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『こころ日誌・リライト』④

『こころ日誌・リライト』④

こころ日誌

夫婦合同面接

週が明けて、次の木曜日―――16日。
私は朝から自分が落ち着かない気持ちでいるのを自覚していた。
夕方には坂部家の夫婦合同面接を控えている。
隆志が仕事を調整して、平日にもかかわらず、とも子と二人で来談する意向を示してくれていた。

これまで2回zoom上で面談したが、実際に彼と会うのは今回が初めてだ。
隆志には、カウンセリングに対しての反応がやや分かりづらいという印象がある。しかし思えば、2回目の面接を翌週に入れてくれたり、今回も仕事をちゃんと調整してくれている。もしかしたら思いのほかカウンセリングに対するモチベーションが高いのかもしれない。
そう感じても尚、私がこのように落ち着かない気持ちになっているのは、その分、結果で応えないといけないというプレッシャーから来ていることを改めて自覚する。

プレッシャー......、圧力......、

私はそっと目を閉じて、自分の心にかかっている圧をイメージする。
わずかに息苦しい感じ、腹が重い感じ......食道がヒリヒリする感じ。
深くゆっくりと呼吸を繰り返しながら、その感覚にしばらく身を浸す。

「よし、大丈夫だ」

そっと目を開け、時計を見ると、もうすぐ17時になろうとしていた。


20XX+1年 10月16日  とも子#14 隆志#3

「こうしてお二人と一緒にお会いするのは初めてですね」
二人の前に茶菓子を用意し私は話しかけた。
「あ、お茶出してくれるんですね」
隆志が少し顔を綻ばせて言う。これまでオンラインではなかったサービスであるが、とも子やかほりからもそのことは伝わっていなかったらしい。
「近所のスーパーで買ってきた安物ですが、すみません」
と私も笑顔で返しつつ、面接机を挟んだ位置に二人に正対して腰を下ろした。

「隆志さんがカウンセリングへの呼びかけに答えていただいてから少し段階を踏みましたが、今日ようやくこの形を迎えられたことを私はとても尊いことだと思っています。お二人の誠実な頑張りに心からの敬意をお伝えしたいと思います。隆志さんについてはお仕事も調整いただいたんですよね。とも子さんも大きな決意の下に今日来ていただいていると思います。本当にありがとうございます」
私は思いつく限りの歓迎の言葉を伝えたつもりだが、やや語彙に乏しいかと自嘲する。
「なんだか改めてそう言われると緊張しますね。実は今日は僕は会社から直行してきたんです。妻に駅で拾ってもらって来ました」と隆志。
「そうだったんですね。お忙しい中お越しいただいたんですね。ありがとうございます」
それに対して小さく頷く隆志の横で、とも子は表情を硬くしている。前回の決意表明から4週間、同じ家で隆志とかほりとどんな時間を過ごしていたのだろうか。様々な思いがあるであろうことに私も思考を巡らせる。
思えば私が先ほどまで感じていたプレッシャー、その何倍もの物をとも子は感じていたのかもしれない。

「まずは今日の場がどういう場かを確認させてください。これまでお二人に説明してきたことでもありますので、重複する部分もありますがご了承ください」
そう前置いてから私は伝えるべきことを伝えた。

「私は今日この場はかほりちゃんが作ってくれた場だと思っています。かほりちゃんの、お二人に楽しく過ごしてほしい。幸せになってほしい。そういう気持ちがこの場を作ってくれました」
二人は真剣な表情で聞いてくれている。
「隆志さんも平和を望んでいらっしゃるし、とも子さんも隆志さんとの関係をうまくしたいと思っていらっしゃる。その思いから、お二人がかほりちゃんに応えてくださいました。本当にありがとうございます。そしてお三方の思いを実現するために、今日の面接の中で、お二人がお互いの気持ちをより深く理解するように務めること。その過程で、お互いをできるだけ責めないこと、冷静に話し合うことを約束していただけますでしょうか」
この場にいる3人、誰にとってもこの場は安全な場であるという確認である。
それに対して、「わかりました」と隆志が言えば、「はい」ととも子も返事をした。

「ありがとうございます。それではまずは隆志さんは初めてですが、よくここでしています、呼吸合わせから始めさせてください」
これは、できるだけ呼吸を調律することで、互いの自律神経の波長を合わせることを狙いとしている。感情を安定化させ冷静な話し合いをしていくために、私が大切に思っている作業だ。
かほりが初めてここに来た時にした説明と同じように隆志にも説明し、私は手を上下に動かして呼吸を始めた。
時計を見ながら、二人の呼吸を1分間主導する。呼吸を導きながら「深い呼吸とともに、肩の力も首の力も抜いて、リラックスしていきましょう」と声をかける。
それが終わると、次の1分は隆志に、そして次はとも子にと、主導権を渡していく。そして最後にもう一度私が1分間呼吸を導いた。

夫婦の歴史

「ご協力いただいてありがとうございます。それでは、本題に入っていきたいと思いますが、私はお二人のこと、伺ってないことまだまだたくさんあります。もし良ければお話できる範囲で構いませんので、お二人の馴れ初めからお話くださいますか?」

二人には二人が結婚に至った歴史がある。私の促しには、それを私が理解するためという意図ももちろんあるが、それ以上に、二人に、その歴史を振り返ってもらうことに重きを置いている。呼吸を落ち着けた冷静な状態で自身の気持ちや、二人の関係の移り変わりを再体験してもらうのだ。

隆志が語りだした。

「初めて妻に会ったのは僕が会社に入って3年目のころでした。会社の営業所が妻の店の前にあったんです。妻の店は食品の販売会社ですが、当時そこでランチサービスしてて。それで、僕が昼にそこに入ったのが始まりでした」
隆志の語りをとも子は黙って聞いている。
「最初、僕からアプローチしたんですよ。初めての時は普通にそこで食事しただけでしたが、昔の話ですが、当時僕がとも子を気に入って」

昔の話......単に照れを誤魔化すために言っているのか。それとも今は違うという意味を含ませているのか。

「それで、まぁ、昼飯で通うようになったんですね。で、しばらく通って顔も覚えてもらった頃に、僕からとも子に携帯番号を渡しました。接客してくれている中で、こそッと、『良かったら連絡して』って。結構、いや、かなり勇気要りましたね。僕、そんなタイプじゃないですから。そしたら、割りとすぐでしたね。その日の内にとも子が連絡をくれました」

「すごいですねぇ。隆志さん、とも子さんの第一印象ってどんな感じだったんですか?」
「そうですね。可愛いって思いました」
「うんうん。それで返事来たら、めっちゃ嬉しかったですよね」
「当時は、そうですね」
「とも子さんは、どうですか?どんな第一印象でした?」
「私は......あんまり覚えてないんです。よくお店に来てくれる人だから、ちゃんと返事しないと、気まずくなるかなって思って返事をしたような気がします」

あまり乗り気で連絡したわけではなかったということか。

「最初は何か企んでるんじゃないかって警戒していました。変な話、体目的かなとか。でも、何度か会ってそんな感じでもないのかなって思ってきて」
「僕、もともと結婚願望強かったんですよね。できるだけ早く結婚したいって思っていました」
横でとも子が口を挟むように言う。
「私は結婚とか全然考えてなくて。でも、しばらくしてかほりを授かって。それをこの人に伝えたら、じゃ、結婚しようってなりました」
「なるほど、そういう馴れ初めだったんですね。教えていただいてありがとうございます。本当家族の歴史ってありますよね。そういう意味では、私、隆志さんのご実家の話はある程度どんな家庭だったのかって伺ったんですが、とも子さんについては今まであまり聞いていませんでした。よければ、どんなご家庭で育ったのか、お話しくださいますか?」

私の促しに応じで、今度はとも子が話し出した。

「家は、母子家庭でした。父親については、私が物心つく前に離婚していまして。全然記憶にないんです。それで、自分が何歳くらいのときだったかは覚えてないんですけど、一回だけ『お父さんはどこにいるの?』って母に聞いたことあったんです。そしたら母は『嫌なこと思い出させないで』って言ったと思います。それで、私は、父については聞いちゃいけないんだって子ども心に思いました」
それなりに重い話だが、淡々と話す感じが、どこか感情を切り離しているような話しぶりだ。
「前にも少し話しましたが、母は何かにつけて私を責める人でした。それで、早く家を出たいってずっと思ってたんです。それで、実家は三重だったんですが、短大を出て、就職と同時に名古屋に出てきました。それ以来、全く絶縁状態っていうわけじゃないですけど、あまり関わってないです。数年に一回くらい、かほりを連れて行ったことがあるくらいです。今は母は一人ですが、元々飲み歩いてる人でしたから、友達も多いですし、悠々自適に暮らしていると思います」
やや吐き捨てるようなニュアンスを感じる。
そして、ひと通り話しても、とも子の話はここで終わらない。

