応だ。
私はその意味を測りかねる感じで聞く。
「今のストーリー、どう思われますか?」
「いえ、何もないです」
「何もない?」
「言われてみればその通りなのかなって感じです」
つまり、反論する部分はないということか。
「ごめんなさい。今、私、理屈に走っちゃっていますね。坂部さん、納得しきれない感じですか」
「いえ。納得はしました」
納得「は」......隆志の反応に私が戸惑っていると、隆志が言う。
「ただ、理屈は分かるんですが、だからと言ってどうしていいかって言うのが見えてこないと言うか」
なるほど、そういうことか。確かに理屈を突き付けても、そこに解決がなければ、その理屈には何の意味もない。
そこで、私は言った。
「もう一度聞きます。今思い返して、お兄さんのマウント、お父さんの圧、そして、お母さんの慰め。今の坂部さんに一番影響していそうなのはどれでしょうか」
「影響?どれもあると言えばあるし、ないと言えばない気がします」
私はここで、少し互いを落ち着かせる意味で、大きめの深呼吸をした。
そして、ゆっくりとした口調で伝えた。
「落ち着いて私のストーリーを聞いてください。期待を裏切ってしまって、家族全体をいたたまれない気持ちにしてしまったんですね」
「はい」
隆志は私がこれから何を言うのかということに多少なりとも身構えている様子だ。
「その気持ちはどうやって救われたんでしたか?」
「さっきの登場人物で言うと、母親が慰めてくれたってことでしたよね」
「今考えてもそう思いますか?」
「まぁ、そうだったのかなって思います」
「もう一度、お母さんに慰めてもらった場面を思い出してみてください」
「なんろう。ショックを受けてたら、『隆志は馬鹿じゃないよ』って言ってくれて、すごく一生懸命に慰めようとしてくれました」
「そうでしたね。どんな気持ちでしたか?」
「その時は、それが余計に申し訳ない気がしました」
「よく思い出してみましょう。お父さんの期待に応えられないで落ち込んでいた隆志少年。お兄さんに追い打ちをかけられた隆志少年。とってもいたたまれない気持ちでした。そこに『隆志は馬鹿じゃないよ』って、今、お母さんが言ってくれています。そして、お兄さんに真剣に怒ってくれています」
隆志は黙って聞いている。
「お母さんの表情、声、口調......思い浮かべてください」
「ありがたいですね」
隆志はつぶやいた。
「お母さん、どんな気持ちだったと思いますか?」
「『落ち込まなくていい。大丈夫だ』って感じですかね」
「そのときのお母さんの気持ち、よく、浸っていきましょう」
そう言って私は少し間を取った。
「そう言ってもらったとすると、今はどう思いますか?」
「そうですね。その通りだって思います」
「うんうん」
私は目を閉じている隆志に聞こえるように同意を言葉で伝えつつ更につづけた。
「では、奥さんに『あなたに話しても何も解決しない』って言われて、落ち込んでいる、昔の坂部さんに、今の坂部さんご自身が『落ち込まなくていい。大丈夫だ』って言ってあげられますか?」
今度はここで、隆志がしばらく間を取った。
無表情ではあるが、深く呼吸してその場面に思いを巡らしている様子が伝わってくる。
時間にすると30秒ほどだろうか。
沈黙の後、隆志は首を深く頷かせて、
「大丈夫です」
と、ゆっくり噛みしめるように言った。
「坂部さん、今日もとっても頑張って取り組んでいただいてありがとうございます」
私はできるだけ優しい笑顔を作り、ねぎらいの言葉を伝えた。
隆志も目を開き、自然な笑顔を作って応える。
「では、温泉に戻りましょう。隆志少年が子どものころに連れて行ってもらって、平和を感じた、雪景色の温泉に」
私の誘導に従って隆志は再び目を閉じた。表情からは多少なりとも穏やかさを感じる。
十分な時間を取った後、目を開けた隆志に、私は振り返りを促した。
「伺っていると、お母さんが坂部さんのご実家でバランサーになってくれていたみたいですね」
「そうでした。すごく気遣いできる人で、今は僕の話をしていますが、兄に対しても、親父に対しても、優しいし、怒るときは怒るんですが、愛があるんですよね。だから、みんな母を頼ってた部分は確かにあります」
