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『こころ日誌・リライト』①

『こころ日誌・リライト』①

『こころ日誌』

プロローグ

「痛い......痛いよぉ」
自分の体にナイフが刺さっているのを見た女の子は恐怖と苦痛に顔をゆがめる。
「やめて......お願いだからもうやめて」
一生懸命、心底お願いした。それでも、その声は決して届かない。
グサッ。
次に刺さったのは包丁だ。
一瞬で気絶しそうな痛みに、もんどりうつ。
それでも立つことを強制される。抗うことができない圧倒的な暴力に、脳は体から送られてくる信号を受け取ることを拒否し始めた。
グサッ、グサッ。
槍、刀剣。
もう女の子の体は痛みの信号を脳に送っても無駄だと言うことを認識したのだろう。信号を遮断する作業に入ったようだ。
それでも攻撃はやまない。意識は完全に体の痛みを切り離してしまった。
グサッ、グサッ、グサッ......
もう痛みは感じない。体中ボロボロになっていくのに、まるで血の通っていない人形が滅多刺しに遭っているのを無感情に見ているような感覚だ。
既に体の感覚だけではなく、恐怖も感じなくなってしまったのか、いつしか女の子の顔は笑っている。
それは......全てを諦めた笑い。

もはや女の子を生につなぎとめる理由などありはしない。
女の子は願った......

「殺して」

出会い

どんなに経験を積んでも初回のカウンセリングはやはり少なからず緊張がある。客を迎えるのに恥ずかしくない程度に相談室の掃除をし、クライアントに出す茶菓子の準備を済ませた後、自分用のコーヒーを淹れる。約束の時間まではまだ30分程度ある。手持ち無沙汰で落ち着かない気持ちを大好きなコーヒーの香りでリラックスさせつつ、私は今から会うクライアントの情報を再確認すべく、パソコンを起動させた。
立ち上がったデスクトップにたくさん並んでいるアイコンの中から、いくつかある階層を降り、目的のクライアント情報のファイルを探す。

「えっと……。あった。坂部かほり」

ダブルクリックから一瞬遅れて開いたケース情報だが、まだ事前申し込みの段階なので、得られる情報は多くはない。「11月4日(月)13時初回受理面接予約受理済」という項目の後に、住所氏名生年月日等の基本的なプロフィールと、守秘義務やキャンセル料を含めた相談室のルールに関する同意事項、来談経路などが並ぶ。
そんな中で私がひと際注意を向けたのは「中2女子、主訴:娘の不登校について相談したい」という情報。
不登校と言ってもかなりいろんなタイプがある。このクライアントはどんなタイプの不登校だろうか。
今日は母子での来談だよな。
親子関係はどんな具合なんだろう。
誰がカウンセリングって言い出したんだろう。

想像をめぐらしている内に、約束の時間が近づいてきた。
「おっと、もう時間になっちゃうな」
私は一旦パソコンを落とした。
相談室奥にあるキッチンに行き、いつの間にかぬるくなってしまった飲みかけのコーヒーを流しに捨て、カップを水で簡単に洗う。それから相談室に戻り、記録用のA4の用紙とそれを挟むクリップボードを引出しから取り出し、ボールペンと一緒に机の上に置く。
「よし、準備完了」
そう思ったところでインターホンが鳴る音が聞こえた。
―――――――――――――――――――――――――――――――

20XX年11月4日  かほり、母親 #1
「は~い」
私はインターホンの応対ボタンを押し、できるだけ朗らかに返事をする。間を置かずに、少しハスキーに「1時に予約の坂部です」という女性の声がスピーカーを通して聞こえてきた。
「どうぞ、お入りください」
意識して優しげな口調で伝え、私自身もクライアントを出迎えるために相談室の扉を開け、玄関に向かった。するとすぐに玄関の向こうに人の気配を感じる。
「カランカラ~ン」
ドアベルの音とともに玄関の扉が開いた。
「こんにちは」
先ほどのハスキーな声とともに二人の女性が入ってきた。
一人は中肉中背の中年女性。40前後だろうか。余り詳しくない私には分からないのだが、けばさは感じさせずナチュラルな化粧なのだと思わせる。目鼻立ちの整ったキャリアウーマン的な印象を受けた。
そしてその女性の後に隠れるように入ってきたのがかほりだ。身長は母親と同じくらい。白いトレーナーにデニムといった部屋着ともとれそうなダボっとした上下の服装だが、印象としてはやや細目に見える。背中までありそうな髪の毛は後ろで一つにまとめられている。大きめのマスクで顔の下半分がおおわれているため、彼女の表情を判断する材料は目しか与えられていない。そしてその目も伏目がちである。
「簡単に最初から心を開いてつながれるケースではなさそうだな」
それが私が抱いた最初のかほりに対する印象だった。

二人を相談室に招き入れると、中央にある木製のテーブルの前に誘導する。
「初めまして。カウンセラーの榊です。今日はようこそおいでくださいました。どうぞこちらにお座りください」
私の誘導に対して、母親は「失礼します」と言って、椅子に座るが、かほりはその横で固まっている。
「ほら、ちゃんと座りなさい」
急かす母親に促されて、やっと座るが、その動きもぎこちなさを感じる。
緊張をほぐす意図もあり、
「今、お茶をお出ししますね。ちょっとお待ちください」
と声掛けし、奥のキッチンに移動した。
グラスに注がれたウーロン茶と近所のスーパーで買ってきた個包装のクッキーを一袋ずつ皿に乗せ、それらをお盆に乗せて二人の前に差し出した。
母親は丁寧に「ありがとうございます」と言い、その隣でかほりは無言で座っている。決して私に目を合わせることはない。

お盆を下げると、私も対面に座り改めて挨拶をした。
「今日は当『山の香りカウンセリングサービス』にお越しくださりありがとうございます。ようこそおいでくださいました。まずは相談を申し込まれた勇気と行動力に何よりの敬意をお伝えします」
ここに来るまで、何度もためらい、決心が必要だったはずだ。だからこそ、私は初回のクライアントには必ずこの言葉を心を込めて伝えるようにしている。
そんな私の声掛けに対し、母親は作り笑いで私の声掛けに応じるが、かほりは無反応であった。

「申し込みフォームのご記入ありがとうございました。かほりちゃんの不登校について相談したいということでしたが」と促すと、それに応えて母親が話し始めた。

「今この子が学校に行けてないんです。何か嫌なことがあるんだと思うんですけど、聞いても答えてくれなくて。もともと小学校の頃も緊張が強い子で、友達も上手に作れないんです。今回も友達関係で何かあったんじゃないかと思うんですが、言わないんですよね。そういうところ頑固なんです」
説明口調の中にも困っている感じが受け取れる。

「そうなんですね。教えていただいてありがとうございます」
そう言って、私はかほりの方に顔を向けた。

「お母さん、こう言ってるけど、かほりちゃんは何か困っていることがあるの?」
しかし、私の問いかけに対して、かほりは無反応だ。

一瞬の間をおいて母親がまた話し出す。
「いつもこうなんですよ。学校のこと以外なら話せるんですけどね。学校に関係することになると途端に固まっちゃって何も話してくれません」
困り感だけではなく、どことなく苛立ちを含む言葉の響き。

「そうなんですね。ごめんね。初対面のおじさんにいきなりこんな風に聞かれて、なんて答えていいか分からないよね。緊張してるかな」
そう言って、かほりを見つめるも、やはり反応は読み取れない。

「じゃ、今日はかほりちゃんは無理して話さないでいいから、ちょっと緊張をほぐす練習から始めていきましょう」
私はそう言うと、椅子を移動させて、机を挟まないでかほりと対面できる位置に座った。
「今からね、僕とかほりちゃんの波長を合わせる運動をしていきたいんだ。僕は今から息を吸うときに手を上げます。そして吐くときに下げます。そうすると僕の呼吸が今吸ってるのか吐いてるのか目で見て分かるでしょ?ちょっと僕の呼吸に合わせてかほりちゃんも呼吸してみてほしいの」と誘いかける。

かほりは言葉では答えないが、私はかほりに見えるように手を上下させながら呼吸を始めた。
(1、2、3、4。)
心の中で数字を数えながら吸う。
(5。)
一拍止めて、
(6、7、8、9、10。)
また数えながら吐く。

リラックスを促す呼吸の基本である10秒呼吸法。
更にそれに自分の心拍も意識しながら呼吸を主導する。
かほりはしばらく固まっていたが、やがておどおどしながらも、膝の上で本当に小さく手を上下させ始めた。
―――おっ。
ようやく反応があったことに、私は内心の安堵を隠し、静かに声をかける。
「上手上手。その調子です」
「できるだけ胸式呼吸を意識してね」
「苦しくないですか?」

しばらくして、「では今度はかほりちゃんが、呼吸を主導してくれますか?僕がかほりちゃんのペースに合わせるから」とお願いしてみる。
すると言われたようにかほりは手を小さめに上下させながら呼吸をする。先ほどの10秒呼吸に比べるといささか早いペースだが、かほりなりにゆっくり呼吸するように努めているように感じられた。
そして更にその後、「じゃ、今度はまた僕のペースで呼吸してくれるかな」と言って役割を交代する。これを交互に続けながら、呼吸に表れるかほりの緊張やその他の感情に思いを馳せる。そして、私の呼吸からリラックスを伝えていく。
私は全神経をかほりの一挙手一投足に集中し、かほりが非言語で伝えるメッセージを感じることに務めた。
「かほりちゃんの呼吸からかほりちゃんの気持ちが伝わってきます。とっても頑張ってくれてるね」
かほりには私の声掛けにピンと来ないかもしれないが、同じ動作を続けている。
かほりの自律神経と共鳴しますように...