「そんな私から見ると、主人の家って、すごく健全なんですよね。この人、本当に愛情を注がれて育ってるって思います。私のこともすごく温かく迎えてくれて。結婚したばかりのとき、その感じが本当に異文化っていうか、普通の家ってこんななんだって思いました。お義母さんなんて、私とこの人がケンカすると大抵私に気を遣って、味方してくれるって言うか、この人を諫めてくれるんです」
「お袋は本当、誰にでも優しいから」
隆志も同調する。
「でも......、」とも子は声のトーンを落としてつづけた。「私はどうしても、私なんかって思っちゃうと言うか。だから、主人の実家では気を張っちゃうんです。優しくされると、ついボロが出ちゃう気がして」
隆志はとも子とは対照的に声のトーンが上がる。
「そんな気を張る必要ないだろう」
「でも、お義母さんみたいに、できない」
これを聞いて慰めるように隆志が言う。
「あんな風には誰もできないよ」
「......」

下を向いてしまったとも子に、私はできるだけ落ち着いた口調で話しかける。
「隆志さんの今の言葉、どう受け取られましたか?」
しかし、とも子は答えない。
隆志はそんなとも子を覗き込むように見ている。
私からも、とも子が膝に置いた両こぶしを握りしめているのが見えた。
と、呟くように言う。
「そう思うなら、なんで私を責めるの?」
とも子の口調が変わった。
「責めてなんか」
隆志は否定するが、とも子は更に口調を強めて、被せるように言う。
「責めてる。普段から言葉では責めなくても、顔は私を責めてる」
「それは、かほりに対して当たりがキツイときとかにだろ」
二人がヒートアップしてきたのを見て、私は介入した。
「整理しましょう。隆志さんはとも子さんがかほりちゃんを責めているのを見ると、それを諫めようとするんですね?」
隆志は少し声を落とし気味に答える。
「そういうときは......そうですね」
しかし、即座にとも子が言う。
「最近、私まったくかほりに怒ってない」
「そうかな。でも、今はこれまでこうだったっていう話をしているんだろう」
「それはもう仕方ないじゃない」
「俺はただ平和に家で酒が飲みたいだけだよ。それをあんなにガミガミやられたら」
「それは私が間違ってた。かほりに何でもちゃんとやらせようとし過ぎてた。そのことをここで気づかせてもらった」
「そう言っていただくと、私も嬉しいです」
ここでも、私は務めて落ち着いた声で介入した。
「とも子さん、ここで本当にご自身を変えようと一生懸命に取り組んでくれています。そのこと、隆志さん、認めてあげられませんか」
「いえ、妻が怒らなくなってくれれば、僕としてはもうそれで満足なんで」
少しぶっきらぼうな答え方だ。

優しくされたら怖くなる

「今までのやり取りを聞いていて、私、ご夫婦の問題って、やっぱり本当に難しいなって思っています。隆志さん、とも子さんがかほりちゃんに怒っているとき、どんな気持ちなんですか?」
「なんでそんなことでいちいち怒るんだ」
「他には?」
「もっと気分よく飲ませてくれよって」
「かほりちゃんが叱られていると気分よくお酒が飲めないんですね」
「それはそうですよ」
「さっき、隆志さんは健全な家庭で育ったってとも子さんが言っていました。隆志さんのご実家は平和だった?」
「いや、まぁ、親父はそれなりに圧があって、怒ったりもしていましたが、それでもそこまでじゃなかったですよ」
「隆志さん......平和な暮らしを望んでいるんですね」
「ですね」

次に私はとも子に話を振った。
「とも子さん、隆志さんが平和に暮らしたいって言っています」
しかしとも子は目を伏せながら言う。
「平和......どんなのが平和か分かりません。私はかほりをちゃんとさせようと思って頑張ってきたんです」
「とも子さん、かほりちゃんに怒れちゃうときって、どんなときだったんでしょう」
「やっぱりやらないといけないことをちゃんとやらないときには......そうですね。キツくなっちゃってましたね。でも本当、勉強とか完璧を求めすぎてたんだなって、かほりが不登校になっちゃった今は思いますけど」
「なんで完璧を求めちゃったんでしょうか?」
「なんででしょう」
「それは多分、完璧な母親たろうとしたからではないですか」
私は洞察を入れていく
「そうだったのかもしれません」
とも子の答えを聞いて、私は更に深堀りする。
「それはどうして?」
「もともと完璧主義だからですかね」
「そうなんですね......」一呼吸間を置いてから私はつづけた。「完璧主義の人の背景には、『完璧な私しか愛されない』という固定観念があります。とも子さん、この言葉にどのくらい同意しますか?」
「......」
とも子は答えない。
様子を見ていると、横目で隆志の存在を気にしている様子だ。
それを隆志も感じ取ったようだ。
「僕がいると話しづらい?」
とも子は尚もモジモジしている。
このようなとき、隆志に席を外してもらうという選択もあるにはある。しかし、今回は夫婦の合同面接だ。それでは意味がない。むしろ隆志の前で思うことが言えるということが合同面接では大切だ。
そこで私は言った。
「隆志さん、お願いがあります。今日の場はお互いの気持ちを理解する場です。絶対にとも子さんを責めないでください」
「責めたりはしません」と隆志が答える。
「隆志さんがこう言っています」
とも子に伝えるが、やはり口が重いようだ。

「この場では何を言っても、この場だけの発言です。隆志さんも絶対にとも子さんのことをそのことで責めないでくださいね」
私は何度も同じ説明を繰り返す。それに隆志は頷きで応える。
そして、二人でとも子を伺っていると、ようやくとも子が言葉を発した。
「実は......どうしてもお義母さんが怖い」

隆志は驚いた様子で、目を見開いた。
「どうして?あんなに優しいのに」
「優しいから......こんな私にあんな風に優しくされたら、怖くなる」
私はとも子の告白を聞いて胸が締め付けられるのを感じた。このような感情は、虐待サバイバーがよく経験する感情のひとつだ。

私はとも子にねぎらいの言葉をかけた。
「とも子さん、よくお話してくれました。その気持ちを今日、この場で吐き出せたこと、とっても意味があると思います」
そして隆志に向かって続けた。
「隆志さん。隆志さんがとても尊敬していらっしゃるお母さんに対して、とも子さんが怖いと感じているということ、すぐには理解が難しいかもしれません。でもまずは、とも子さんが怖い気持ちを勇気をもって告白してくれたことを一緒に労いましょう」
しかし隆志は、やはり理解できないというような表情だ。
母を否定されたようで、少なからず怒りも感じているのかもしれない。
それを見て私は言う。
「もう今日は時間が近づいてきました。とも子さん、その怖い気持ち、今後の面接で隆志さんと一緒に掘り下げていきましょう。そして、隆志さん、一度、北海道の温泉で今日感じたネガティブな気持ちを全部洗い流しましょう」
私はクロージングの誘導を入れていく。
「イメージしてください。あったかいヌルヌルのお湯。硫黄の匂い。たくさん石鹸をつけて、ゴシゴシって心を洗います。そうすると、ネガティブな気持ちがきれいに洗い流されていく。綺麗になっていって、全部洗い流されたら、今日はこの話題はここで閉じたいと思います」
もちろん、そんなに全部綺麗に流されるわけではないことは分かっている。しかし、このように教示することで、次回まで気持ちを抱えやすくなる。またイメージを言語化することで、とも子も同じ絵をイメージしてもらうことも狙っていた。
それに応えるように、隆志ととも子は二人とも頷いた。


何も宣言せず、自然と、「隆志さん」「とも子さん」と呼んでいたな......。
私は、記録を書きながら面接を振り返っていた。当然夫婦面接なので、二人とも坂部さんではおかしいわけだが、かほりの親面接と位置づければ、「お父さん」「お母さん」でもいいし、夫婦面接なら、「旦那さん」「奥さん」などでもいい。それぞれの面接の狙いによって、クライアントの呼び方も変わってくる。そして今回はファーストネームで呼んでいた。これは私の無意識の選択だ。無理に意味づけるなら、結婚に至るまでの歴史も含めて、個人を大切にしたい思いからという解釈もできる。今回の私の選択が良かったかどうかは置いておいて、こういう言葉選びのひとつひとつにも心理臨床家としてのセンスが表れるのを感じる。
恋愛結婚の末に結ばれた二人。隆志が主体性を持って働きかけたのに対して、とも子は終始受け身的だったような印象だ。それぞれの育った家庭環境の影響だろうか。
そして、隆志の家庭環境を「異文化」として受け取ったとも子。とも子の結婚生活は異文化適応の中で、自身をいかに守るかという戦いだったのかもしれない。