「今日奥さんに向けられていた怒りがご自身に対する怒りであったことに気づきました。そしてそんな昔の隆志さんに、『大丈夫だ』って伝えることができました。今、『あなたに話しても何も解決しない』っていう言葉を思い出して、どうですか?」
「そうですね。完全に自分が悪いとか思うわけじゃないですし、まだまだ妻に腹が立つ気持ちがないわけではないですが、冷静に話し合おうっていう気持ちにはなれます」
「それが大事だと思います。今日奥さんに向けた気持ちを整理して、その上で今度は奥さんも一緒にカウンセリングの場で話し合いましょう」
私からの誘いに隆志は落ち着いた口調で答える。
「わかりました」
こうして二回目の隆志との面接が終えると、夫婦合同面接の了承を取れたこと、隆志のとも子に対する怒りの背景にあった、隆志自身の傷つきを確認したことなどを記録にまとめる。
アセスメント
・隆志のストイックな性格の背景には反骨精神があり、それが自身にも他者に対しても攻撃性に転化する傾向がある。
・自身の母親を理想化しているところがあり、それがとも子に対する期待となり、その期待に応えないとも子を攻撃するという構図も見て取れる。
・自身に期待に応えられなくても大丈夫だというメッセージを送ることで、罪悪感から解放される感覚を促し、自己受容を進める一歩となることを期待。
方針
・次回夫婦合同面接をする。
「合同面接......」
私は独り言をつぶやきつつ、記録アプリの保存ボタンを押した。
「いえ、まぁ、どうなんでしょうか」
褒められて、照れたように、隆志はお茶を濁すような返答だ。
「坂部さん、期待されるとすごく頑張っちゃうタイプなんですね」
「まぁ、そのときの経験でそうなったんですかね」
私はこれまでの話をまとめるように言う。
「隆志少年は期待に応えるために頑張る。そしてそれに応えられないと、自分を責めてしまう。そしてそれを反骨精神で更に頑張るタイプなんですね」
隆志は静かに聞いている。
「とてもストイックです。そして、ご家族に対する責任もきっちり果たしておられる。そんなストイックさがあるからこそ、ご自身が期待に応えられないとご自身に腹が立ちます」
隆志は無反応なままだ。
「そして、『あなたに話しても何も解決しない』って言われたとき、奥さんに『あなたは私の期待に応えられない』って通告された気持ちがしたんじゃないでしょうか」
私は問いかけるように言う......が、やはり無反応だ。
私はその意味を測りかねる感じで聞く。
「今のストーリー、どう思われますか?」
「いえ、何もないです」
「何もない?」
「言われてみればその通りなのかなって感じです」
つまり、反論する部分はないということか。
「ごめんなさい。今、私、理屈に走っちゃっていますね。坂部さん、納得しきれない感じですか」
「いえ。納得はしました」
納得「は」......隆志の反応に私が戸惑っていると、隆志が言う。
「ただ、理屈は分かるんですが、だからと言ってどうしていいかって言うのが見えてこないと言うか」
なるほど、そういうことか。確かに理屈を突き付けても、そこに解決がなければ、その理屈には何の意味もない。
そこで、私は言った。
「もう一度聞きます。今思い返して、お兄さんのマウント、お父さんの圧、そして、お母さんの慰め。今の坂部さんに一番影響していそうなのはどれでしょうか」
「影響?どれもあると言えばあるし、ないと言えばない気がします」
私はここで、少し互いを落ち着かせる意味で、大きめの深呼吸をした。
そして、ゆっくりとした口調で伝えた。
「落ち着いて私のストーリーを聞いてください。期待を裏切ってしまって、家族全体をいたたまれない気持ちにしてしまったんですね」
「はい」
隆志は私がこれから何を言うのかということに多少なりとも身構えている様子だ。
「その気持ちはどうやって救われたんでしたか?」
「さっきの登場人物で言うと、母親が慰めてくれたってことでしたよね」
「今考えてもそう思いますか?」
「まぁ、そうだったのかなって思います」
「もう一度、お母さんに慰めてもらった場面を思い出してみてください」
「なんろう。ショックを受けてたら、『隆志は馬鹿じゃないよ』って言ってくれて、すごく一生懸命に慰めようとしてくれました」
「そうでしたね。どんな気持ちでしたか?」
「その時は、それが余計に申し訳ない気がしました」