ふと時計を見ると既に30分ほどが経過していた。
本当はかほりとの関係を深めるため、時間いっぱい続けたいところだが、それだけで初回を終わるわけにはいかない。なので、面接時間の半分のところで、一旦この作業をストップした。

続・出会い

私はもう一度母親の方に向き直り、質問した。
「不登校はいつからなんですか?」

「1ヶ月前くらいからです。10月の中ごろに運動会があったんですけど、その練習のときですから…10月5日でしたね。運動会って皆で整列するじゃないですか。その最中にこの子倒れちゃったんです。まだその時期って全然暑いじゃないですか。熱中症みたいな感じになって、保健室に連れていかれて。それで、そのとき私の職場に電話かかってきて、倒れたから迎えに来てくださいって。当然行きますよね。上司には事情を説明してすぐに学校に行きました」

私が相槌を挟む間もなく母親の語りは続く。

「それでその日は連れて帰ったんですが、帰ってからは家で普通に過ごしてたんです。だから一日休めば次の日行けるかなって思ってたんですが、次の日朝起きられなくて。いつもは声掛けすると起きてくるんですけど、その日は何度呼んでも起きてこないんです。それで、私も仕事行かないといけないので怒っちゃったんです。もういい加減に起きなさい!って。でも、この子全然ベッドから出てこなくて。無理やり起こそうとしたんですけど、布団にくるまって出てこないんですね。私としてもどうしていいか分からなくて。仕事も行かないといけないし、前の日も早退して次の日も遅刻っていうわけにいかなくて。それで、取り敢えず出かけないといけない時間になっちゃったから学校には『まだ調子悪いみたいですから休みます』ってメールして、私はこの子をおいて出かけたんです。それからですね。もうずっと行っていません」

私は言葉で相槌を伝えるよりも頷きで傾聴している姿勢を伝える。
すると母親は更に続けた。

「行けなくなってすぐに先生に紹介されて、学校のカウンセラーさんにも相談したんですけど、今は休憩が必要だから見守りましょうって言われて。でも家ではのんびり絵を描いてたりゲームをしてたりして過ごしてるんですよ。こんなんでいいんですか?」
ほぼノンストップで話し続けたので、少し疲れたのだろうか。母親は私が先ほど用意したウーロン茶に口を付けた。
母親の困り感や焦り、苛立ちがよく伝わって来る。
一方、その隣で無表情のままこの話を聞いているかほりは...。

「今日お会いした感じだと、かほりちゃんはとても緊張が強い子のように見えます。多分学校でもいつも緊張して過ごしていたのかもしれないですね。そうするととっても疲れます。だから、体がもう無理って思っちゃったのかもしれないですね」

母親は頷いているがどの程度納得してくれているんだろうか。

「スクールカウンセラーさんが言うように、休憩は大切です。その上で、かほりちゃんに今必要なのは社交場面で緊張しなくなる練習と、周りの人に対する恐怖心を克服することのように思えます。さっきした呼吸を合わせる練習もその一つです。そういう練習をこれからここでしていくというのはどうでしょうか」と誘いかける。

「是非お願いします」
母親は即座に反応した。
とても期待されているようで、それだけ焦っている様子が伝わってくる。
更に、
「いいね」
とかほりにも問いかける。
その圧に押されてか、かほりは無反応なようにも、若干首が縦にうなずいたようにも見えた。

こうしてかほりとその母親との初回の面接は終わり、次回2週間後に予約を取って帰って行った。

記録

二人を相談室の外に見送り、相談机の上に残されたウーロン茶とクッキーを片付けると、私はすぐにパソコンのスイッチを押した。
「忘れないうちに記録しとかないとな」

かほりが緊張が強く話せなかったこと。その緊張をほぐすべく呼吸の練習をしたこと。最後に母親が話した内容を簡単にまとめる。
その下には心理学的な理解であるアセスメント、今後の方針を書き込む欄がある。

アセスメント:
・表面的には本人のことを心配しているようで、かほりの気持ちに寄り添おうとせず、自己の都合を優先したい母親。

・かほりの不登校も本人の困り感に思いをはせるというよりは、面倒なことが起こったから早く解決したいという思いが滲み出る。

・このような母親との関係の中で十分な愛着が形成されなかったため、かほりは自身に対しても周囲に対しても安心を感じられず、常に過緊張状態で過ごしており、エネルギーは底をついていた。それが今回不登校という形で表面化したものと思われる。

方針:
・かほり本人とは自律神経調整トレーニングを通じてレジリエンス(心の強さのこと)を高める。

・母親との関係がエネルギー供給になるために、母親自身の共感不全も介入のターゲットにする。

・次回並行面接を提案する。

キーボードでこれらを打ち込むと、私は右下にある保存ボタンを押した。

―――――――――――――――――――――――――――――――

こうして私は次回、11月18日の面接まで、当然のように入っている他のケースをこなし、家事や子育てにエネルギーを注ぎつつ過ごした。そんな中でかほりのことは時折頭に浮かべる。
生活の中でどうしているだろうか、
次回ちゃんと来てくれるだろうか。
そんなことを自然と考える。
しかしそれに多くのエネルギーを割くことはない。次第に考えることも多くなくなっていく。

そうこうしていると、あっという間に2週間が経ち、18日の午前中の業務を終え、12時に差し掛かる。
私は昼食用に自分で握ったしそわかめを混ぜたおにぎりを頬張りつつ、前回の記録に目を通す。
呼吸の時のかほりの表情やしぐさ、経過を語る母親の口調。
時間が経って、記憶が薄れていても、記録を見ると、そのときの様子がかなり鮮明に思い出される。
かほりや母親は初回の面接をどのように体験したんだろうか。
かほりの緊張した様子や、母親の私に対する期待している様子は想像しやすい。しかしその裏に隠された、当然あるであろうかほりの「こんなところに来たくない。でも今の状況は何とかしたい」という気持ちや、母親にも「カウンセラーの言うことって、どこまで信用していいんだろうか」という気持ちがあるであろうことにも思いを馳せる。そして、できるだけその気持ちに浸る。
いつの間にか、私の手が持っているのはおにぎりから、コーヒーの入ったカップに変わっている。
一定程度の時間、コーヒーを飲みながら想像を巡らせる。方針を立てたように、かほりには呼吸の練習からヨガを取り入れた自律神経トレーニングを、母親には並行面接を提案しようと今日のセッションの中ですることを確認しつつ時間を待つ。しかし、時間になって、私の目論見は半分崩れることになる。

丸投げ

20XX年11月18日 かほり#2
インターホンが鳴り、前回同様はハスキーな声で、「坂部です。お願いしまーす」と母親が言う。前回より口調が軽めなのは、二回目で、初回に比べて多少なりとも安心感があるからか。私は前回同様「はーい」と優しい口調で返事をし、二人が入室するのを待つ。しかし、相談室のドアが開いて、入ってきたのは私の期待を裏切り、一人だけであった。
「あら?お母さんは?」
と聞くも、かほりはおどおどとして黙っている。
マスクをしていて口元は分からないが、目だけでも十分にかほりが困っている様子が伝わってくる。
―――なるほど。
私は、インターホン越しの母親の軽かった口調の意味を理解した。
母親はかほりだけ置いて行ってしまったのだ。
面接の約束は60分。時間になったら迎えに来るつもりなのだろう。
かほりをカウンセラーのところに通わせれば、不登校を治してくれることという期待。そして自分自身に対しては問題に触れられたくないという拒否の姿勢。

「そっか。今日は一人なんだね。入ってくるの勇気いったでしょ。ありがとうね」と声をかける。かほりに椅子に座るよう促し、「ちょっと待ってね」と言って、キッチンから用意していたウーロン茶とクッキーをお盆に乗せて運んでくる。
「良かったらどうぞ」と机の上にそれらを置き、私も椅子に座る。かほりは出した茶菓子に手を付ける様子はない。緊張の強いクライアントでも特にマスクを着けている場合、それを外して、人前で食べるという行動は相当にハードルが高いことは分かっている。それでもこれらを出すのは私の歓迎の意を伝えるためだ。
「前回ここでしたこと、覚えてますか?」と聞くと、かほりは小さく首を縦に動かす。
「よかったです。ちょっとだけあれ、説明させてください。呼吸って緊張とすごく関係があるのね。呼吸を通してかほりちゃんの緊張しやすい体質を改善できると思うの。そこから今日は更に別のワークもしていって、かほりちゃんがメンタル増し増しになれるようにトレーニングしていきたいなって思ってます。心の筋トレみたいなものだと思ってください。一回ですぐに効果が出るわけじゃないけど、続けていけば必ず強くなっていくからね」
私の説明に対してかほりは積極的に答えるわけではないが、前回の最後にも見せたようにかすかに頭を縦に動かして意思を伝えてくれる。
今回も手を上下させながら、まずは私が呼吸を主導する。10秒呼吸法だ。しばらくして、今度は役割を交代し、かほりの呼吸に合わせて私も呼吸する。かほりは前回よりもスムーズに手を動かせていて、少しリラックスしているように見えた。
「いい感じです。大分呼吸に意識が行ってる感覚に慣れてきたかな」と声をかける。実際、かほりは一生懸命呼吸に取り組んでくれているのが分かる。

素直でまじめな子だな。
そう思うと同時に、それ故に普段の生活で苦しんでいるのだろうことを切なく思う。

「それではちょっと手の上げ下げを止めます。今からかほりちゃん、スリッパを脱いで、靴下で絨毯の上に足を置いてもらっていいかな」
と聞き、私もスリッパを脱いで、足を絨毯に置いた。かほりはそれを見て、同じようにスリッパを脱ぐ。
「そうしたら、足の裏に意識を向けてみてください。足の裏は冷たいかな?あったかいかな?」
と問いかける。
この質問はかほりの返事を期待してしたものではない。ただ、そう問いかけることで足の裏の感覚にかほりの意識を向けさせることが目的だった。しかし、私の意に反してかほりは「ひんやりします」と小さな声で答えてくれた。
―――おっ!
少し驚いた表情はかほりに伝わっただろうか。
と言うのもそれは私が初めて聞いたかほりの声だったからだ。母親のハスキーな声とは少し違う、どちらかと言うと高めの印象を受ける声だ。