アセスメント
・やさしさに触れる経験が希薄だったとも子が、初めて触れたやさしさの中で、自分が照らし出されたような感覚で怖くなった。そして照らし出された自分を完璧な母親として演出しようとした結果、かほりに対して当たりがきつくなった。
・隆志はそれに居心地の悪さを感じ、とも子への気持ちが冷めていき、それがさらにとも子のかほりへの養育態度に負の影響を与えたことが考えられる。

方針
・愛着障害の特性としての、やさしさに対する恐れや傷つきについて、隆志に理解を促していく。

ネッ友

私はいつものようにパソコンの前に腰を下ろしていた。
インスタントコーヒーの苦みを楽しみつつ、今書いたばかりの記録を読み返している。

今回のかほりとのセッションでは、前回同様、特別な目的を持ったトレーニングやワークは入れずに過ごした。回数を重ねていくと記録も特筆すべきことが少なくなっていき、次第に簡素になってくる。

20XX+1年10月23日 かほり#21
学校に4時間目くらいから行ける日が増えてきた。
今はインターネット上で知り合った友達、いわゆるネッ友と楽しく過ごせてる。自分で描いた絵をネットにアップしたら、コメントくれた子がいて、それから仲良くなった。一つ上の子で、その子も絵を描いていて、お互いに見せ合う仲になった。
いつか遊ぼうって言われてるけど、住んでるところがちょっと遠いから、微妙とのこと。
ずっと話しながら、時間いっぱい絵を描いて過ごす。

アセスメント
・力がついてきて、ネット上とは言え、人との交流が出てきたのは進歩。
・視線恐怖も和らいできており、学校の部分参加もできるようになってきた。

「まぁ、こんなところでしょう」
私はアプリの保存ボタンをクリックした。

買い物

その日、私は朝からスーパーを梯子していた。
舐めていた。すぐに目的のものが見つかると思っていたのに、なかなか見つからない。
もう次で4軒目だ。
今日はいくつか予約が入っており、最終が17時からの坂部家の夫婦合同面接だ。あまり買い物にかけている時間はない。

次のスーパーでなかったら諦めよう。

そう思いつつ、駐車場に車を入れた。

夫婦合同面接②

20XX+1年 10月30日  とも子#15 隆志#4
「こんにちは。今日もよくおいでくださいました」

目の前にいる二人に対し、来談に対する労いの気持ちをこめた挨拶を済ませると、私はいつものように歓迎の意味を込めて、温かい煎茶と、クッキーを二人の前に並べる。これは今朝スーパーで買ってきたばかりだ。

そして、前回と同じように、呼吸合わせをした後に、私から話を振った。

「とも子さん、前回お義母さんのようにできないっておっしゃっていましたが、それからそのようなお気持ちを刺激されたことってありますか?」

私の問いかけに、いたって平坦な口調で「あると言えばあるし、ないと言えばないって感じです」ととも子。視線は下の方を向きつつ、空中を泳いでいるように見える。

それを聞いた隆志は、「何も言ってないだろう。前回から。でもやっぱりどういうことか分からない。お袋だって、嫁に来たとも子にはすごく気を遣ってるんだ。それなのに怖いってどういうことだよ」と2週間封印してきた気持ちの蓋を外す。

それは今したばかりの呼吸合わせで抑えられるものではなかったのかもしれない。
やっぱり堪えるのは大変だっただろうことに思いを馳せた。
しかし、それを家で噴出させなかった隆志の誠実さや責任感には頭が下がる。


私はできるだけ優しい口調を意識しながら、
「隆志さん、収めてください。とも子さんの話を聞きましょう」
そう言ってとも子に振る。

とも子はうつむいたまま呟くように言った。
「やっぱりお義母さんの味方なのね」
声が小さくて若干聞き取りにくかったが、確かにそう言った。
それに不意を食らったのか、隆志は何も答えない。

とも子は、少し躊躇したように間を取ったと思うと、顔を上げ、急に
「どうしても言わせてほしいことがあるの」
と隆志の方を向いた。

今から意を決して何かを伝えようとしているのが見て取れる。自然と場が緊張に包まれた。
私と隆志が見守る中で、再び視線を落としつつ、とも子は言葉を続ける。

「あなたは前回ここで、『母みたいには誰もできない』って言ったわよね。それってやっぱり私にお義母さんを期待しているってことよね」

とも子の言葉には大きな勇気が込められていたのだろう。少し声が震えているように聞こえる。
それを受けて隆志は返す。

「そんなつもりはない。あんな風に誰にでも優しく穏やかにいられないのは分かってるよ」
「そうやって、お義母さんを持ち上げて、それと比較して私にできないって言ってくるのが苦しいの」
「それは事実だから仕方ないだろう」

とも子は今、長年ずっと感じてきた気持ちを言語化してくれている。ずっと隆志にぶつけたいと思いつつぶつけることができなかった気持ちだ。
一方隆志はそれをどう受け止めていいか解らずにいるのかもしれない。
ここではぐらかしてしまっては、夫婦の間に今私がいる意味がない。

「隆志さん、隆志さんの中で、期待を裏切らないというのはとても大切なことなんですよね。隆志さんは家族の期待を裏切ってしまってとても苦しんだ過去がある。だから、責任感強く、一生懸命、ストイックに生きてこられた。一方で、隆志さんご自身が相手に期待したときにも、自分がこんなにやってるんだから、応えてくれないと納得がいかない感じになるのかもしれません。そして、結婚したときに、とも子さんにお母さんのような振る舞いを期待してたんじゃないですか。そして、それが、裏切られた気持ちを持ち続けてる」

隆志は何も言わない。

「それが無言の圧力となり、とも子さんがいたたまれない気持ちになった。とも子さんがそんな中で自分を守るためには、かほりちゃんを立派に育て上げるしかなかったのかもしれません。それで、完璧主義に駆り立てられたとも子さんは、かほりちゃんに厳しく当たっちゃうサイクルを創り上げたというストーリーはいかがでしょうか」

私は夫婦間でこれまで起こってきたことを私なりの解釈で言語化した。

とも子は私の言葉を聞きながら相変わらず顔を強張らせている。とも子は多分意識していないだろう。だが、それは怒りの発露だ。抑圧されてきて、良い妻であるために出せなかった怒りが湧き出ようとしている。

「僕が......、とも子をそうさせていたということ?」
隆志がテーブルの上にある湯呑のあたりを見ながらつぶやいた。
少なからず私の言葉が届いたか。そう思い、更に私は言葉をつないだ。

「今、隆志さんがすべきことって、期待外れだったけど、責任を取って夫婦でいるのではなく、目の前のとも子さんを等身大で愛することじゃないですか」
私は思い込めて言った。

ここでも隆志は呟くように声を発する。
「僕は......それができてない?」

とも子が口を開く。
「私はあなたが最初に声をかけてくれた時、信じられなかったの。だから、絶対なんか企んでるって思った。私なんか好きになってくれる人なんているわけないって思ってたから。でも、あなたを知っていく内に、あなたは愛を知っている人だって思った。そんな人が私に想いを持ってくれるなんて、嬉しかった。だから、あなたの期待に応えようと頑張ってきた。あなたの愛を失いたくなかったから。でも、頑張れば頑張るほど、駄目な自分ばっかりが見えてきたの」

その目に少し涙を浮かべながらとも子はつづけた。

「かほりが生まれたとき、すごく怖かった。自分の母に優しくされた記憶がない私は絶対すぐにボロが出る。お義母さんみたいにはなれるわけない。そしたら、あなたに捨てられるって思って」
「だから、そんな風にならないでいいって言ってきただろ」
「それが比較しているって言ってるの。私はお義母さんの下位互換じゃない。私はあなたに、お義母さんじゃなくて、私を『愛してる』って言ってほしかったの。そう言ってもらわないと、私はとっても不安になって、どうしようもなかったの!」
とも子のストレートな気持ちの吐露に隆志は驚いている様子だ。家ではいつも隆志が不機嫌になり、とも子は黙り込むパターンだったからだ。