「よく思い出してみましょう。お父さんの期待に応えられないで落ち込んでいた隆志少年。お兄さんに追い打ちをかけられた隆志少年。とってもいたたまれない気持ちでした。そこに『隆志は馬鹿じゃないよ』って、今、お母さんが言ってくれています。そして、お兄さんに真剣に怒ってくれています」
隆志は黙って聞いている。
「お母さんの表情、声、口調......思い浮かべてください」
「ありがたいですね」
隆志はつぶやいた。
「お母さん、どんな気持ちだったと思いますか?」
「『落ち込まなくていい。大丈夫だ』って感じですかね」
「そのときのお母さんの気持ち、よく、浸っていきましょう」
そう言って私は少し間を取った。
「そう言ってもらったとすると、今はどう思いますか?」
「そうですね。その通りだって思います」
「うんうん」
私は目を閉じている隆志に聞こえるように同意を言葉で伝えつつ更につづけた。
「では、奥さんに『あなたに話しても何も解決しない』って言われて、落ち込んでいる、昔の坂部さんに、今の坂部さんご自身が『落ち込まなくていい。大丈夫だ』って言ってあげられますか?」
今度はここで、隆志がしばらく間を取った。
無表情ではあるが、深く呼吸してその場面に思いを巡らしている様子が伝わってくる。
時間にすると30秒ほどだろうか。
沈黙の後、隆志は首を深く頷かせて、
「大丈夫です」
と、ゆっくり噛みしめるように言った。
「坂部さん、今日もとっても頑張って取り組んでいただいてありがとうございます」
私はできるだけ優しい笑顔を作り、ねぎらいの言葉を伝えた。
隆志も目を開き、自然な笑顔を作って応える。
「では、温泉に戻りましょう。隆志少年が子どものころに連れて行ってもらって、平和を感じた、雪景色の温泉に」
私の誘導に従って隆志は再び目を閉じた。表情からは多少なりとも穏やかさを感じる。
十分な時間を取った後、目を開けた隆志に、私は振り返りを促した。
「伺っていると、お母さんが坂部さんのご実家でバランサーになってくれていたみたいですね」
「そうでした。すごく気遣いできる人で、今は僕の話をしていますが、兄に対しても、親父に対しても、優しいし、怒るときは怒るんですが、愛があるんですよね。だから、みんな母を頼ってた部分は確かにあります」
「今日奥さんに向けられていた怒りがご自身に対する怒りであったことに気づきました。そしてそんな昔の隆志さんに、『大丈夫だ』って伝えることができました。今、『あなたに話しても何も解決しない』っていう言葉を思い出して、どうですか?」
「そうですね。完全に自分が悪いとか思うわけじゃないですし、まだまだ妻に腹が立つ気持ちがないわけではないですが、冷静に話し合おうっていう気持ちにはなれます」
「それが大事だと思います。今日奥さんに向けた気持ちを整理して、その上で今度は奥さんも一緒にカウンセリングの場で話し合いましょう」
私からの誘いに隆志は落ち着いた口調で答える。
「わかりました」
こうして二回目の隆志との面接が終えると、夫婦合同面接の了承を取れたこと、隆志のとも子に対する怒りの背景にあった、隆志自身の傷つきを確認したことなどを記録にまとめる。
アセスメント
・隆志のストイックな性格の背景には反骨精神があり、それが自身にも他者に対しても攻撃性に転化する傾向がある。
・自身の母親を理想化しているところがあり、それがとも子に対する期待となり、その期待に応えないとも子を攻撃するという構図も見て取れる。
・自身に期待に応えられなくても大丈夫だというメッセージを送ることで、罪悪感から解放される感覚を促し、自己受容を進める一歩となることを期待。
方針
・次回夫婦合同面接をする。
「合同面接......」
私は独り言をつぶやきつつ、記録アプリの保存ボタンを押した。
面接構造
それからしばらく私はメールチェックするたびに、ソワソワする気持ちにさせられる日が続いた。
前回、隆志とのカウンセリングの終わり際の話し合いで、次回の約束をするときに、隆志ととも子の予定を合わせて、また予約を入れてくれるよう確認した。本来は10月10日に次回のとも子とかほりの予約が入っているが、それをどうするのかも含めて夫婦で話し合うとのことだ。
つまり、普段会話のない隆志ととも子が、私のいないところで今後のカウンセリングについて夫婦で話し合って決めるというのだ。
どうなるんだろうか......