「教えてくれてありがとう。そしたら、そのひんやりする感覚、ちょっとよく味わってみてください」
リラックスを促すために、私はそれまでよりも少し低めの声で、ゆっくりとしたスピードで言う。
「足の裏が床に触れている感覚、床が足の裏に触れている感覚を感じていきましょう」
「ゆったりとした呼吸をしながら、足が地面にちゃんとくっついているなぁって感覚を味わってください」
しばらくその姿勢のまま二人の間に沈黙が流れる。私も自分の心拍リズムを意識し、リラックスをかほりに伝えるべく、ゆったりと呼吸する。
「ひんやりした感じは変わりないですか?」
と聞くと相変わらず小さな声ではあるが、
「はい」
と返事をしてくれる。
「いいですね、いいですね。それでは次にあなたの体にかかっている重力を感じていきましょう。今座っている椅子の座面がお尻を支えている、背もたれが背中を支えている感覚もよっく味わっていきましょう。少しお尻が痛い感覚があるかもしません。重力がかほりちゃんを引っ張っている証拠です。よぉく感じていきましょう」
「重力を感じていると、もしかしたら今の姿勢を維持するために、背中の筋肉、首の筋肉、肩の筋肉、お腹の筋肉に力が入っているのに気づくかもしれません。それらもよく感じてください」
このようにして普段は気に留めない体の感覚に意識を向けていく。
「今まで気づかなかった体の声に耳を澄ませましょう」
ゆっくりと時間をかけながら、かほりの体に対する感覚を研ぎ澄ましていく。
「ゆったりと呼吸をしながら、息を吸うときに胸が膨らんで、吐くときにしぼむのも感じていきましょう」
十分に体が落ち着いた後、私は更に声のトーンを落とし、慎重な口調で聞いてみた。
「あの、もしよかったら聞かせてほしんだけど、かほりちゃんは今どんなことが一番心配なのかな?」
するとかほりは少し間を置いた後、
「みんなが怖い」
と言葉にしてくれた。
それは、一生懸命に絞り出すような声。
小さな声ではあったがハッキリと自分の言葉で伝えてくれた主訴。
かほりのつかえていた喉が一瞬でも通った瞬間のように感じた。
「よく気持ちを聞かせてくれたね。勇気を出して教えてくれてありがとう」
私は心をこめて労った。
「かほりちゃん、周りの人が怖いなって気持ちになっちゃうんだね。そんな中で今まで頑張ってきたんだね。とっても偉いね。かほりちゃん、その怖い気持ち、ちゃんと克服できるから大丈夫だよ。かほりちゃん、僕から見ると前回よりもとっても勇敢になってるもん。ここで僕とのカウンセリングを続けていけば、もっともっと勇敢になれると思うんだ」
かほりは私の言葉に積極的な反応を示すことはなかったが、私は、かほりの目元が最初に比べて幾分和らいでいるのを感じた。

やがてインターホンが鳴る。母親が迎えに来たのだ。
私はインターホンで返事をして母親を招き入れる。母親は入って来るやかほりに
「どうだった?」
と語り掛ける。
その口調はかほりに「連れてきてあげてるんだからちゃんと成果を出しなさいよ」と言っているかのようだ。
私との関係で和らいできたかほりの目元の感じが、また、こわばった無表情な様子に戻っているのを見るとやるせない気持ちになる。
それでも、「今日は前回に引き続きかほりちゃんと仲良くなるためのワークをしました。とっても頑張ってくれましたよ」と伝えるに留めた。
「頑張れたなら良かったです」
母親は、自分は送迎に徹するという素振りで、私との関係を固定化させようとしているように見えた。

二人を送り出した後、出しっぱなしになっていた手を付けられていないウーロン茶とクッキーを片付ける。ウーロン茶は流しに廃棄しグラスを洗う。個包装のクッキーはキッチンの棚にあるお菓子ケースに一旦は戻す。しかし記録を書く前にコーヒーメーカーのポットからコーヒーをカップに注ぐと、私は誘惑に負け、結局今しまったばかりのクッキーを取り出し、包みを破る。そしてクッキーをひとかじりするとパソコンをスリープ状態から起こし、いつものように記録を書き始めた。

要約
呼吸合わせと、グラウンディングをした。かほりが声を出してくれ、他者に対する恐怖心を伝えてくれた。
アセスメント
・かほりの緊張は相変わらず強いが、それでも関りを通じて徐々に心を開きつつある。
・社交場面での緊張や恐怖心が強く、その背景には自己否定感がありそう。
・母親は自分の問題には触れてほしくない。不登校はカウンセリングで治してもらうという考え
方針
・かほり本人とは引き続き自律神経調整トレーニングを行い、レジリエンスを高めるとともに、少しずつ気持ちを引き出していく。
・母親については今後の様子次第だが、取り敢えず静観する。

少しずつ…。

かほりとの面接はその後も隔週ペースで進められ、やがて年末が過ぎ、新年を迎えた。
二人の共有する時間が増えるにつれ、かほりは積極的とは言わないまでも、私との関係において少しずつ言葉を使ったやり取りも増えてきた。

「クリスマスはお祝いするの?」
「......分からないです......去年は......ケーキを食べました」
「そうなんだねぇ。どんなケーキを食べたの?」
「普通の......ショートケーキです」
「おいしかった?」
「......はい」

「冬休みは家族でどこか行ったりするの?」
「......分からないです」
「里帰りとかは?」
「......お祖母ちゃんの家に行きます」
「そうなんだねぇ。お祖母ちゃん、どこに住んでるの?」
「......車で20分くらいのところです」
「そんなに遠くないんだね。じゃ、よく行くのかな?」
「......ときどきです」
「楽しみ?」
「......」

もちろん呼吸の練習やグラウンディングを入れながらの会話であるが、かほりは本当にゆっくり話す。本当に一言一言を頑張って絞り出してくれているみたいだ。

そんなかほりの頑張りに応えるには...、やっぱりお互いの信頼関係、いわゆるラポールをしっかり形成することだ。
難しい話じゃない。
かほりと仲良くなればいい。
いや、嘘だ。
やっぱり難しい。
かほりが私の質問に答えるのは、私に尋問されているような感覚になってはいないか?
そんなで仲良くなれるわけがない。
でも、かほりから積極的に話してくれないから、いろいろ聞いていくしかない...。
いや、だからそれじゃダメだろう。

そんな葛藤を抱えつつも、かほりとの面接は回数を重ねていった。
そんな中でも希望の持てそうなやり取りとして私の気に留まったものが二つあった。

一つ目は私が、「好きな食べ物はなんですか?」と聞いた時だ。
かほりはしばらく考えるように間を取った。
こちらが「そんなに悩まなくても」と思うくらい考えた後に、やっと出た答え。

「......コーヒー牛乳です」

食べ物を聞かれて、コーヒー牛乳が出てくるとは思わなかった私は少しびっくりしながらも、
「そうなんだねぇ。コーヒー牛乳美味しいよね」と返したが、それ以上会話は膨らまなかった。
しかし何も出てこないよりも、考えた末に、私の期待した答えとすれ違っていたとしても、かほりが快感情を感じるものを出してくれたことは私とのやり取りの中では大きな進歩であった。

そのようなやり取りを経た後の、もう一つのやり取りは私がかほりが何に興味を示すのかを知りたくて聞いた質問だ。

「何をしているときが一番楽しいですか?」
「......絵を描いているとき」
「へ~ どんな絵を描くの?」
「......ゲームのキャラとかです」

そういえば、初回の時に母親が、家で絵を描いたりゲームばかりしていると言っていたな。

ゲームや絵を描くことを楽しむことができるというのは、彼女を回復へと導くリソースになるかもしれない。

そんなカウンセリングが何回か続いた1月の20日のこと。その日はこの地方では年に一回あるかないかの比較的大雪で、テレビでは朝から交通網への影響を警告するニュースを繰り返していた。

『山の香りカウンセリングサービス』では冬の寒い日には薪ストーブで暖を採る。
かほりが来るであろう13時に十分に温まっていることを逆算すると、11時ころには薪をくべて火を入れ始める。パラフィンワックスを使った自作の着火剤の周りに焚き付け用の細かい木切れを重ね、チャッカマンで火をつける。しばらく見入っていると、着火剤の火は周りの木切れに燃え移る。十分に木切れに火が行きわたると、次に先ほどよりは太めの薪を投入する。徐々に太めの薪を投入して火を大きくしていく。
大きすぎる薪では十分に温まり、燃え広がる前に鎮火してしまう。一方小さすぎてもすぐに燃え尽きてしまい、火は上手に育ってくれない。丁度いいタイミングで、丁度いい大きさの薪をくべることが、ポイントになってくる。

―――こんな風にかほりとのラポールも育っていくといいなぁ。

そう。クライアントの心を癒し、育てるのがカウンセリング。

やがて時間になりインターホンが鳴る。

大雪の日に

20XX+1年1月20日 かほり#6
姿を現したかほりは厚手のダウンジャケットを着て頬が赤らんでおり、その髪の毛には少し雪が乗っているのが見える。駐車場から玄関までの数秒の距離、傘を差さずにきて、インターホンを鳴らし、私の返事を待って入ってきてくれたのだろう。
私は心を込めて、
「こんにちは。外、ホント寒いよね。よく来てくれたね」
と挨拶をし、続けて
「こっち来て温まりなよ」
と薪ストーブの前にかほりを誘う。

2時間前に火を入れ始めたストーブは十分に熱を発しており、その上に置いてあるやかんのフタがカタカタと音を立てて震えているのが、中に入ったお湯が沸騰しているのを知らせてくれている。
かほりは着ていたジャケットを脱いで荷物入れに入れ、薪ストーブの前に足を進めた。
椅子を二つ持ってきて、薪ストーブを直角二等辺三角形の頂点と見立てたときに、底辺の両端になるような位置関係に置く。片方の椅子に座るようかほりに促し、私ももう片方の椅子に腰を下ろす。
普段、動きはどちらかと言うと緩慢で、こちらの促しに一呼吸おいてから反応することが多いかほりだが、この時はスムーズに私の勧めに応じ、椅子に座り、ストーブの方に手を差し出した。

―――よっぽど寒かったんだね。

心の中でつぶやきながらかほりの様子をしばらく見守る。
メラメラと目の前で燃える炎を無表情に見つめているが、時折パキッと音を立てて木がはぜる音や、やかんの中でぐつぐつと煮えたぎるお湯の音、そして手を通して伝わっているであろう遠赤外線の熱がかほりの心と体を温めてくれることを期待しつつ、私自身は自分のリラックス呼吸を意識する。

「こういう時は動かない方が良い」

ラピュタに出てくる台詞を思いつつ、私も炎のゆらめきに見入っていた。

二人の間にとても穏やかな時間が流れる。
火に向かって差し出した手がじんわり暖まるのを感じているだろうか。
炉の中では、煌々と光る熾から時折、炎が立ち上がる。
かほりは無表情にその光景を見つめていた。

そんな時間がどれだけ続いただろうか。不意にかほりが「ふー」っと大きめに息を吐いたのが分かった。そしてそれに合わせて、肩が下がった。
―――来た。
かほりの心に薪を投入するタイミングだ。