二人の昂っている交感神経を鎮める意図をもって、私は低めの声で言った。

「隆志さん、ご実家から離れて、とも子さんと結婚して、新しいご家庭を築かれました。それはお二人にとって、とっても素晴しいことでした。そして、とも子さんと築いた新しいご家庭は、ご実家とは違って当たり前です。中身が違うんですから。多分、隆志さんが果たすべき、一番の責任......それは、ご実家から本当の意味で自立して、奥さんを幸せにすることじゃないでしょうか」

隆志はギュッと奥歯を噛みしめたような表情をつくり、しばしの沈黙が流れた。

と、不意に言う。
「カウンセリングって、こういう場なんですか」
私は隆志の様子に少しびっくりして聞き返した。
「と言うと?」
隆志は目元がぴくついているように見える。
「二人して僕を悪者にして、責め立てるのがカウンセリングなんですか?」
今までの会話が隆志の被虐スイッチを押してしまったようだ。そこで私は言う。

「隆志さん、今の話を聞いて、とても責め立てられているように感じたんですね」
「責めてるじゃないですか!でもこっちだって、ずっと我慢させられてきたんだ!自分の嫁さんに怒らないでいて欲しいって、思うのがそんなに悪いことですか?子どもにイライライライラわめき散らしてるのを何も思わない人間なんているわけないでしょう!仕事で疲れて帰ってきた時に、ガミガミガミガミやってるところ想像してみてくださいよ!それでちょっと注意したら、『死にたい!死にたい!』って。それをなだめて我慢してやってきた。それなのに僕が悪者なんですか?」
拳を握りしめて、一気に吐き出した。
隆志の攻撃性がこちらに向けられたことに、私の交感神経が反応する。
顔面に血流が集まろうとしているのを感じる。それに対し自分の呼吸を確認し、意識して、一息、長く吐く。
刹那に自分をグラウンディングさせた後、強くなった隆志の口調を落ち着かせる意図をもって、私はできるだけ低い声で伝えた。
「そう感じさせてすみません。隆志さんは本当に責任感が強い方です。そんな気持ちを持ったまま、本当に今まで坂部家を守ってきていただいた。そして、前回から今日まで、いっぱい思うところはあったはずなのに、ずっと気持ちを封印して、耐えていてくれてたんですね。本当に強い人です。実は今日、準備したものがあります。少しお待ちください」私は立ち上がると、奥のキッチンに移動した。冷蔵庫から今朝スーパーを回って手に入れた瓶のボトルを取り出し、お盆に乗せて隆志の前に持ってくる。

隆志の視線を感じつつ、私はキャップをつけたままのそれを隆志の前に差し出した。

「すみません。隆志さんが北海道で飲んだものとは同じじゃないと思いますが、ちょっと一口飲んでみてください」

「わざわざ用意してくれたんですか」

驚きの表情と共にそれを手に取ると、隆志は自分で瓶のキャップを外し、口を付けた。

「甘いです......。コーヒー牛乳って、大人になってから初めて飲んだかもしれません。こんな味でしたっけ」

隆志がコーヒー牛乳の味を噛みしめているのを確認して私は言った。

「隆志さん、期待に応えられないと感じたとき、自分を責めてしまう癖がありましたね。コーヒー牛乳を味わいながら、温泉につかっているイメージをよく思い出してください。温泉の匂い、温度、肌ざわり、景色。そして、もう一度、ご自身に言ってあげましょう。『落ち込まなくていい。大丈夫だ』って。そうすれば、隆志さんはどんな逆境だって、反骨精神で乗り越えられるはずです」

ここでもまた沈黙が流れる。

隆志は下を向いており、その隆志をとも子と私が見つめている。
Youtubeでかすかに流しているヒーリングミュージックだけが私たちの聴覚で拾える唯一の刺激だった。
その間、隆志の表情が苦しそうに歪んだかと思えば、激しく瞬きを繰り返す。それを見守りつつ、私はゆったりと一定のリズムで呼吸を続けた。

長い沈黙の後、普段高めの声だが、そのトーンを抑える感じで、声を発した。
「とも子......」
この呼びかけに、とも子は答えない。黙って隆志を見つめている。

隆志の瞬きが一層激しくなる。
それをとも子は黙って見つめている。

「僕は......どうしたらいい?」

隆志はこれまでずっと自身の母親代わりを演じるように求め、それができないために否定してきたとも子から、逆に否定されて自分の立ち位置を見失っているように見える。
しかしそのような隆志の問いかけに対して、とも子は沈黙をもって答えた。

三度、長い静寂が場を支配する。

私は二人の息遣いを注意深く感じながら、自身のリラックス呼吸も意識し、同調を図る。一定のリズムで、ゆっくりと吸って、ゆっくりと吐く。ゆっくりと吸って、ゆっくりと吐く。

どれだけの時間が流れただろうか。隆志はもう一度、コーヒー牛乳の瓶を口に運び、一口つけて、机に戻した。
そして、先ほどと同じようにもう一度、呼ぶ。
「とも子......」
呼びかけに対しとも子は隆志をまっすぐ見つめている。

「僕は……でも、やっぱり僕にだって気持ちがあるんだ。思ってた結婚生活はこんなじゃなかった......だから......どうしたらいい?やっぱり分からない」

とも子は答えない。しかし、歯を噛みしめるように強張った顔で涙を溜めているのが分かる。

隆志が言った。
「少し時間をくれないか。何が正解か......考えるための時間を」

時計を見ながら、私は言う。
「お二人の思い......今日聞かせていただいたこと、とっても尊いです。本当に真剣に、お二人が向き合っていただいたこと、心から頭が下がります。そんなに簡単に歩み寄れるものではないのかもしれません。でも、確実に今までなかった変化が起きています。今日はここで幕にしましょう。ゆっくり深呼吸してください」

そう促して、私自身も大きく吸って......ゆっくりと吐いた。

2人を見送った後、どっと疲れている自分を感じる。
喉が渇いていた。
普段ならコーヒーを淹れて気持ちをリラックスさせるのがルーティンだが、この時私はすぐにグラスに水を注ぐと、それを一気に飲み干した。

アセスメント
・隆志は自分の母親をとも子に求めていた。とも子はその隆志の期待に応えられないことで自責し、苦しんでいた。
・今日二人がその構図を認識できたが、隆志の中には感情的な否定感が残っている。

方針
・引き続き、2人の対話を促し、ファシリテートしていく。

手当て

20XX+1年11月6日 かほり#22
「今日は持ってきたものがあります」
相談室に招き入れると、かほりは開口一番、そう言った。
構造を個人面接に切り替えた際、「何をして過ごしてもいい」と伝えていたこと、そして、ここ2回ほど、絵を描いて過ごしていた流れから、自分で取り組みたいものを持ってきてくれたということか。
かほりの自発的な行動が増えていることを嬉しく思いつつ「何を持ってきたんですか?」と聞く。
かほりは手持ちのトートバックからクリアファイルを一枚取り出して私に見せた。
それを見て私は、背筋がぞっとするのを感じた。

「この絵......まだ、持ってたんだ」
クリアファイルに挟まれているのは、女の子の絵だ。
以前に母親がスマホで見せてくれた女の子の絵......

「ちょっとよく見せてもらっていいですか}
私が言うと、かほりはクリアファイルから取り出して、私にその絵を渡してくれた。

身体全体に何本もの刃物を刺されて、血だらけになりながら、それでいて十字架に貼り付けにされたように、両手を広げ、こちらを睨みつけるように笑う女の子。

母親がスマホのカメラで撮って見せてくれた写真では赤く血がついていたが、今はもう褐色に変色している。

「ずっと机にしまってたんです。前にここでこの絵について話したとき、榊さんが、この絵はお母さんだって言ってたんで。だから......、お母さん、手当てしてあげなきゃ」

私はかほりの申し出になんとも言えない感情が込み上げるのを感じた。
ここでかほりに母親を助けようと提案し、それをすぐに、やっぱり止めようと手のひらを返したのは私だ。
かほりのやっと見つけた生き甲斐を取り上げた私。
それでも尚、私のもとに通い続け、今また母親の傷を手当てしようと言う。
私は、勝手に涙腺が緩むのを気取られないように我慢しつつ、
「そうだね。ちゃんと手当てしてあげようね」
とかほりに賛同の意を示した。

机の上に絵を置くと、消しゴムを使って、刺さった刃物たちを消していく。
ナイフ、槍、刀、包丁、鎌。
血が色濃くついている部分は消しゴムを強く当てると、破れてしまうと思ったのだろう。慎重に作業している。
そして、全部消えたら、鉛筆で消えてしまった輪郭を補修していく。
更に、顔にも消しゴムをかける。
睨みつけていたような表情を消し、鉛筆で書き直した顔は穏やかな笑顔になった。