今の二人の様子なら、そこで喧嘩になることはないのではないかと期待する。
が、確証はない。
そんなことを気にかけながらも、日々の業務はあり、坂部家以外にも、それなりに重いケースをこなし、気づけば10月5日だ。日曜日であったが、私は、朝から夕方まで虐待対応関連の研修を受けて、余りの濃い内容にぐったりとしながらも、研修の内容に満足感をもって帰宅した。
家族は私の帰宅を待たずに既に夕食を済ませており、リビングで思い思いに過ごしている。私の「ただいま~」の一言に、末の娘が元気に「おかえり~」と飛びついてくる。それを横目に見た妻と長女も、「おかえり」と一言くれた。
妻がハンバーグを主菜とした夕食を私のために残しておいてくれたことに、まずは感謝する。「いや、今日の研修、すごい濃かった~」などと言いながら、そのハンバーグをレンジで温め、白ご飯をお椀によそう。妻は「そういう研修いいよね。よかったね」と自分の仕事の手を止めて、私の相手をしてくれる。そんな他愛ないやり取りをしつつ、別で温めた味噌汁と一緒にテーブルに並べ、準備が完了すると私は椅子につく。「いただきます」と言って、私はそれらを頬張りつつ、スマホを使ってメールチェックを始めた。
朝忙しくてメールチェックする暇がなかった。返信を要するメールは......
相変わらず広告メールが多い。が、その中にも、いくつか大事なメールが混ざっている。ひとつは新規の相談の問い合わせがあった。そして契約しているHP運営会社からの料金の支払い請求メール。そして......とも子からのメールだ。
「form: Sakabe Tomoko subject: 今後のカウンセリングについて」
受信日時は20XX+1年10月4日 23:22になっている。
昨日の遅い時間にメールをくれていたようだ。
返信に1日待たせてしまったことになる。申し訳なさを感じつつ本文を開く。
「いつもお世話になっております。坂部とも子です。
主人へのカウンセリング、ありがとうございます。
今度のカウンセリングは私と主人と一緒にすることになると聞きましたが、その場合、かほりはどうしたらいいですか?
できればかほりにも今後もカウンセリングを受けさせたいのですが、夫婦で伺ってかほりもお願いするとなると、どういう段取りでしたらよろしいでしょうか。
お返事ください」
私はあわてて返信メールを考える。
―――さて、どうしたものか。
誰がいつどこで誰とカウンセリングをするのかという物理的なセッティングを面接構造と呼ぶ。構造をどう組み立てるかはカウンセリングを安全に行う上で重要な要素のひとつだ。そして、それは、クライアントの気持ちを最優先して、組み立て、カウンセラーとクライアントの間の約束事として共有されなくてはならない。
だからこそ、とも子が聞いてきたことに誠実に答える必要がある。
今、一番優先されるべきは......。
しばらく考えた末、私は返信を書き始めた。
そして、書き上がるころには、レンジで温めたハンバーグがまた冷たくなっていた。
前回、隆志とのカウンセリングの終わり際の話し合いで、次回の約束をするときに、隆志ととも子の予定を合わせて、また予約を入れてくれるよう確認した。本来は10月10日に次回のとも子とかほりの予約が入っているが、それをどうするのかも含めて夫婦で話し合うとのことだ。
つまり、普段会話のない隆志ととも子が、私のいないところで今後のカウンセリングについて夫婦で話し合って決めるというのだ。
どうなるんだろうか......
今の二人の様子なら、そこで喧嘩になることはないのではないかと期待する。
が、確証はない。
そんなことを気にかけながらも、日々の業務はあり、坂部家以外にも、それなりに重いケースをこなし、気づけば10月5日だ。日曜日であったが、私は、朝から夕方まで虐待対応関連の研修を受けて、余りの濃い内容にぐったりとしながらも、研修の内容に満足感をもって帰宅した。
家族は私の帰宅を待たずに既に夕食を済ませており、リビングで思い思いに過ごしている。私の「ただいま~」の一言に、末の娘が元気に「おかえり~」と飛びついてくる。それを横目に見た妻と長女も、「おかえり」と一言くれた。
妻がハンバーグを主菜とした夕食を私のために残しておいてくれたことに、まずは感謝する。「いや、今日の研修、すごい濃かった~」などと言いながら、そのハンバーグをレンジで温め、白ご飯をお椀によそう。妻は「そういう研修いいよね。よかったね」と自分の仕事の手を止めて、私の相手をしてくれる。そんな他愛ないやり取りをしつつ、別で温めた味噌汁と一緒にテーブルに並べ、準備が完了すると私は椅子につく。「いただきます」と言って、私はそれらを頬張りつつ、スマホを使ってメールチェックを始めた。
朝忙しくてメールチェックする暇がなかった。返信を要するメールは......