「ね、かほりちゃん、前に皆が怖いって言ってたけど、どんなところが怖いと思うんですか?」
私はいつもにも増して穏やかな口調を意識して聞いてみた。
急な私の質問に多少なりとも身構えるかと思ったが、かほりは一呼吸置いた後、まるで独り言のようにつぶやいた。
「......見られている気がする。後、裏で悪口言われてたり」

不登校の当事者から見える世界...。
経験した者にしか分からない世界なんだろうなぁ。
そう思いつつ、
「そっかぁ。周りがかほりちゃんを見て、悪口言ってそうに思うんだね。それは怖くなっちゃうの、仕方ないよね」
私はかほりに共感を伝えつつ、思考を巡らせた。

かほりの心がこの恐怖の世界観から解き放たれる手段は...。
それはやさしい両親がかほりの心の中に住み、かほりが必要な時はいつでも、かほりを慰め、励ましてくれることだ。
人は成長する過程で、親の言葉や眼差しを自分の心に深く取り込み、一生の『生きる指針』にする。自分が傷つき倒れそうな時、心の中の親が「大丈夫だよ」と優しく抱きしめてくれるからこそ、人は自分で自分を慰め、再び立ち上がることができるのだ。
つまり、心の中に「健全な両親のイメージ」を根付かせること。それがかほりに自家発電で生きる力を与えてくれる。
逆に言えば、今のかほりの心に住み着いている両親のイメージは、その役割を果たせていない。
自分を慰めるすべを持たないからこそ、今、かほりは恐怖に震えるしかなくなっている。

「ね、今まであまり聞いたことなかったんだけど、かほりちゃんのお父さん、お母さんってどんな人ですか?」

しばらく間がある。しかしそれはいつものように言葉を頑張って絞り出すための間と言うよりは、考えるための時間であったように思う。

「お父さんは......優しい。お母さんはすごく一生懸命私を育ててくれた」

この言葉を聞いて、私は胸がギュッと締め付けられる感覚を覚えた。
かほりの心がここまで飢餓状態になっている事実は、健全な両親が内在化されていれば起きないことだと確信しているからだ。
それでも、かほりは両親を決して悪くは言わない。多分、これは本心から出た言葉なのだろう。子どもは親の愛情を本能的に求めるし、それが得られない場合にも、自分を慰めるために、自分は愛情をもらえていると自分にも他人にも言い聞かせる。だからこそ、とても切なくなるのだ。
優しい父親と一生懸命に育ててくれる母親が彼女に健全に取り込まれなかった背景には何が起こっていたのか......。
そこで私はこう声掛けをする。

「お父さんとお母さんに優しくしてもらってる自分......思い出してみましょう」

マスク越しのかほりの表情は読み取れないが、私は続ける。

「あなたを心から慈しみ、愛してくれるお父さんとお母さん。あなたが寂しい時にはすぐに飛んできてくれて、ぎゅーって抱きしめてくれる」

すると、かほりは目に見える変化が現れた。それまでゆったりとグラウンディングして薪ストーブの温かみに身をゆだねていたのに、手がモジモジし始めて、足元も落ち着かなくなる。
それを見ながら、私は続ける。

「あなたが嬉しい時には一緒になって心から喜んでくれる。優しい顔であなたの目をしっかりと見て、穏やかな口調で、あなたのことが一番大好きって言ってくれますよ」

私の語りを聞きながら、かほりは明らかに狼狽した様子を見せる。
表情も苦しそうに見える。

「できません」
かほりが小さな声で言った。
「想像できないんです」

「ごめんね。動揺させちゃったね。かほりちゃん......今僕が話してる間......何が頭に浮かんで、想像を邪魔したのかな?」

少し間が空いた後、かほりは再び絞り出すように言った。
「......お父さんとお母さんがケンカしてる」
かほりの目が赤くなり、涙を溜めている。
溜まった涙が目から落ちないように......必死に堪えているようにも見える。
しかし、それもかなわず、次の瞬間、言葉とともに一気にあふれ出す。

「お母さんが......私と一緒に死ぬってお父さんに言ってる!」

私は心に刃物を突き刺されたような、どうしようもなく苦しい気持ちになった。
「かほりちゃん......とっても悲しかったね。怖かったね」
私は後ろを振り返りティッシュボックスからティッシュを数枚取るとかほりに渡した。
ティッシュを受け取ったかほりは涙を拭きつつ、気持ちを落ち着かせようと呼吸を整えているようだ。
私も胸が苦しい気持ちを感じながら、必死に自分のリラックス呼吸を意識して、かほりの呼吸を整えるのを手伝った。

少しして「すみません」とかほりが小さく呟く。

「謝らないで。かほりちゃんは何も悪くないし、今日はとっても勇気のいるお話してくれたよね。今日はいつもより念入りに、足の裏をしっかり床につけてグラウンディングしようね」

かほりはハッキリとうなずき、私の指示に従って、体を落ち着かせていった。

板挟み

時間になり母親が迎えに来た。
中に招き入れ、ストーブに当たってもらう。
「今日はこんな天気の中、本当によく連れてきていただきました。運転、大丈夫でしたか?」 カウンセリングの代金を頂いて領収書を渡すやり取りをしながら軽く雑談のつもりで話を振る。

「今日は実は主人に送ってもらったんです。今も、車の中で待ってます」
今まで全く話題に上がっていなかった父親であったが、私がかほりに両親の話を振ったタイミングで登場したことに少し驚きを感じる。

「そうだったんですね。じゃ、1時間二人で車の中でお待ちいただいてたんですか?」
まさか。そんなわけないよな。近所にあるディスカウントストアで時間をつぶしていたのかなと思いながら聞く。

しかし私の予想は裏切られた。
「はい。二人で話し合っていたんです。実は......」
母親の声のトーンが下がる。言いづらいことを伝える合図だ。私も無意識に身構えてしまう。

「主人が、ここに来るのを反対していまして。私はここでこの子が言いたいことを専門の人に聞いてもらって、心が軽くなってくれるといいと思うんですが......。主人は他人を頼るな。私がかほりの話を聞いてやらないのがいけないんだって」

私は動揺する自分をできるだけ出さないように心掛けたが、目が少し泳いだのを自覚した。

―――面接時間が終了してから、こんな重要な話が出てくるなんて。

しっかりと取り合わないといけない話題ではあるが、一方で面接時間は終了しており、この対応に時間をかけすぎると、今後なし崩し的に時間外に私を頼って来られても困る。

だが1時間車の中で父親と話し合って、その上で、敢えてここで私に伝えてきた。それはつまり、私の対応いかんによっては、かほりとのカウンセリングも本当にここで中断になってしまうんじゃないだろうか。せっかくここまでかほりとの関係を築いてきて、いざ本格的な介入が始まったところなのに。

私は迷った挙句、頭がまとまらないままに口を開く。
「そうでしたか。今日はお時間も来ていますが、とても大事な話だと思います。どうでしょう。改めてお母さんと私の面談を設定して、そのことについてお話できればと思うのですが。実は今日はかほりちゃん、とっても頑張ってくれたんです」
この話題をかほりの前で長引かせることで、これ以上かほりに負担をかけたくないという思いと、かほりの頑張りを伝えて母親にカウンセリングの意義を理解してもらいたいという思いが交錯する。しかし、その私の思いはあまり伝わっていなさそうだ。

「それは主人も一緒にですか?」
まとまらないままに話してしまったことを後悔する。話の流れを考えれば当然想定していなければいけない質問だ。さらに、このとき、母親が父親と一緒に面接することを望んでいるのか、そうでないのかも読み取れなかった。

「もちろんお父さんもお越しいただいてもかまいませんし、お母さんだけでもいいですよ」 こうなると出たとこ勝負になってしまう。この時点で私の中に父親へのアプローチはまだ考えていなかった。さらに、初回にかほりへの緊張緩和のトレーニングを提案したら、次からは来なくなった母親だ。次回かほりと同席する提案をしているのか、かほりとは別に母親のみの面談を提案しているのかも伝わっていないかもしれない。冷静に考えれば分かることだが、このとき私にも余裕がない。

母親も少し考えるように間をおいてから答える。
「でも、今日はこういう天気で主人も午前中リモートで仕事していましたので時間が取れたんですが、平日ということになると、夫婦揃ってというのが難しいかもしれないです。一旦主人と話し合っていいですか?」
一旦ということは、今は結論を出さないということだ。そして、この場は幕引きになる。その母親の対応に少しホッとしてしまう自分を感じる。嫌な客にお帰りいただける店員の気持ちそのものだ。

しかしホッとして余裕ができたからこそ、そんな自分を少し客観的に見られるようになる。
―――いけない。目の前の母親はかほりの不登校について、本当に困って、私に援助を求めてきてくれたのだ。しかも今父親にその判断を否定されて板挟みに遭っている。

「そうですね。ちょっと仕切り直しましょうか。お母さん、最初にここに来ていただいたとき、本当に悩みぬいて来ていただいたと思うんです。そのお気持ちに私も誠心誠意お応えしたいと思っています。そのために改めて、ここで私がかほりちゃんと何をしているのか。今後の見通しもお伝えして、お母さんやお父さんにもどう関わっていただくか話し合って行ければと思います」
私は机に常備している卓上カレンダーを手に取って、日にちをペンで指し示す。

「ですから......かほりちゃんはいつも通り、2週間後の2月3日で、お父さんとお母さんについてはまたご連絡いただくということでいかがですか?」
母親もそこはスムーズに
「わかりました。よろしくお願いします」
と返事をくれた。

二人を送り出すとき、今日のセッションや、今の私と母親との会話を、かほりがどう体験したのかが気になった。しかしマスクで顔の下半分が覆われているその表情からは、それを読み取ることができなかった。

二人を送り出した後、火が消えないように薪ストーブに薪を追加し、パソコンを起動させる。今日の記録は少し長くなりそうだ。パソコンが起動するまでの間に、インスタントコーヒーの粉をカップに入れ、薪ストーブの上でカタカタと音を立てているやかんから熱湯を注ぐ。とても熱くて口をつけることもできないコーヒーカップを片手に、パソコンの前に座り、頑張って音を立てながらも起動するのに時間のかかる古いパソコンの真っ黒な画面を見ながら、今しがたあったことを振り返る。