その様子を私が見守っていると「絵の具借りれますか?」とかほり。
「もちろんあるよ」
と伝えて、相談室横の備品部屋に取りに行く。
その中から「普通の水彩絵の具でいいよね?」と扉越しでも届くように私が大きめの声で聞くと、「はい」と返事が聞こえた。
大きな返事ができるようになったことにもかほりのエネルギーを感じる。

部屋に戻り、「どうぞ」と絵の具セットを渡すと、私は水彩用の水をコップに汲んでくる。

絵の具の準備をして、いざ色を入れていくのかと思ったが、すぐにかほりの作業の手が止まってしまった。
しばらく動かないで考えているようだ。
「どんな風に塗るか考えているんですか?」
私が問いかけると、
「これ、上から白で塗っても多分、消えないですよね」と言う。

血が褐色に変色している部分に白い絵の具を塗ったとして、水彩絵の具の白では確かにいくつかある濃い部分は消せそうにない。
「確かに、白い洋服だと消せなさそうだね」とかほりに同調した。

しばらく、どうしようか迷っていた様子だったかほりが言った。
「そうだ!お母さんに赤いドレスを着せてあげよう」
そう言うと、絵の具から赤系の塗料を何色かパレットに出す。
それを水に浸した筆でとき、絵の上に塗っていく。
白い部分はそれでいいが、血の付いた部分は完全に同色ではない。
濃い褐色の部分をどうするのかと思って見ていたが、本当にうまいものだ。
赤いドレスにところどころ、影のように褐色になっているところがあると思えば、次に、黄色や白の塗装をすることで、光が当たっている部分とのコントラストを作り、自然に見えるように塗り替えられていった。
ところどころ、鉛筆で補修し、いつの間にか血まみれのボロ布のような服を着ていた女の子は、赤い素敵なドレスを着せられていた。
「完成ですか?」
私が聞くと、かほりは、「あと、ちょっと......」
と言って、再び絵の具の筆から鉛筆に持ち替える。

そして、女の子の後に......もう一人。
タキシードに身を包んだ男性を立たせた。こちらも鉛筆で書き終わると、水彩で色を付けていく。
そしで出来上がったのは、さながら映画タイタニックで、ケイト=ウィンスレットが手を広げ、後でレオナルドディカプリオが支えているようなポーズだ。
二人は穏やかな笑みを浮かべている。

私はこれを見たとき、かほりの中にしっかりと安心感のある両親が内在化されつつあるのを確かに感じた。
その感傷に浸っていると、早いもので、気づいたら60分という時間が過ぎていた。
インターホンが母親の迎えを知らせてくれている。
「この絵......まだ渇いてないから、今日はここに置いて行って、また次回もし続きがあるなら描き足すことにしませんか」
私の提案にかほりは頷いた。
そして、マスクを下げたかと思うと、湯呑のお茶を飲み干し、クッキーをそそくさと食べて行った。

今回のかほりのウルトラCとも言える行動には、私は頭が下がる以外にない。
以前の私の提案、「かほりのエネルギーはかほり自身のために使おう」というのは間違っていたのか。その提案をしたとき、私は「私に向けて思いっきり怒って、この部屋を出たらリセットしましょう」と伝えた。あれはかほりの気持ちを余りに軽々しく扱ってしまっていたのではないか。
それでもなお「家族の癒しが自分のためにエネルギーを使うということ」というかほりの主張を感じる。
私の一方的な押し付けに対して、とても健全な主張で返してくれたかほり。
彼女の本来の回復力と成長力を前に、私は畏敬の念を抱かずにはいられなかった。その尊さは、神々しさすら感じさせるほどであり、自身のつたない判断に対して少なからず申し訳なさを覚えていた。

失踪

今日は土曜日だ。
普段の平日ではなかなか手が込んだものが作れないため、土日くらいはある程度しっかりとした家庭料理を子ども達に振る舞いたい。
そう思いながら作った餃子とスープ、青菜の炒め物がきれいに平らげられたことに満足感を持って、私は下の娘と一緒に夕飯の後片付けをしていた。
本来、上の娘にも何か手伝わせたいところだが、テスト前で勉強が忙しいということで免除している。
妻は妻で持ち帰りの仕事を抱えているらしく、パソコンに向かっている。
時計を見るともうすぐ9時になろうとしていた。

プルルルル......プルルルル

前触れもなく鳴り始めた電話の着信音に少しびっくりさせられる。携帯電話ではなく、固定電話だ。こちらにはほとんど相談室関連の電話しかかかってこない。こんな時間にかけてくるのは営業ではないはずだ。誰だろう?

「はい、もしもし」
営業時間外であるので、こちらからは名乗らず、私は相手の反応を待った。
「山の香りカウンセリングですか?」
少し高めの男性の声だ。
「はい、山の香りカウンセリングサービスです」
「夜分にすみません。坂部です」

こんな時間に?なんだろう?
私は驚いて言う。
「あ、隆志さんですか。どうされたんですか!?」

「お世話になってます。実は......かほりがいなくなりまして」
隆志の声は明らかに動揺している。
それにつられてというわけではないが、私も揺さぶられるような感覚を覚えた。
「こんなこと今までなかったものですから、そちらで何か話していなかったか伺いたくて。心当たりはありませんか?」

つい二日前のかほりの様子を思い出す。
あんなにしっかりととも子の絵を修復し、隆志と一緒に微笑むシーンに描き変えたかほり。しっかりと健全な両親を取り込み始めていると確信させられた矢先......まさかの知らせ。

私は驚きとともに心拍数が上がるのを意識しつつ、務めて冷静に振る舞い、具体的な状況を聞いていく。
「いつからいないんですか?」
隆志曰く、今日はとも子は朝から仕事。隆志は遅めに起きて、一人で朝食をとった。そのときにもかほりは部屋にいるだろうと勝手に思い確認はせず、そのまま寝た。夕方になり、とも子が帰宅し、夕食の声掛けをしても返事がないので、初めてかほりがいない事に気づいたと言う。かほりに持たせているスマホはSIMカードは入れていない。電話番号もないし、Wi-Fi環境でないと通じない。LINEで連絡をしてはいるが、既読がつかないとのことだ。

そう言えば、ネットの友達に会おうって誘われていると言っていたことを思い出す。しかし、遠方としか聞いていないので、どこの人かまでは分からない。
犯罪に巻き込まれている危険性も考慮し、守秘義務よりも優先されると考えた私はそのことを隆志に伝えた。
「そうでしたか。こちらに電話して、分からなかったら警察に届けようと思っていました。ありがとうございます」
「そうですね。万が一ということもありますから、警察に届けるのはされた方が良いかもしれません。もし見つかったら何時でも構いません。連絡いただけますか?」

本来、ケースの予約以外でのクライアントとの接触はアクティングアウトと呼ばれ、極力避けられるべきである。面接の構造を崩してしまうと、それは結果としてクライアントとの安定した関係を棄損するリスクを伴うからだ。次の面談の時に、この問題の顛末を扱うべきなのかもしれない。
しかし私はすぐに連絡をくれるように依頼してしまっていた。
もちろん、私自らかほりを探しに街に出て行くというような明確なアクティングアウトではない。しかし私自身が心配を自分で抱えるという発想ができなかったが故の依頼である。やはり心配だったのだ。

それからしばらく私はいつ電話がかかってきてもいいように風呂に入ったり、他事をすることなく、電話の前で連絡を待っていた。

私自身、家族の再生という願いから、かほりを切り離そうとしてしまったことに負い目を感じていた。
たびたび自傷していたという事実は自己破壊衝動の表れでもありうる。
その後かほりから話題にされることはなかったので、9月以降リスカしていたかどうかは分からない。
でも、もしそれがエスカレートしていたら......。
健全な親の内在化がなされているというのが、私の主観的な思い込みでしかなかったとしたら......。

家出、
性被害、
......自殺。
さまざまな悪い予想が頭の中を駆け巡る。
「無事に見つかってくれ」
そう思いながらも、私にできることは、ただ、連絡を待つことだけだった。

プルルルル......プルルルル

次に電話が鳴ったのは最初の電話から凡そ1時間後の10時過ぎだった。
「ご心配おかけしました。かほりが見つかりました」
電話の向こうで隆志の安堵する声が聞こえた。
私も「ふ~ッ」と胸をなでおろす。
聞くと、警察に行って捜索願をまさに出そうとしていた時、電話がかかってきたとのことだ。
「かほりちゃん、電話くれたんですね」
しかし隆志は言った。
「いえ、電話をくれたのは......祖母です」