相変わらず広告メールが多い。が、その中にも、いくつか大事なメールが混ざっている。ひとつは新規の相談の問い合わせがあった。そして契約しているHP運営会社からの料金の支払い請求メール。そして......とも子からのメールだ。
「form: Sakabe Tomoko subject: 今後のカウンセリングについて」
受信日時は20XX+1年10月4日 23:22になっている。
昨日の遅い時間にメールをくれていたようだ。
返信に1日待たせてしまったことになる。申し訳なさを感じつつ本文を開く。
「いつもお世話になっております。坂部とも子です。
主人へのカウンセリング、ありがとうございます。
今度のカウンセリングは私と主人と一緒にすることになると聞きましたが、その場合、かほりはどうしたらいいですか?
できればかほりにも今後もカウンセリングを受けさせたいのですが、夫婦で伺ってかほりもお願いするとなると、どういう段取りでしたらよろしいでしょうか。
お返事ください」
私はあわてて返信メールを考える。
―――さて、どうしたものか。
誰がいつどこで誰とカウンセリングをするのかという物理的なセッティングを面接構造と呼ぶ。構造をどう組み立てるかはカウンセリングを安全に行う上で重要な要素のひとつだ。そして、それは、クライアントの気持ちを最優先して、組み立て、カウンセラーとクライアントの間の約束事として共有されなくてはならない。
だからこそ、とも子が聞いてきたことに誠実に答える必要がある。
今、一番優先されるべきは......。
しばらく考えた末、私は返信を書き始めた。
そして、書き上がるころには、レンジで温めたハンバーグがまた冷たくなっていた。
目標喪失
少しずつ日が短くなってきて、夕方になると少し涼しく感じる。空は限りなく高い。秋晴れの清々しさを感じながら私は、相談室の駐車場を掃除していた。
掃除と言ってもホウキやチリトリを使った、いわゆる掃き掃除ではなく、雑草抜きがメインだ。夏の間はこまめにしないとすぐに生えてくるが、残暑があるとは言え、もう季節は秋に移ったところだ。そんなに頻繁な雑草抜きは必要ない。今回が終われば、もう次の春まではしないでいいかもしれない。そう思いながら駐車場にいたところ、黒いワンボックスカーが入ってきた。
それに気づき、私は慌てて時計を見る。17時に差し掛かるところだ。早々に掃除を終わらせて、相談室内の準備をするつもりであったが、つい時間を忘れて雑草を抜いていた。
私は手に持っていた雑草を目立たないところに置き、あたかも駐車場まで出迎えたような素振りで車から客が降りてくるのを待った。
そんな私の胸の内は当然知る由もないだろう。ワンボックスカーの後部座席の扉が開いて降りてきたのは、セーラー服に身を包んだかほりだ。
「こんにちは」私が挨拶をすると、「こんにちは」とかほりも返してくれる。運転席の窓が開き「じゃ、お願いしますね」ととも子だ。
私は笑顔を作って会釈をすると、とも子はそのまま車で駐車場から出て行った。
それを見送り、残されたかほりを連れ立って相談室の中に移動した。
20XX+1年10月9日 かほり #20 個別面接
「今日は一人で良かった?」
茶菓子をかほりの前にセットしながら私が聞く。
「はい。お母さんにそう聞きました」
「えっと、お母さんに言われたってことですか?確かに、僕から今後のかほりちゃんとのカウンセリングはお母さんと別にしたらどうかなって提案しました。でも、かほりちゃんの気持ちを大事にしたいと思っています。一人で良かったですか?」
私はもう一度同じことを聞いた。
夫婦の問題からかほりを切り離し、かほりが自分のために動けるようになってもらうための提案であったが、かほりの意向を聞いて決めてくださいととも子には伝えてあった。
それについてかほりはすぐには答えない。
両親の問題から自分が切り離されたことをまだ怒っているのかもしれないと思い、かほりの様子を伺った。
「私は......どうしたいかわからないです。ここで何をしたいかも」
やはり目標喪失は大きいのか。
そんなかほりの様子を見ていると、かほりを母親から切り離す判断が正しかったのか、私も揺さぶられる。