母親が、かほりと心中すると言った場面......どの程度母親は本気で言っていたのだろうか。少なくとも今日のかほりの様子から、当時のかほりには自分の命が脅かされるほどの危険を感じた場面だったと考えるのが妥当だろう。そうでなかったとしても、目の前で両親がケンカしているという状況は子どもの心を深く傷つけ、正常な発達に負の影響を及ぼすことは数々の研究によって明らかにされている。

今回のセッションはかほりにとってかなり負担であっただろう。
普段蓋をしているトラウマを直視するのは、膿の溜まった傷口を開くようなものだ。
しっかりグラウンディングをして帰したつもりだが、最後の私と母親とのやり取りは心の傷口に染みただろう。

「母親がかほりの言うことを聞いてやらないからいけない......」
かほりの不登校を母親のせいにする父親の姿勢が明らかになった。私は母親が迎えに来たときには、母親が父親との同席を望んでいるかどうか分からないと思ったが、ことによると母親は私に助けを求めていたのかもしれない。専門家の意見として、父親に直接カウンセリングの有効性を伝えてほしかったという可能性は大いにある。

かと言って、私が母親の味方をして、父親を説得するような構図を作ることが今後のかほりだけでなく、この家族全体への援助として適切かどうかもまだ分からない。やはり、後先考えずにそのような行動に出るべきではないだろう。

カウンセラーの勝負する場所はあくまでも面接室の中だ。カウンセリングの中で、クライアントの心に寄り添い、傷を癒し、心のエネルギーを回復して帰ってもらうのがカウンセラーの仕事だ。もし私が父親に直接会って話すとしたら、面接室の中にクライアントとして来てもらったときだ。

アセスメント
・かほりの負っているトラウマの蓋が少しずつ開き始めた。
・中身としては、面前DVの可能性あり。そうでなくても両親の不仲がかほりの安全を脅かし、トラウマとなっている。
・父親は母親を責める姿勢。これは不登校の問題だけでなく、結婚してからずっと一貫している可能性が高い。

方針
・かほりに対する対応は不変。
・夫婦関係の調整も視野に入れる。

どういう面接形態になるのかまだ分からない状態で、漠然とした方針だ。我ながら心もとないと思いつつ、取りあえず保存ボタンを押して、記録を閉じた。

抵抗。そして…。

その後、待てど暮らせど母親からの連絡が来ないままに、約束の2月3日を迎えた。この日は前回のような大雪とは打って変わって朝から快晴であったが、その分、空気が乾燥しており、前回にも勝るとも劣らない寒さだ。私は午前中は外仕事で外出しており、相談室に到着したのは12時を回っていた。 急いで薪小屋から薪を運び、薪ストーブに火を入れるが、鋳物の薪ストーブは温まるのに時間がかかるという欠点がある。かほりとは13時に約束をしているが、1時間弱でどれだけ温まるかというと期待薄である。仕方なく、客に出すためのお茶用のお湯は電気ポットで沸かす。更に余り本意ではないのだが、灯油ファンヒーターを奥の収納スペースから取り出す。今回のようなときのために用意してあるものだ。薪ストーブが十分に温まるまでのつなぎの暖房である。本意でないのは、薪ストーブがあるのにファンヒーターを使っているのが少し格好悪い気がするからだ。だから、ファンヒーターの設定温度を最高まで上げて、短時間で部屋を暖めたらファンヒーターはまた奥にしまいたい。人間の見栄とはなんと阿保らしいものかと自嘲する。

今更何も変わらないが一応前回の記録を確認するため、パソコンを起動する。しばらく時間を置いてデスクトップが立ち上がると、「ピロ~ン」という機械音とともに、新着メールのお知らせが入る。メーラーをクリックすると、受信箱の一番上に未読マークとともに「form: Sakabe Tomoko subject: 本日のカウンセリングについて」という項目が私の目に入ってきた。
―――あっ、坂部さん。
私は前回の内容から、もしかしたらキャンセルになるのかもしれないことを覚悟してメールを開いた。

「山の香りカウンセリングサービス代表 榊様                             
                      受信日時  20XX+1年2月3日 10:23
お世話になっております。
本日約束していたカウンセリングですが、かほりが急な体調不良で伺えそうにありません。
ですから、前回のお話もありますし、私一人でお伺いしてもよろしいですか?
お返事お待ちします。

坂部とも子」

時計を確認したら、12時30分を回ったところだ。 メールで返信するより電話をかける方が確実だと判断し、すぐにケースフォルダから「坂部かほり」と書いてあるファイルを見つけてダブルクリックする。セッションの記録の一番上にある登録情報の欄を見つけると項目に目を走らせる。「090‐○○○○‐○○○○」母親の携帯番号を見つけるとすぐに相談室の固定電話から電話をかける。 数回の呼び出し音が止まると、いつものハスキーな声で「はい、坂部です」という声が聞こえた。

「坂部さん、ご連絡遅くなってごめんなさい。山の香りカウンセリングサービスの榊です。今メール見ました」
「そうですよね。こちらこそ直前の連絡になってしまって本当にすみません」
「今日はお母さんだけでいらっしゃいますか?」
「はい。そのつもりで、実はもう家を出て向かってるところなんです」
「あ、ごめんなさい。私の返事が遅くなってしまったばっかりに。今、運転中でしたか?」
「ハンズフリー通話ですから、大丈夫ですよ。私だけで伺っても大丈夫ですか?」
「もちろんです。お待ちしておりますね」
「では後ほど~」
「はい、失礼します」

相手が通話を終了したのを確認して、電話の子機を充電器に戻す。 母親の電話の声は落ち着いており、前回と比べて明るさを取り戻している。これから私と会うことについて、緊張はあまりなさそうな印象だ。
一方かほりの体調不良は気がかりだ。やはり前回のセッションはかほりにとって負担が強すぎたのだろうか。少なからずカウンセリングに対する抵抗が出ることは予想された。前日までに連絡がなかったので、どうかと思っていたが、母親が来談されるということで、ケース自体はつながれたことに、ホッとする。

しかし、母親をこのケース全体の中でどう位置づけていこうか。
第一目標はかほりに力を取り戻してもらうことだ。
そのために、初回の方針に立ち返って、母親の共感不全も治療ターゲットにするということはできる。だが、その為には、やはり一度、仕切りなおして、そのことを母親に伝えないといけないだろう。

そんなことを思いながら、もう一度記録を読み返す。集中して読んでいたのか、いつの間にかぼんやりしてしまったのか定かではないが、気づかないうちに時計は13時に差し掛かるところだ。

「ピンポ~ン」

インターホンが鳴る。私は我に返り応対ボタンを押すと先ほどの電話と同じ声が聞こえる。

「坂部です~」

告知

20XX年2月3日  母親#2
「こんにちは。どうぞおかけください」
私は母親を相談室に迎え入れて椅子を勧める。
「こんにちは。お世話になります」
と言い、着ていたコートと持っていたカバンを荷物入れに入れて椅子に腰を下ろす母親。
振る舞いに丁寧さを感じさせる。
「外、相変わらず寒いですよねぇ」
私は声をかけつつ、ふと、灯油ファンヒーターを片付けるのを忘れていたことに気が付いた。が、後の祭りだ。
私は何も気にしていない素振りでファンヒーターの設定温度を落とし、未だ温まり切らない薪ストーブに一本薪を足す。
「少しお待ちくださいね」と告げて奥のキッチンにクッキーを取りに行く。「お茶もあったかい方が良いですよね。今淹れますね」
電気ポットが保温になっていることを確かめ、緑茶のティーバックを湯呑にセットし、お湯を注いだ。
クッキーとお茶をお盆に乗せて持ってくると、
「ちょっと熱いかもしれないですから、気を付けてくださいね」
と伝えて、クッキーを皿に、湯呑は机の上に置いたコースターに乗せた。湯呑から沸き立つ湯気がまだ飲める温度ではないことを知らせている。
母親は薪ストーブの中で育っている火を見つめている。
「このストーブすごいですね。薪ってどうしてるんですか?」
本題に入る前に雑談の話題を提供してくれているのか、単に興味本位なのかは分からない。
「実は、自分で伐ってるんですよ。山で木を伐って、運んできて斧で薪割りするんです。いい運動になりますよ」
返事をしながら私も椅子に腰かけて、母親と対面で座った。

対面すると、母親は薪の調達方法を聞いた時の朗らかな感じから、表情をわずかに引き締め、改まったように口を開いた。
「今日は本当急にすみません。かほり、昨日まではここに来るつもりだったんですけど、朝起きたらお腹痛いって言って。私も前回のこともありましたし、ご連絡しなきゃって思ってたんです。それで、丁度いいかなって思って」
やはり薪ストーブに食いついたのは、話題の緩衝材のようなものだったのだろう。
「そうだったんですね。かほりちゃん、心配ですね。でも、私もお母さんに伺いたいことやお伝えしたいこともありましたから、こうしてお越しいただけて良かったです」
私も母親に合わせて表情を引き締めて伝えたが、今度は私の言葉に応えるように母親はわずかに表情を崩した。しかし、それも一瞬で、すぐにまた真剣な口調で言う。
「それで、主人のことなんですが、」
かほりの話題ではなく、いきなりそっちからくるのかと多少身構える自分を感じる。
「前回も少し話しましたが、カウンセリングに乗り気でないと言うか」
「仰ってましたね。でも、今日もこうしてお母さん、お越しいただいているということは、絶対何が何でも反対っていうことではないんですか?」
母親は少しだけ困ったような表情を浮かべるも、
「だから、結構家ではバトってます」
と言って、口元だけで笑顔を作る。

「お母さんが......私と一緒に死ぬってお父さんに言ってる」
前回のかほりの表情が思い起こされる。

「そうなんですね。バトルになると......かなり激しいんですか?」
「そんなでもないですよ。二人とも声を荒げたりするわけではないですし。私がプイっと無視しちゃう感じです」
私は何か話のチグハグさを感じる。
「お母さんが無視すると、お父さんはそれ以上言って来ない?」
「そうですね。大体、一人で晩酌を始めますね」
本当にバトルになっているのだろうか?夫婦喧嘩をお勧めするわけではないが、バトルと言うと、お互いに対等な関係で言いたいことを言い合うような状態をイメージする。しかし、想像するに、父親が母親を責めると、母親は何も言えなくなる。そのまま気まずい空気になり、父親は酒に逃げてしまうのではないだろうか。まぁ、冷戦状態もバトルの一形態ではあるのだが。
「お母さん、飲んでるお父さんにはもう関わらない?」
「そうですね。そっとしておくと言うか、先にお風呂に入って寝ちゃうことが多いです」