家出の理由

かほりの失踪事件から週が明け、私はまた日常の業務に追われていた。
かほりが無事に見つかると、あんなに心配したのが嘘のように、そのことを考える余裕がなくなる。
かほりとは別の不登校のケース、発達障害のケース、DVのケースなどなど色々な人と会う中で、坂部家が私の中で占める割合は相対的に小さくなっていく。

そして迎えた次の木曜日。
この日は朝からしとしとと降る雨模様だった。午前中に2つのケースを終えて、記録を書くと、次に夕方のケースまでしばらく間ができた。手持無沙汰だったこともあるが、11月も半ばに差し掛かり、少しずつ気温が下がってきていることもある。更にこの秋雨だ。私は今シーズン初めて、薪ストーブに火を入れることにした。と言っても、真冬のようにガンガンに焚くというよりは、試運転的な感じだ。

雨の中、傘を差しつつ、外に出ると、すぐ横の薪棚から室内に薪を運ぶ。真冬に一日分の暖を採る量の薪を運ぼうと思うとかなりの重量になるが、今回は数本である。そこまでの重さはない。部屋の中に薪を運び込むと、早速炉の中でそれを組み上げる。

そして、焚きつけ用の細い薪に火を点け、育った火種を徐々に太い薪に移して火を大きくしていく。

それらの作業をしながら、これから会うケースについて思いを馳せていた。


初めて来たときは、一言も話せなかったなぁ。
それが、何度か会う中で少しずつ話せるようになった。
そう思ったら、不意に家族の中核的なトラウマが表出して、次の面接がキャンセルになったときには中断も覚悟した。
その危機を、なんとか母親とのつながりで乗り越えたが、その後の面接は膠着していった。

今思えばあの膠着も頷ける。
私は母親を変えればあの子も変わると勝手に思い込んでいた。あの子の真の願いにも気づかずに。そして母親に対してうまくアプローチできていると思い込み、「終結とは?」といった哲学的な思考にすら思いを巡らせていた。それが、全くの見当違いだったことが今は分かる。
私の傲慢な思考、油断以外の何者でもなかった。
私の介入が家庭内での更なる緊張を創り出し、あの子を苦しめる結果になっていることにも気づかずに。

動きが少ないまましばらく回を重ねていった。
振り返れば、やはりあの夏の日の告白は転機だったんだな。
あそこから物凄い勢いでケースが動き始めた。
父親が登場し、父親からも娘が語ったのと同じ場面が別の切り口で語られた。
その後、ケースの構造は目まぐるしく変化していったが、それに伴って、あの子は物凄く成長していったように見えた。
そう見えたのに...…その矢先のまさかの失踪。
あの子には驚かされてばかりだ。

振り返ると、私は何もしていないどころか、見当違いなことばかりしていたのかもしれない。その度にあの子の健全さが家族を導いていった。

「まだまだ...…、クライアントに教えられることばかりだなぁ」

独り言を言いつつ、目の前の薪ストーブに意識を戻すと、炉の中の火は十分に燃え盛っていた。
後は薪を足さなくても、適度な暖かさで客を迎えることができそうだ。

「ピンポ~ン」

インターホンが鳴る。
私はいつものように「は~い、どうぞ~」とできるだけ優しい口調で入室を促す。

――カラン、カラ~ン

ドアベルを鳴らして相談室のドアが開いたと思うと、最初に入ってきたのは隆志、それに続いてとも子、そして......かほりだ。

20XX+1年11月13日 かほり#23 とも子#16 隆志#5 家族合同面接
「あ、今日は3人でいらしたんですね」
面接構造的には夫婦面接と、かほりの個人面接は分けて作っていたこともあり、その構造を捻じ曲げると言う意味で、これもアクティングアウトと言える。
しかし、来てしまった以上仕方がないし、大事なのはここで、私が揺さぶられないことだ。そして、私自身、かほりが登場し、構造が変えられたことに対して、不思議なほど揺さぶられる感じがしなかった。
敢えて問題と言うなら、2人分しか用意していない客用の椅子、歓迎の茶菓子を足さなければいけないことくらいだ。

すぐに普段私が座っている椅子を移動させて、机の向こうに3脚並べる。
そして私用の椅子は備品部屋から簡易の折り畳み椅子を出してきた。

そして、二人分しか用意していなかったお茶とクッキーの用意を、もうひとセット足す。これに関しては複数枚のクッキーを予備としてストックしていたことに救われた。

準備が整うと私は3人に相対して腰を下ろし、「改めまして、よろしくお願いします」
と挨拶した。

隆志が言う。
「突然すみません。今日はどうしてもかほりがついてくると言って聞きませんでした。それで、先週のこともありますし、榊さんにも話をさせたいと思いまして連れてきちゃいましたが、大丈夫でしたか?」

初心者の頃なら、アクティングアウトに反応して「今回は大丈夫ですが、今後はそういう場合は事前にご連絡ください」などと無粋な言葉で返していたかもしれない。
しかしこのとき、私は自然と、
「いえいえ。よくお越しくださいました。本当にありがとうございます」
と返していた。

「さて、今日はどなたからお話聞かせていただけますか?」
私は主導権を渡す相手が誰かを確かめる問いかけをした。
「ちゃんと自分で話しな」
隆志がかほりに向かって言う。
それに対して、以前のかほりならモジモジして語りだしに時間がかかりそうなものだったが、この時は割りとすんなりと言葉を発した。

「私、前ここで話したネットの友達に会いに行ったんです」
「へ~、なんか遠いって言ってたよね。どこの人だったんですか?」
「四日市です」
三重県の四日市市のことか。かほりの家から名古屋駅で乗り換えて近鉄電車で行くとして、1時間以上はかかるだろうか。私は車でしか行ったことがないが、中学生が一人で行く距離としては、確かに遠いイメージだ。
「そうだったんですね。ネットの友達に会うのって、緊張するでしょ。前は微妙って言ってたと思うけど、どうして会おうと思ったんですか?」

少し間をおいてかほりが答えた。
「四日市の人だったから」

「......?」
よく分からない。四日市に行きたかったということ?
「えっと、なんで四日市の人だったから会おうって思ったんですか?」
分からないので、率直に聞いた。

「お祖母ちゃんの家が近いから」

「あ~、お母さん方のお祖母ちゃんだね。そう言えば三重って言ってましたね」ととも子の顔を見る。
「それで、この子、友達と会った後に、私の実家を訪ねたんです」
とも子が補足してくれた。

「何年かに一度しか行かないように聞いてましたが、よく行けたねぇ」
私は過去に何度か行ったことのある四日市の街並みを朧げに思い返しながら言った。
「駅の名前覚えてたんで。駅まで行けばなんとか行けると思いました」
「へ~、すんなり行けた?」
「すんなりじゃなかったけど、小学校の時に行ったことあったから」
「そうだったんですねぇ。本当、よくたどり着けたよね。すごい大冒険でしたね」

「僕もさすがにかほりがそんなことするなんて思ってなくて。スマホやSNSの使い方とか、家で話すようにってよく言ってるじゃないですか。でも、ウチはそんなの関係ないって思ってたんですよね。本当反省です」
私としては祖母の家を訪ねたというのはかなり大きなポイントだと思うのだが、隆志にとっては現実的な心配の方が比重が大きいのかもしれない。
「そうですねぇ。今時の子達って、SNSでつながって会うのって、割りと普通みたいですからね」

私は隆志の言葉に相槌を打ちつつも、内心では別のことに意識を向けていた。
隆志は父親として現実的な安全を心配している。それは正しい反応だ。
だが、かほりの行動の真意はそこにはない。
ネットの友達に会うというリスクを冒してまで、彼女が本当に会いたかったのは誰なのか。そして、なぜ「今」だったのか。

「今回はたまたま相手の人が悪い人じゃなかったみたいだから、良かったですが」と隆志。

「本当、無事で良かったです」
私は、隆志の心配に同意を示しつつ、しかしやはりもう一度話を戻す。
「でも、今のかほりちゃんの話だと、その友達に会いに行ったって言うよりは、お祖母ちゃんに会いに行った感じなのかなって聞こえたんだけど」
「それもあります」とかほり。
「そうだったんだね。お祖母ちゃんに会いたくなったんだね」
「それなら何も勝手に行かなくても」
そこでまた隆志が割って入る。
「......」
目を伏せて答えないかほりに私は声をかけた。
「かほりちゃん、ここは何を言ってもいい場所だよ」
するとチラリととも子の顔を見たかほりが呟くような声で言う。
「......駄目って言われると思ったから」
駄目と言われるのが、ネットの友達に会うことなのか、祖母に会うことなのかはかほりは明確にしない......が、それに隆志も言葉を返せないらしい。
場が短い沈黙を迎えた。
会話が途切れると外の雨音が聞こえてくる。やや激しくなってきているのか......。