「何をしたいか分からない......僕はかほりちゃんがここで自由に過ごしてもらえるといいと思っているのね。ここはかほりちゃんにとって、何も気兼ねしないで良い自由な空間。窓から指す木漏れ日と、お茶菓子がかほりちゃんを歓迎しています。そこでゆったりとくつろいで、かほりちゃんの心を真っ白にしていけるといいと思っています。たとえば......かほりちゃん、絵を描くのが好きだって前々から聞いていますが......もしよければ、ここで絵を描いて過ごしませんか。かほりちゃんがどんな絵を描くのか、僕も見てみたいです」
伝えていることに他意はない。しかしやはり私の中に負い目があるため、この説明もどこか取り繕っている感じを醸し出してしまっていたかもしれない。
そんな私の自省を感じ取ってか否かは分からない。
「何ももってきてません」
とかほり。
「普通のコピー用紙もあれば、画用紙もある。鉛筆以外に、クレパス、色鉛筆、水彩の用意はあります」
そう勧めると、
「じゃ、コピー用紙と鉛筆ください」
と言ってかほりは私の提案を受け入れることを伝えてくれた。
かほりが絵を描き始めると、私は務めてリラックス呼吸をしながらかほりの運筆を見つめていた。物の数分の間に大まかな輪郭を仕上げると、そこから細部に手を入れていく。鉛筆の動きや消しゴムの使い方はスムーズで、その様子からは描き慣れているのが伝わってくる。
そうして描き上がったのは以前にとも子が見せてくれたような傷ついた女の子ではなく、勇ましい男の子のキャラクターだ。
「これは何かのキャラなんですか?」
私が聞くと、かほりが好きなゲームのキャラクターの二次創作だそうだ。
更に見ていると、それだけでなく、可愛く微笑む女の子、動物キャラクターを書き足す。出来上がったのは、3人のキャラクターにそれぞれのストーリーを感じさせるような、それでいてお互いが自然と収まっているような絵だった。
「漫画の表紙に使えそうだね」と私が言うと、かほりはマスク越しにはにかんだように見えた。
実際、その完成度は素人の私的には極めて高いもののように見えた。
そのクオリティに感嘆の意を示しつつ、更に描きこんでいるかほりを私はただ見つめていた。
かほりを送り出した後、私は、飲み残しのお茶と空になったクッキーの包装フィルムを片付け、記録を描くためにパソコンを立ち上げる。
今回はかほりに自由で楽な関係を体験してもらうのが狙いのセッションとなった。
カウンセリングでは言語を介した困りごとの相談は実はひとつの形態に過ぎない。その狙いはあくまでも、心の回復だ。今回のように、気兼ねない関係の中で、自分の好きなことに没頭するのは、それだけで心をスッキリさせてくれる。
そしてその自由な雰囲気の中で描きあげられた3体のキャラクター。勇ましい少年と優しく微笑む少女、元気そうな動物キャラ。坂部家の3人を象徴していると解釈するのは早計だろうか。
アセスメント
・両親の問題から切り離されたことに対しては、やはりスッキリしない思いを抱えている様子。
・一方で、創作活動に取り組み、自由な時間を過ごせたことは、新しい展開を予想させる。
ーーーーーーー
掃除と言ってもホウキやチリトリを使った、いわゆる掃き掃除ではなく、雑草抜きがメインだ。夏の間はこまめにしないとすぐに生えてくるが、残暑があるとは言え、もう季節は秋に移ったところだ。そんなに頻繁な雑草抜きは必要ない。今回が終われば、もう次の春まではしないでいいかもしれない。そう思いながら駐車場にいたところ、黒いワンボックスカーが入ってきた。
それに気づき、私は慌てて時計を見る。17時に差し掛かるところだ。早々に掃除を終わらせて、相談室内の準備をするつもりであったが、つい時間を忘れて雑草を抜いていた。
私は手に持っていた雑草を目立たないところに置き、あたかも駐車場まで出迎えたような素振りで車から客が降りてくるのを待った。
そんな私の胸の内は当然知る由もないだろう。ワンボックスカーの後部座席の扉が開いて降りてきたのは、セーラー服に身を包んだかほりだ。
「こんにちは」私が挨拶をすると、「こんにちは」とかほりも返してくれる。運転席の窓が開き「じゃ、お願いしますね」ととも子だ。
私は笑顔を作って会釈をすると、とも子はそのまま車で駐車場から出て行った。
それを見送り、残されたかほりを連れ立って相談室の中に移動した。
20XX+1年10月9日 かほり #20 個別面接