「それは、ずっと夫婦のパターンになってるんですかね」
「結構そんな感じです」
私は思う。カウンセリングに来る来ないの話題以前からこの夫婦はずっと冷戦状態だったのだ。そして夫婦の冷戦は子どもを消耗させる。

「えっと......もちろんここへはかほりちゃんの不登校のことで相談にいらしているわけですが、今はちょっとご夫婦の話題でお話を進めてもいいでしょうか」
私の問いに対し、母親は申し訳なさそうに言う。
「私の話を聴いてもらってもいいんですか?」
「もちろんです。と言うか、それが大事だと思っています」
私は声のトーンを落として、ゆっくりと、しかしハッキリとした口調で言う。
「正直にお伝えしますと、私、かほりちゃんの不登校の原因、大変失礼ですが、ご夫婦の関係にあると思っています」
これはかなり勇気の要る告知だ。タイミングを間違えると、一気に態度を硬化させて関係が崩れてしまう。だが、この日、母親が自分から一人で面接の場に現れて、父親について自発的に話し始めたこと。前回、私に助けを求めていただろうこと、今日の真剣な表情、口調。
それらから、今伝えなくてはならないと直感的に判断した。

母親も、私の言葉を否定するでもなく、「来たか」と言わんばかりに覚悟を決めたように見えた。

吐き出された想い

私は続けた。
「坂部さん、とっても頑張っていい母であり、いい妻であろうとしていらしたんだと思います。今まで、本当お辛かったでしょう?」
私は敢えて「お母さん」と呼ばず、「坂部さん」と呼んで伝えた。
「そんな。結構適当ですよ」
母親は、私が呼び方を変えたことに対しては反応せず、私の労いの言葉に対して、謙遜して答えた。
私は父親に詰問される度に何も言えなくなって、その場から逃げ出すことで、自分を守っている母親の悔しさに思いを馳せる。
「そうですか」
と私は続ける。
「今、旦那さんとバトルになるとどうなるかお話いただいたとき、多分特定の場面が坂部さんの頭に浮かんでたんじゃないかと思うんです。無視しちゃう気持ちになったときの旦那さんの表情。ちょっともう一回思い出してもらうことできますか?」
母親は戸惑った表情をする。
「思い出せますか?」
私はできるだけ攻撃的に受け取られないような口調や表情で、記憶の想起を促す。
「はい」
それでも、やはり母親の被虐のスイッチが入ってしまうのだろう。やや身構えているのが声のトーンから伝わってくる。
「旦那さんの表情......思い浮かべながら、深呼吸しましょう。ゆっくり吸って......ゆっくり吐いて......」
いつもの10秒呼吸だ。
母親の胸が、私の教示に従って上下するのを確認する。
「その呼吸を続けながら......いいですね。今どんな感じがしますか?」
「気持ちよくはないです」
平坦な口調が母親の警戒を私に伝えている。。
「ありがとうございます。頑張ってくれていますね。私が坂部さんについていますよ」
私自身もリラックス呼吸をしながら母親に伴走していることを伝える。
「ちょっとその気持ちよくない感じに浸ってください。もし可能であれば、目を閉じていただいて、その場面をよく思い出してみてください」
そう伝えると、母親は一瞬戸惑ったような表情を見せるも、やがて、目を閉じた。そこにはある種の観念の気持ちがあったかもしれない。
私はその勇気をたたえる意味を込めて「ありがとうございます」と伝え、続けて、
「目を閉じると......旦那さんの表情......坂部さんを責めている感じですか?」
と聞く。
「そう」
「大丈夫。私が今坂部さんについています。私は坂部さんをサポートするためにここにいます。その表情で責められると......どんな気持ちになりますか?」
「ん~、相手にしない方が良いかなって思います」
「なるほど。だから坂部さんは、旦那さんを無視しちゃうんですね」
「はい」
「無視は坂部さんが旦那さんの攻撃から身を守るための手段なんですね。夫婦関係の中で、そうやって責められてきた時に坂部さんがご自身を守ってこられた。それはとっても尊いことだと思います」
母親は表情を変えずに私の言葉を聴いている。
「今、旦那さんを無視しているときのご自身を思い返してみてください。どんな気持ちになりますか」
私の問いに対して少し間をおいてから答えた。
「やるせない気持ち」
「やるせない気持ちになるんですね。そのやるせないなぁっていう気持ちを感じるとき、体はどんな感じがしますか?お腹がキリキリするとか、胸がキューっと締め付けられる感じとか」
私はそう伝えて、ネガティブな感情に伴う体の反応を確認していく。
急に体の感覚を聞かれて戸惑ったのかもしれない。
少し自分で確認するように間を取った後、
「胸がズーンと重い感じがします」
と答えてくれた。
「とても上手に体の感じを特定してくれました。ありがとうございます。そのズーンと重い感じ。今、私と一緒に味わってみましょう。どんな感覚なのか、私にできるだけ分かるように教えてください。私もお母さんの気持ちを一緒に感じたいんです」
「本当、ズーンって錘が乗っている感じがします」
「そうなんですね。坂部さんを責めている旦那さんの表情が、坂部さんに重くのしかかっているんですね。とっても重いですよね。大丈夫です。ゆったりと呼吸をして。よく感じていきましょう。私は坂部さんと共にいます」
母親の表情に力が入り、苦しそうなのが伝わってくる。
「大丈夫です。今から胸の重い感じを軽くしていきますからね。この場では坂部さんは完全に安全だし、坂部さんが安全でいられるように、私がサポートしていきます」
依然として眉をしかめるような表情で私の語り掛けを聞いている。
「旦那さんが坂部さんを責めてくる表情に対して感じるやるせない気持ち、今まで蓋をして、無視してきましたよね。もし仮にですが、言い返せるとしたら......なんて言いたいですか?」
予想していなかった質問なのだろう。眉をしかめたまま、しばらく間を置く。
「えぇ、なんだろう」
と考えた後に言う。
「そんな風に見るのはやめて」
平坦な口調で答えてくれる。
私はうなずきながら促す。
「うんうん。責めるような目で見るのをやめてほしいんですね。他にはなんて言いたいですか?」
母親は一呼吸おいてから答えた。
「なんで私ばかりが悪いことになってるの?」
少しずつ心の中に閉じ込めた箱の蓋が開き始めているのを感じる。
「うんうん。坂部さんばっかりが悪者にされてきたんですね。他には?」
「あなたはいつも私を責めるけど、そんなに私はダメなの?」
目を閉じてはいるが、急に母親の声は震え出す。私は母親の言葉を優しい口調でトレースする。
「いつも責められてきた。他には?」
これまで平坦な口調だったのは、感情があふれ出さないように努めて平生を装っていたのが解る。そして、それがついに決壊した。
「好き勝手なことばっかり言って、必要な時には自分は何もしないくせに、調子いい時だけ出てきて、良い人面するのはやめてほしい。私ばかりに嫌な役押し付けて、それで私を責めるの?一度だって私を認めてくれたことなんかなかったじゃない。こんなに頑張ってるのに。文句ばっかり言うなら全部自分でやればいいでしょ」
もう私から促さなくても、今まで抑えてきた母親の不満があふれ出した。それは涙とともに排出される。
一呼吸おいてから、「こんなに頑張ってるのに......」再び繰り返される言葉は嗚咽を伴っていた。
「本当に勇気をもって気持ちを表現してくれました。坂部さんの今まで抱えていらっしゃった辛い気持ち......よく伝わってきましたよ。私はその坂部さんの勇気に心よりの敬意をお伝えしたいと思います」そう伝えて、テーブルの上にあるティッシュを2~3枚取って手渡す。
「すみません」とティッシュを受け取って涙をぬぐう母親に、「坂部さん、旦那さんに認めてもらいたいんですね」と伝える。
更に自身を落ち着かせるためか、それまで手を付けていなかったもうぬるくなっているだろうお茶に手を伸ばす。
一口つけると、フ―ッと大きめの息を吐き、
「結局そうなんですね。人って誰かに認めてもらわないとダメなんだってことですよね」としみじみ言う。
「今日そのお気持ちをちゃんと言葉にしてくれました」
「そうですね。だからと言って何か変わるわけじゃないですけど、なんかちょっと溜飲が下がった気がします」
「これをずっと溜め続けたらしんどいですよ。感情を抑圧するのって、人間、思う以上にエネルギーを使うんですね。そしてそれは、かほりちゃんとの関りにも影響を及ぼしてしまう可能性は高いです」そう説明した後に、私は提案した。
「どうでしょうか。今後も定期的にお母さんともお会いして行けるといいと思うのですが」
かほりとの面接を意識して、お母さんと呼び方を再び元に戻す。
「そうですね。来たい気持ちはあるんですが、かほりを隔週で連れてきてますので、これ以上ってなると、ちょっとお金的に......」
現実的な壁が立ちはだかる。
私も経営者であり、サービスを継続させていかなければならない以上、代金はいただかないわけにはいかない。
「そうですよね。かほりちゃん隔週での面接はできるだけ続けたいですね。今日お母さんが頑張ってくれたみたいに、かほりちゃんもとっても頑張ってくれています。でも、例えば今日みたいにかほりちゃんが来れない日とかにお母さんにお越しいただくのはありです。そうでなくても、二日前までなら予約取れますから、お母さんが今日みたいに話したいって思ってくれた時に不定期にご予約いただくというのはどうでしょうか。後は、かほりちゃんの許可が取れればですが、お二人で一緒に来ていただいて、30分ずつ順番にお話伺うとか、同席いただくとか、できるだけご要望に応えたいと思います」
母親は少し考えているような素振りをする。
「わかりました。じゃ、取り敢えず、次回は二週間後にかほりを連れてきますね。それまでにどうするか考えさせてください」
私が了承すると、「こちら、いただいていいですか?」と手を付けなかったクッキーをカバンに入れて持ち帰った。