とも子の母

場が膠着する前に私から口を開いた。
「それで、お祖母ちゃんが、連絡をくれて、その日は泊めてもらったのかな?」
「そうですね。次の日に僕が迎えに行きました。本当は怒鳴りつけたい気持ちもありましたが、かほりの気持ちもあると思って、その場では抑えました」
「とも子さんのご実家ですが、隆志さんが迎えに行ったんですね」
「私は日曜日も仕事だったから。それで、この人に迎えをお願いしたんです」
とも子が答えた。

まぁ、筋は通っている。
しかし実家への帰省が毎年盆と正月というのでもなく、かと言って、完全に行かないわけでもなく、数年に一回という頻度がとも子とその母親との微妙な距離感を表しているように感じる。
「隆志さん、とも子さんいなくても、お祖母ちゃんに会うのは全然平気なんですか?」
「僕もそんなの初めてでしたよ。今までもそんなに何回も会ったこともなかったですからね。なんならちゃんと話したのは今回が初めてかもしれません」
「あ、お話されたんですね」
「昼前に迎えに行って、そのまま帰るわけにもいかないじゃないですか。お礼して、近所のファミレスに3人で行って食事して帰ってきました」
「お祖母ちゃん、どんな様子でしたか?」
「老人の一人暮らしですから、寂しいんですかね。ずっと話してました」
「どんな話?」
「その面子だと、共通の話題がとも子しかないじゃないですか。義母が、ずっととも子の子どものころを話をしてて、僕とかほりはずっと聞いているばっかりでしたよ。小学校で学級委員してた話とかしてましたね」

以前、とも子が傷つけられた話として語られた学級委員......。
とも子は硬い表情で黙っている。

私はかほりに話を振った。
「おばあちゃんに会ったの久しぶりでしょ?どうだった?」
「お祖母ちゃんの家に行ったのは、写真があったのを思い出して、見たくなったんです」
「ん?写真?」
「はい。前に行ったときに飾ってあったなって思って」
「どんな写真なんですか?」
「お父さんとお母さんの結婚式の写真です」
「あ~、前に行ったときに飾ってあったな。リビングの棚のところにあったヤツか」
と隆志。
「それでお祖母ちゃんの家に行ったんだ。それで、お目当ての写真はあった?」
「はい。前と同じところにありました。結婚式って普通ウェディングドレス着るじゃないですか。でも、飾ってある写真、お母さん赤いドレス着てるんです」
「それは、お色直しの後の奴だよ。最初は白いドレスを着てたんだよ」
「でも、お祖母ちゃんに、なんでこれ飾ってるの?って聞いたら、お祖母ちゃん、こっちが好きだったからって。ウェディングドレスは白すぎるんだって。お祖母ちゃん、変わってますよね」
「ちなみにあのとき、実はもうかほりはお母さんのお腹にいたんだぞ。お腹大きくなる前にって、急いで準備して、式挙げたんだ」
「私は別にそんな立派な式なんて挙げなくてもいいって言ってたんだけど」
「何言ってるんだ。ちゃんと式を挙げて、お世話になった家族や周りの人に結婚の報告をしないと失礼だろう」
隆志ととも子がそれぞれに話す。

それに割って入るようにかほりは話を続けた。
「他にもお祖母ちゃんと色々話したんだよ。お祖母ちゃん、お母さんのこと一人で育てたのに、結婚したら、なしのつぶてだって言ってた。後、お祖父ちゃんが どんな人だったのかも聞いたよ。お祖父ちゃん、暴力ふるう人だったんだって。だから、お祖父ちゃんからお母さんを守るために、お祖母ちゃんお祖父ちゃんと別れて、一人でお母さんを育てたんだって」

「ですます」調で話していたかほりの語り口が、いつの間にか変わっている。
今、かほりが話し掛けている相手は私ではない。

「お祖母ちゃん言ってた。お母さんに辛い思いさせたって。でも、お祖母ちゃんも毎日必死だったんだって」

「やめて!」
急にとも子が言った。
見ると、口元が震えているのが分かる。
「今更そんな話しないで。私が辛かった時、何もしてくれなかったくせに!本当に寂しかった時、全くかまってくれなかったくせに!」

場が凍り付いたような沈黙が訪れた。
相変わらず外からは雨音が聞こえてくる。先ほどよりも更に激しさを増しているように聞こえる。
その音に後押しされてか、とも子の悔しさがダイレクトに私の胸に流れ込んでくるような感覚を覚えた。それは多分そこにいた隆志にも、そしてかほりにも伝わっただろう。

相談室内の電気は十分な明かりを灯しているが、それでも室内が暗く感じる。

「パキッ」
薪ストーブの中で薪が爆ぜる音がした。

私は落ち着いた口調で言う。
「とも子さん、隆志さんとかほりちゃんと三角形になって座りましょう。三角形になったら、三人で手をつないでください」

私の促しにしたがって、3人が三角形の形に座った。
私はその横に立って、まずゆっくりと呼吸から促す。
「皆さん、ゆっくり呼吸していきましょう。深く息を吸って......吐いて」10秒呼吸を促しつつ、私もそれに同調する。

「ゆっくりした呼吸と共に、心を落ち着かせながら、聞こえてくる音に耳を澄ませましょう」

聴覚で拾える音は、壁越しに外から聞こえてくる雨音、薪の爆ぜる音、後は極小音量で流れるヒーリングミュージックくらいか。

それらをじっくり味わってもらった後に私は続けた。
「今、三人の手と手がつながっています。お互いの呼吸を感じていきましょう。手の暖かさを感じていきましょう。血液の流れをイメージしていきましょう。そうしている内に、つないだ手から愛情、やさしさが互いに流れていくのを感じていきましょう」

しばらくその状態を感じてもらった後、私は落ち着いた声で言った。

「とも子さん。お母さんへの思い......話してくれますか」

あなたたちと、生きたい

しばしの間をおいたが、私の促しに応えて、とも子がゆっくりとした口調で話し出した。
「母のことで思い出すのは......、前にもここで話した『あんたにできるわけがない』って言葉。昼も夜も仕事ばかりしていて、家に帰ってきたかと思えば飲みに出かけて。私が何か話しかけても否定的な言葉ばっかり返ってきた。『今忙しいの』『あっち行ってて』『あんたは黙ってなさい』」

一時の落ち着きを取り戻していたとも子の声が、再び震えを帯びる。

「実は、私も中学のとき、かほりと同じように学校に行くのが辛かった。学校に行ったら、机に悪口書かれて、ノート破かれてて、上靴隠されて。そんな私を見て、周りの子たちはニヤニヤ笑ってる。最初は、先生に言った。何とかしてくれると思ったから。でも、何もしてもらえなかった。それどころか、『いじめられる自分の問題も考えろ』って言われた。でもどんなに考えても分からなかった。学校が嫌で、何度も休みたいって言った。でも、休ませてもらえなかった。どんなに辛くても、吐きそうなくらい気持ち悪くても、無理やり学校に行かされた。最初は泣き叫んで抵抗した。そうしたら、母が学校の先生を家に呼んで......、無理やり部屋から引きずり出されて、連れて行かれたこともある。どんなに抵抗しても無駄だった」

今から20数年前。
私がスクールカウンセラーとして駆け出しだったころを思い出す。
当時の学校では不登校の子を教師が自宅に上がり込んで無理やり引きずり出すという対応が珍しくなかった。
あの時の学校の対応が当時の不登校生徒たちにどれだけ深い傷を残したのかと考えると胸の奥が締め付けられる。

「だから......母に言ったの。『死にたい』って。『もう無理』って。そしたら......」
とも子は声の震えを大きくして続けた。
「母は台所から包丁を持ってきて......。そして、私の首のところに当てて、『じゃ、私が殺してあげようか。その後に私も死ぬから』って......」

―――!!!
私の中で以前かほりからも隆志からも聞いた場面が呼び起される。
あれは、とも子自身が負ったトラウマの世代をまたいだ再演だったのだ。

「私は怖くて何も言えなかった。すごい......震えてたと思う。そしたら、それを見た母は『死ぬ気もないくせに』って言って、包丁をテーブルの上に投げるように置いた」