「今日は一人で良かった?」
茶菓子をかほりの前にセットしながら私が聞く。
「はい。お母さんにそう聞きました」
「えっと、お母さんに言われたってことですか?確かに、僕から今後のかほりちゃんとのカウンセリングはお母さんと別にしたらどうかなって提案しました。でも、かほりちゃんの気持ちを大事にしたいと思っています。一人で良かったですか?」
私はもう一度同じことを聞いた。
夫婦の問題からかほりを切り離し、かほりが自分のために動けるようになってもらうための提案であったが、かほりの意向を聞いて決めてくださいととも子には伝えてあった。
それについてかほりはすぐには答えない。
両親の問題から自分が切り離されたことをまだ怒っているのかもしれないと思い、かほりの様子を伺った。
「私は......どうしたいかわからないです。ここで何をしたいかも」
やはり目標喪失は大きいのか。
そんなかほりの様子を見ていると、かほりを母親から切り離す判断が正しかったのか、私も揺さぶられる。
「何をしたいか分からない......僕はかほりちゃんがここで自由に過ごしてもらえるといいと思っているのね。ここはかほりちゃんにとって、何も気兼ねしないで良い自由な空間。窓から指す木漏れ日と、お茶菓子がかほりちゃんを歓迎しています。そこでゆったりとくつろいで、かほりちゃんの心を真っ白にしていけるといいと思っています。たとえば......かほりちゃん、絵を描くのが好きだって前々から聞いていますが......もしよければ、ここで絵を描いて過ごしませんか。かほりちゃんがどんな絵を描くのか、僕も見てみたいです」
伝えていることに他意はない。しかしやはり私の中に負い目があるため、この説明もどこか取り繕っている感じを醸し出してしまっていたかもしれない。
そんな私の自省を感じ取ってか否かは分からない。
「何ももってきてません」
とかほり。
「普通のコピー用紙もあれば、画用紙もある。鉛筆以外に、クレパス、色鉛筆、水彩の用意はあります」
そう勧めると、
「じゃ、コピー用紙と鉛筆ください」
と言ってかほりは私の提案を受け入れることを伝えてくれた。
かほりが絵を描き始めると、私は務めてリラックス呼吸をしながらかほりの運筆を見つめていた。物の数分の間に大まかな輪郭を仕上げると、そこから細部に手を入れていく。鉛筆の動きや消しゴムの使い方はスムーズで、その様子からは描き慣れているのが伝わってくる。
そうして描き上がったのは以前にとも子が見せてくれたような傷ついた女の子ではなく、勇ましい男の子のキャラクターだ。
「これは何かのキャラなんですか?」
私が聞くと、かほりが好きなゲームのキャラクターの二次創作だそうだ。
更に見ていると、それだけでなく、可愛く微笑む女の子、動物キャラクターを書き足す。出来上がったのは、3人のキャラクターにそれぞれのストーリーを感じさせるような、それでいてお互いが自然と収まっているような絵だった。
「漫画の表紙に使えそうだね」と私が言うと、かほりはマスク越しにはにかんだように見えた。
実際、その完成度は素人の私的には極めて高いもののように見えた。
そのクオリティに感嘆の意を示しつつ、更に描きこんでいるかほりを私はただ見つめていた。
かほりを送り出した後、私は、飲み残しのお茶と空になったクッキーの包装フィルムを片付け、記録を描くためにパソコンを立ち上げる。
今回はかほりに自由で楽な関係を体験してもらうのが狙いのセッションとなった。
カウンセリングでは言語を介した困りごとの相談は実はひとつの形態に過ぎない。その狙いはあくまでも、心の回復だ。今回のように、気兼ねない関係の中で、自分の好きなことに没頭するのは、それだけで心をスッキリさせてくれる。
そしてその自由な雰囲気の中で描きあげられた3体のキャラクター。勇ましい少年と優しく微笑む少女、元気そうな動物キャラ。坂部家の3人を象徴していると解釈するのは早計だろうか。
アセスメント
・両親の問題から切り離されたことに対しては、やはりスッキリしない思いを抱えている様子。
・一方で、創作活動に取り組み、自由な時間を過ごせたことは、新しい展開を予想させる。
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