こうして母親との面談の一回目が終わった。


母親を送り出すと、いつものようにコーヒーを準備してデスクに座り、終わったばかりの面接を振り返る。

今回、かほりが来れなかったことは、やはり抵抗とみていいだろう。事前にキャンセルの可能性も頭に置いていたとはいえ、それが現実になってしまうと、私の頭の中で無意識により深い反省の考察が始まる。前回、周囲が怖いと言ったときに、その気持ちをまずは扱うべきであった。その気持ちに焦点化して、グラウンディングしないといけなかったのだ。私はそれを飛ばして、両親に話を持って行ってしまったし、更には彼女にとっては最大級のトラウマが出てきてしまった。負担が大き過ぎたのだ。今後、かほりは私の前に姿を現してくれるのだろうかと心配になる。
だが、一方で、今回の母親面接はこのケースにとって有意義であった。夫婦の問題に直面化させ、母親も私の示唆に応えて、気持ちを話してくれた。
次回かほりが来れるかは今の時点では分からない。しかし母親への働きかけ次第で十分に援助が可能であるという手応えは感じた。

やがて立ち上がったパソコン上で「坂部かほり」のケースファイルを開くと、コーヒーをすすりながら記録を開始する。
アセスメント
・かほりの抵抗が見られる。来談が厳しい状態。
・母親の真の願い「認められたい」
方針
・枠の再設定。かほりとのカウンセリングから、母親を交えた家族療法へ切り替える。

「家族療法......つまりは最初に立てた方針にようやく戻ってこれた」
私は心の中で呟いた。

怖い絵

2週間というのは早いものだ。日々の業務に追われている中で、気づけば2月16日も終わろうとしていた。その日のケースの記録が終わると、翌日のケースにも思いを巡らせる。いくつかある中で、そう言えば坂部家の予約も入っている。かほりは来れるだろうかと思いつつメールを確認する。
1日メーラーを開けないと結構メールが溜まる。そのほとんどは広告だったり営業だ。それらと必要なメールを見分ける作業は毎回骨が折れる。
そんな中で私の目に留まったのは「form: Sakabe Tomoko subject: 明日のカウンセリングについて」という項目だった。

「山の香りカウンセリングサービス代表 榊様                             
                       受信日時  20XX+1/2/16 18:03
お世話になっております。
明日のカウンセリングですが、実は三日前からかほりがインフルエンザになってしまいました。
もう熱は下がっていて家では平気そうにしていますが、自宅待機期間中ですので、連れていけません。
また私が一人で伺います。

坂部とも子」
+++++++++++

―――あらら。

前回に続き、またかほりは来れないということだが、インフルエンザは判断が難しい。それ自体は私のカウンセリングに対する抵抗とは言えない。ただ、カウンセリングに来れないことを、かほりがどう思っているのかは気になるところだ。
その様子も明日、母親に聞いてみよう。そう思い、母親の来談を了承する旨の返信をしてメーラーを閉じた。

翌日は朝から別の相談が入っていたので、当然それに応じるため朝から薪ストーブを稼働させていた。
外の凍てつく寒さとは対照的に、すでに部屋の中は十分に温まっており、Tシャツ一枚でもいいくらいだ。
天板の上で煮えくり返るように音を立てているやかんから今にもお湯があふれ出しそうになっている。私はそうならないように、保温ポッドに熱湯を移し替え、再び水道の蛇口をひねり、冷水で満たしたやかんを薪ストーブの天板の上に置いた。
自分で握ったちりめんをまぶしたおにぎりを頬張りつつ、記録に目を通し、今からくるであろう坂部母の顔を思い浮かべる。
やがて母親の到着を知らせるインターホンが鳴った。

―――――――――――――――――――――――――――――――

20XX+1年2月17日 母親#3
入室した母親はいつになくマスクをしている。
かほりのインフルエンザを意識してのことだろう。私も机上に常備しているアルコール消毒を指し「よかったら使ってくださいね」と伝えるとともに椅子に座るように促す。一方で、いつものように奥のキッチンにクッキーを取りに行き、薪ストーブ上で既に湯気を上げている先ほど冷水を入れたやかんからお茶を淹れる。

それらを差し出すと、お盆を片付け、私も母親に正対して椅子に腰を下ろした。
「改めまして、こんにちは。かほりちゃん、大丈夫ですか?」
かほりの体調もそうだが、カウンセリングに来れないことについてかほりの様子を聞きたかったというのが私の本音だ。しかしそれは伝わっていないだろう。
「お願いします。かほりはもう元気です。本当は今日も連れてきたかったんですが、一応、うつすといけないので。ウチは私も主人も予防接種打ったんですけど、かほりはいつも家にいるので打たなかったんですよ。大丈夫かと思って。もしかしてどちらかが家に菌を持って帰ってきてかほりにうつしたのかもしれません。先週金曜日に私が仕事から帰ったら、急に体が怠いって言い出したんです。それで、熱計ったら39度5分もあって。急いで小児科受診して、インフルとコロナと溶連菌の検査したんですけど、インフルAの方で陽性って。それでイナビルもらってきたんですけど、発熱が金曜日で良かったです。主人が土日休みで対応してくれたので。さすがに平日で私も仕事の日だったら、一人で家に置いておけませんから」
かほりの状況だけでなく、家庭の様子も伝わってくる。
そうなるともう少し聞きたくなる。
「そうなんですね。それは良かったです。ちなみに今更ですが、お母さんは土日も仕事なんでしたっけ?」
これは今まで気になっていた質問だ。母親が月曜日に毎回送迎してくれていることを考えると月曜日が休みなのだろうか。
「そうですね。自然食品の販売会社なんですけど、シフト制でして、土日に仕事入れていることは多いです。その代わり今日みたいに平日休み取りやすいんですよ」
「なるほど。じゃ、旦那さんとも休みは合わないんですね」
「合わないと言うか、敢えてずらしてると言うか」
ややバツが悪そうな感じを見せるが即座に否定する。
「いえ、仲が悪いからとかじゃないんです。今回みたいなことがあったときにどっちかが対応できるようにっていう意味です」
「なるほどなるほど。前回いろいろ仰ってらしたので、要らぬ推測もしてしまうんですが、ことさらにそういうわけでもないんですね」
母親の言い訳めいた言葉に私も濁すような言い方をしてしまい、ややぎこちない感じの空気が流れる。
「実は今日伺いたいことがあって」と母親がその空気を打ち消すように本題の話を提示してくれる。改まった感じから私も少し体に力が入った。
「かほりが......怖い絵を描いているんです」
母親の声のトーンで、深刻な感情がマスク越しに伝わってくる。
「怖い絵?」
「ちょっと見てくれますか?」
そう言うと、母親はおもむろに足元にある荷物置きに入れたカバンからスマホを取り出し操作を始める。
数秒の間に目的の物を表示させると私の方に画面を見えるように差し出した。

甘え

写真だ。
一枚の絵が写真に収められている。
案山子?違う。女の子だ。女の子の絵が描かれている。
体は十字架と言うか、案山子のように手を開いている。無機質な身体の上で顔はこちらを見て笑っている。いや、笑っているように見えると言った方が正確かもしれない。目は無表情か、むしろこちらを睨みつけているようにさえ見える。ただ、口角が上がっているため全体の表情としては笑っているように見えるのだ。そして何よりも私の目を引き付けたのは、女の子の体中に刺さっている包丁、ナイフ、槍、剣......凡そ思いつく、殺傷能力のありそうな刃物たちである。それらが案山子のように立つ女の子の体に突き立てられているのだ。そして全体は白い紙に鉛筆で描かれいているだろうモノトーンなのに、傷口から流れ出る血だけが丁寧に赤黒く塗られているため、一層見る者の目を惹きつける。

「これは......確かに怖いですね」
「そうなんです。怖くて......私、この絵を見たとき、すごく動揺しちゃって。なんか胸が苦しくなりました。普段はアニメのキャラクターの絵ばっかり描いてるんです。でも、先々週くらいですか。かほりの部屋に入ったときに、偶然机の上にこれが置いてあって。思わず写メしちゃいました。いつ描いた物かは分かりません。でも、机の上に置いてあるってことは、私に見られたかったのかもしれないと思って」
母親はこの絵が何を伝えたいのかを心理の専門家である私に聞きたいというわけだ。
しかし、私はまず母親に聞く。
「そうかもしれないですね。お母さんとしては、この絵、どんな風に見られましたか?」
母親はハスキーな声のトーンを一段落として答える。
「かほりの心が......こんなに傷ついているっていうこと?」
「そうですね。そういうかほりちゃんの叫びが聞こえてきそうですね」
誰もがそう感じるだろう。私も同じように思った。そして更につけ足す。
「そして体が無機質というか、人形みたいに見えます。かほりちゃんの体はもう痛みを感じていないのかもしれません。それと、この表情です。私にはかほりちゃんの敵意と、相手に迎合するしかない悔しさが滲み出ているように見えます」
「敵意と......迎合......悔しさ......」
母親は私が挙げたかほりの感情と目される言葉を復唱する。
私は続けた。
「この表情からは、極度のストレス下で、戦うことも逃げることもできなくて、迎合しちゃったのかなと想像しました」
「言われてみると、確かにそういう風に見えます」
どこまで納得してくれているかは分からない。私はかほりがどれだけ追い詰められているかということを伝えたくて続けた。
「こんなに傷ついていたら......死んじゃいますよね。そうじゃなくても、病院のベッドで絶対安静にしてないといけないですよね」
母親は神妙な顔つきで言う。
「学校なんて行けるわけない......ってことですか」
「その通りです。かほりちゃんに必要なのは、この体中に刺さった刃を抜いてあげて、ちゃんと手当してあげることじゃないですか」
ここは勝負所だ。私は自分の言葉に少なからず攻撃性が散りばめられてしまっているのを自覚していた。
「こんな状態で学校に行かせようとするあなたは間違っている」というメッセージが非言語に含まれいてるのだ。カウンセラーは通常クライアントを責めない。仮に母親が私の攻撃を受けて防御姿勢や反抗姿勢を取ってしまうとカウンセリングは停滞してしまうからだ。そのためここは無血開城、つまり圧倒的な説得力で母親を納得へと導かないといけない。
その私の攻めの姿勢に対して母親は防御にも反抗にも出られるような言葉を選ぶ。
「それは......どうやって?」
母親の声には疑念が含まれている。彼女の目がわずかに泳ぎ、視線が私から離れる。
ここで、しっかりと私は私と両親のすべきことを伝えて、納得を引き出す必要がある。
「ひとつには私がここでかほりちゃんのトラウマケアをします。でも、その過程でお父さん、お母さんにも協力をお願いする必要があります」
私は穏やかに、しかし断固とした口調で説明を続けた。
まだ母親は防御姿勢を崩さないで反応する。
「なんでしょう」
母親の声は少し震えているが、彼女は私の目を真っ直ぐに見つめる。
「お父さんとお母さん、二人で力と心を合わせて、かほりちゃんを甘やかしてあげることです。思いっきり」
母親は絶句し、しばらくの間、言葉を失っていた。彼女の目が一瞬、私から離れ、床を見つめる。