――キィーン。
机の上に投げられた包丁の無機質な音が聞こえてくるようだ。

「私は......弱音を吐くことも許されないんだって思った。それで......私は自分は石ころだって言い聞かせることにしたの。石ころだったら、どんなに暴力を受けても、痛くない。暴言を吐かれても何も感じない。そう......、私は何も感じないことで、生き残った。生き残ったけど......、生きているのか死んでるのか分からなくなった。だから、自分の体を傷つけることで、生きていることを確認してた。リストカットして、血が流れるのを見てると、『あ、私、まだ生きてるんだ』って思えた。本当は、私もかほりみたいに、学校に行かないでもいいよって言ってもらいたかった。『辛いの?』って、ただ聞いてほしかった。でも、私の気持ちなんて、誰も聞いてくれなかった」

とも子の顔面が蒼白状態になっている。呼吸もかなり乱れている様子だ。

「とも子さん、今とも子さんの右手にはかほりちゃん、左手には隆志さんが手を握ってくれています。二人の手の温かさを感じましょう」
私はできるだけ落ち着いた声でゆっくりとそう伝えた。

隆志もかほりも真剣な表情でとも子の話を聞き、その手を握りしめている。

「かほりちゃん、隆志さん。2人を苦しめてきた場面、『かほりと一緒に死ぬ!』と言われたあの場面の元凶が今明らかになりました」

かほりと隆志があの場面について、それぞれに打ち明けたことをとも子は知らない。だが、分かるはずだ。

「お二人にしてもらいたいのは、そんなとも子さんを恐れたり、責めたりすることじゃありません。癒すことです。今、とも子さんに全身全霊を込めて癒しのエネルギーを送りましょう。今のお二人ならできるはずです」
私は言葉に力を込めた。
「隆志さんとかほりちゃんが、とも子さんを助けるんです」

次にとも子に向けて言う。
「イメージしてください。かほりちゃんと隆志さんから送られてくる愛情のエネルギー。とっても優しい気持ち。それがとも子さんの中に流れ込んできて、石ころになったとも子さんの心を照らしていきます。温かい光で包み込みます」

私の言葉が途切れるタイミングを待っていたかは分からない。
かほりが自然と言った。
「お母さん、大好き」

とも子の目から一筋の涙がこぼれて頬をつたう。
「本当にそう思ってくれるの?私、かほりを殺したいって言っちゃったよ」

かほりも目を潤ませて、もう一度繰り返した。

「お母さん、大好き」

それに呼応するように隆志も口を開く。
しかしその声はいつものような平坦なものではなく、わずかに震えていた。
「僕が...言わせたんだ」
隆志が、とも子の手を握りしめていたその手に力を込めたのが分かった。
「とも子...君が死にたいって言ったとき、僕はとても酷いことを言ってしまった。君がこんなにボロボロになって生きてきたのに...。僕は、何も見えてなかった。自分の理想の家族を、君に押し付けてただけだったんだ」

言葉を探すように、隆志は一度うつむき、そして再びとも子を真っ直ぐに見つめた。

「この前、かほりがいなくなって……二人で死に物狂いで探したとき、僕は生きた心地がしなかった。でも……その時、隣で顔を青くして震えている君を見て、思ったんだ。もし、かほりだけじゃなく、君までいなくなってしまったら……僕は、どうやって生きていけばいいのかって」
隆志は一呼吸置いたかと思うと、さらに声を震わせて言った。
「どうか、許してほしい。……かほりの母親は君だ。そして……僕の妻も、君しかいない。この家族には……君が必要なんだ」」

涙で顔を濡らしたまま、とも子は隆志の方を見た。
「初めて......私を見てくれたね。私、かほりが赤ちゃんのとき、かほりと一緒に死にたいって思った......本当にごめんなさい。こんなに大事な家族なのに。今は......あなたたちと、生きたい」

乱れた呼吸の合間にこぼれた言葉が、部屋全体を静かに包んでいった。

それを見て私から、かほりに話しかける。
「かほりちゃん、大好きなお父さんとお母さんにこの前かほりちゃんが描いた絵を見せてあげてもいい?」
私の方を向いたかほりが頷くのを確認し、私は、資料の棚から、その絵を取り出した。
赤いドレスを着て手を広げた女性と、それをタキシードを身にまとってエスコートする男性。
「これ......確かに僕らの結婚式の時の写真の絵だ」
隆志は鼻をすすりながら、そして、とも子は頬を濡らしながら微笑んだ。

――パキ、パキッ。
薪ストーブの中で、木が静かに弾ける音がした。

やがて面談が終わり、三人を玄関まで見送る。
外は、滝のような大雨になっていた。
外への扉を開けた瞬間、耳に飛び込んできた大粒の雨音と共に、冬の到来を感じさせる冷気が玄関の中になだれ込んできて、私たちを急に現実に引き戻す。

玄関から車まではものの数秒の距離ということもあり、入ってくるときには傘を持ってこなかったらしい。
「すごい土砂降りになっちゃいましたね」
私が言うと、
「車までダッシュだ!」
隆志が掛け声と共に走り出す。
それに続いて、とも子もかほりも大急ぎで車に乗り込んでいった。

「絶対濡れたよな」

颯爽と駐車場を出て行く黒いワンボックスを見届けた後、私は静かに玄関の扉を閉めた。その瞬間、雨音がふっと遠のく。
まるで外界との境界を確かめるように、相談室の中は、再び静かな非日常の静寂を取り戻した。

つい今しがたまで、3人が三角形になって座っていた椅子を元の位置に戻しながら、私は感慨深く思い出していた。
初めてとも子に連れられて、かほりが私のもとを訪れたのが昨年の11月4日。1年の関りを経て、家族が大きく動き出した。もちろん長年抱えてきた夫婦の問題が全て解決したわけではない。これからもかほりは辛い経験をするだろう。でも、内在化された両親がしっかり土台になって支えてくれる。もう大丈夫だろう。

私は終わったばかりのケース記録を書くために、パソコンの起動ボタンを押した。

鋳物で作られた薪ストーブの火はもうほとんど落ちてしまっていたが、それでも尚、ほんのりとした暖かさを相談室に伝えていた。

エピローグ①

20XX+4年11月
どんなに経験を積んでも初回のカウンセリングはやはり少なからず緊張がある。客を迎えるのに恥ずかしくない程度に相談室の掃除をし、クライアントに出す茶菓子の準備を済ませた後、自分用のコーヒーを淹れる。約束の時間まではまだ30分程度ある。手持ち無沙汰で落ち着かない気持ちを大好きなコーヒーの香りでリラックスさせつつ、私は今から会うクライアントの情報を再確認すべく、パソコンを起動させた。

パソコンの横のコルクボードには最近私のお気に入りの一枚の絵ハガキがクリップで留めてある。その絵ハガキは重いケースを終えて疲れ切ったときに私の精神を癒してくれる。
絵ハガキに描かれているのは、赤いドレスをまとった女性とタキシードを着た男性が寄り添って立っており、その二人に満面の笑みで花束を渡す小さな女の子。
ときおり、絵ハガキを裏返しては文面を読み返す。
それを読むと更に私はパワーをもらえる感じがする。
「よ~し!新しいケースも頑張りますか!」

「榊さん。その節は大変お世話になりました。私は今高校3年生です。高校では美術部に入りました。先日の展覧会の絵を絵ハガキにしたので見てください。中学はあんまり学校に行けなかったから勉強が大変ですが、美大進学に向けて猛勉強している受験生です(笑) 坂部かほり」

エピローグ②

「アハハ!」

周囲から楽しげな笑い声が聞こえていた。
あれは自分に向けられた嘲笑だったのか、それともオレなんか最初から存在しないかのような無関心だったのか

まぁ、今更どっちだっていい。
一つだけ確かなのは、あそこがオレのいていい場所ではなかったということだ。

今までオレに投げられた様々な言葉がそれを確信させる。
脳内で反響するそれらの言葉は、もはや悪口ではなく、オレに下された「判決」だ。

そしてその判決に従うことがこの世界の正しい秩序なんだ。

痛みを感じる資格さえない。救いを求める権利さえない。

「……ア、アァ……」

自分があそこに存在してしまっていたという「間違い」が正された。
ただそれだけのことだ。

ささくれを剥きすぎて爪の間から、じわりと血が滲んだ指先。その指の持ち主は、折りたたまれた一枚の紙を広げて、じっと見つめる。
何度も開いては折ってを繰り返し、ボロボロになった紙。そこには印刷がかすれて読みにくいながらも、『山の香りカウンセリングサービス』の文字はしっかりと残っていた。