「実は......最近、かほりが妙に甘えてくるんです」
母親は小さな声で言った。彼女の手が膝の上でぎゅっと握りしめられているのが見えた。

「どんな風に?」私は優しく促した。

「お風呂に一緒に入りたがったり、夜布団に一緒に入ってきて寝たがったり。私が料理してたりするとキッチンに来て、ベタベタくっついてきたり」そう話す彼女の声には戸惑いが混じっている。

「甘えたいんですね」と私は少し微笑みながら言った。

「私、なんか拒むまではいかないんですが、どうしても素直に甘えさせられなくて、逃げると言うか距離取っちゃうんです」と母親は視線をそらし、手をもじもじと動かした。

父親と力を合わせる以前のところに課題がありそうだ。私はカウンセラーとして母親のつまずきを解消し、彼女がかほりを受け入れられるように導く必要がある。

「実は不登校の子が赤ちゃん返りすることは珍しいことではありません。かほりちゃんに限らず、みんな傷ついているんです。そして、子どもは傷を癒してくれることを本能的に母親に求めます。だから甘えてくるんです。お母さんに甘えることで、かほりちゃんは自分の傷を癒そうとしてるんですよ」
私はかほりと2回目に会ったとき、セッションの中でほぐれてきたかほりの表情が母親が迎えに来た瞬間、また無表情に変わったのを思い出した。あの時、かほりは母親の圧を感じていたのは想像に難くない。それでも、やはり母親を求めてしまうという複雑な心理に思いを馳せた。

母親は視線を床に落とし、深く考え込むように眉をひそめた。

「なんでしょう。私も甘えさせてあげた方がいいのかなとは思うんですが、もう中学生ですよ。そんなにくっつかなくても、別の甘え方があるように思います」

母親の声には戸惑いが混じっていた。彼女の手が膝の上で落ち着かないように動き続けている。

「例えばどんな?」

私は優しく促した。母親は少しの沈黙の後、ひねり出すように言葉を発する。

「なんでしょう。一緒にご飯食べるとか、ゲームするとか......買い物に行くとか?」

彼女の声は学生が先生に正解を求めるときの声だ。「この中に正解はありますか?」と。
しかし私は母親の中に正解を求めた。

「ご自身が、子どものころ、そうやって甘えてた?」

私の問いかけに、母親はしばらく目を閉じた。過去の記憶を思い起こすように深呼吸をする。

「あんまり親に甘えた記憶がありません」

彼女の声は低く、表情もどこか困惑しているように感じた。自分が甘えた記憶がないということにそれまで気づいていなかったのかもしれない。

「だからどうしていいか分からなくて、かほりちゃんが甘えてくると避けちゃうんですね。今想像してみましょう。かほりちゃんがお母さんの寝てるところに入ってきて、一緒に寝てと言って抱き着いてきます。どんな気持ちがしますか?」

「ん~、バツが悪いと言うか、逃げ出したくなります」

この逃げ出したいという気持ちこそが母親が克服しないといけない負の気持ちだ。このケースの根幹の課題と言ってもいいかもしれない。
私はここで、一歩踏み込む。

「それは、かほりちゃんが小さな赤ちゃんだったとしても?」

母親の目が一瞬大きく見開かれる。その後、深い息をついて視線を下げた。

「赤ちゃん......怖かったんです」母親の声は震えている。「私、かほりが赤ちゃんのころから怖かったんです。いつも泣いて、泣いている声が私を責めているみたいで。かほりが泣くたびに本当気が狂いそうになって。主人に助けを求めても、私が悪いって言われて。それはそうですよね。どう考えても私が悪いですよね」
言い終わるころには、母親の目からこぼれた涙がマスクを濡らしていた。

怖いから、逃げ出したくなったのだ。

私は普段よりも声のトーンを下げて、ゆっくりと言葉に力を込めていった。
「お母さん。あなたは悪くありません。お母さんを責め立てた人がいるはずです。お前に子育てなんてできるわけないって。あなたを責めて、あなたを恐怖心でしばりつけた人がいるはずです」

母親は目を見開いた。その視線が空中の一点で固定されたように固まる。そして絞り出すように言う。
「それは......私の母です」

亡霊との別れ

「坂部さんのお母さん......」
母という言葉が出てきて私は反射的に、坂部さんと呼び方を変えた。

「私の母はいつも私を責める人でした。何をしても怒られて」
先ほどの涙が乾いたわけではないだろうが、静かな口調で母親は語り始めた。
「私がテストでいい点とって帰ってきても、必ずダメだって。今、『お前に子育てなんてできるわけない』って言われた時、思い出しました。私小学校で学級委員に選ばれたんです。なんか、人気投票で一番になったみたいで、嬉しかったんですよね。それで家に帰って母にそのことを伝えたんです。そうしたら、『あんたに学級委員なんてできるわけない』って言われたんです。それが、何度も私の中で反響して......。お前にできるわけない、お前にできるわけないって」
静かな語り口調は最初だけだ。すぐに声を震わせて、涙が溢れ頬を伝う。

その様子に、私はとても切ない気持ちになる。
「そんな風に言われて......それが何度も反響してる。坂部さん、自分ができるわけないって刷り込まれちゃったんですね」
母親は深く息をつき、視線を床に落とした。感情が溢れてくるのを押し殺しているようだ。
「そうかもしれません。頭ではそんなことない。私は出来るって自分に言い聞かせてたんですよ。母の言うことなんかに負けないって。でも、受験のときも、就職してからも、かほりが生まれてからも。ずっとその反響がやまなくて。かほりの泣き声や前回話した旦那が私を責めるときも、私の頭の中でずっと母が私を責めてるんです」
彼女の声には、長年の苦しみと葛藤がにじんでいた。私は静かに問いかける。
「今も?」
母親は一瞬、考え込むように目を閉じた。彼女の手が膝の上でぎゅっと握りしめられている。
「どうでしょう......。そうかもしれません」
「ではお母さんに今、言ってやりましょう。『もう私はあなたに騙されない。私はダメじゃない』って」
母親は困惑した様子で黙り込む。「言ってやりましょう」と言われても、私に何を要求されているのか分からないのだろう。
だから私は強い口調で言う。
「もう私は騙されない」
母親は少し困惑した様子で、小さく私に続いて言う。
「もう......私は騙されない」
私は続けた。
「私はダメじゃない」
母親も今度はさっきよりもはっきりついてくる。
「私はダメじゃない」
私は繰り返し、母親もついてくる。
「もう私は騙されない。私はダメじゃない」
「もう私は騙されない。私はダメじゃない」
母親の声が力強くなった。
「もう一度。大きな声で」
「もう私は騙されない。私はダメじゃない」
私は更に続け、母親もついてくる。
「私はもうあなたに支配されない」
「私はもうあなたに支配されない」
「私を支配していいのは私だけだ」
「私を支配していいのは私だけだ」

母親は涙で声を震わせながらも力強く言った。
母親が十分に決意を固めたことを認識した私は頭を大きくうなずかせて、母親にアイコンタクトを送る。
私のうなずきを母親が受け取ったことを確認した私は、まっさらな記録用のA4用紙を一枚取り出して机の上に置いた。そして、母親の目の前でペンで紙一杯に大きく、「お前にできるわけがない」と書いて、母親の方に向けて見せた。
私の行動にキョトンとしている母親に、私はこう問いかける。
「今、この言葉を見てどう思いますか?」
私の意図が伝わったのだろう。強い口調で返してくれる。
「そんなことない。私はできるって」
母親が十分に自分の意思で返答してくれているのを感じる。
私はその紙を母親の前に更に差し出して言う。
「では、この紙を坂部さんご自身の手で丸めてください」
私がそう言うと、母親は私の提案に従って、紙をくしゃくしゃに丸めた。そこにはもう戸惑いは感じられない。
それを確認した私は立ち上がり、薪ストーブの前に立つ。見ると天板の上にある温度計は250度を指している。その天板を開けて言った。
「坂部さん、こちらにその紙を持ってきてください。そして、坂部さんの手で、この中に投げ入れてください」
炉の中では真っ赤になった薪が熾火の状態で煌々と熱を発している。天板の開いている部分から、その熱がダイレクトに伝わってきて、顔が熱い。
母親はその紙を持ってきて、炉の前に立った。その表情からは決意が感じられる。
「言いたいこと......ありますか?」
「......」
「坂部さんを縛り付けていた亡霊とのお別れです」
私の言葉に後押しされて、母親は言う。
「さようなら。もう二度と私の前に現れないで」
私は大きくうなずき、彼女も私に目を合わせて応える。
と、彼女は丸めた紙を炉の上の空間に持って行き、静かに手を放した。
重力に引かれポトンと炉の中に落ちた丸められた紙に、瞬時に熾火の熱と炎が襲い掛かる。白かった紙が一瞬で炎に包まれ、黒く変色する。その塊は勢いよく炎をあげ、その熱が覗き込んでいる私たちの顔に伝わる。あまり近付くと火傷してしまう。しかし彼女は紙が燃え尽きるのを見届けるように覗き続けている。
天板温度が250度のとき、炉の中は400度を超える熱だ。紙が炎を上げて燃え尽きるのにかかる時間は30秒ほどだろうか。
黒かった塊がやがて灰になり、熾火に灼熱の静寂が再び訪れたとき、私が促したわけではなかったが、彼女はもう一度呟くように言った。
「さようなら」

ギ―、ガタン。
薪ストーブの天板は鉄の塊であり、閉めるとき、重厚な音がする。
その天板を閉めたことで、母親は過去の亡霊と決別し、私とともに「今、ここ」に戻ってきた。

私は切り替えるように声のトーンを上げる。
「じゃ、座りましょうか」
私の促しに応えて、母親も席に戻り、再び向かい合って座る。
「今、坂部さんは自由です。かほりちゃんが甘えてきたらどうしますか?」
私の問いに対し、少し考えたように間を取ってから
「どうしましょう。まだちょっとどうしていいかわかりません」
と答えるが、その顔はどこか照れたような、しかし晴れやかに見える。
「ギュって抱きしめてあげてください。そして大好きだよって伝えてあげてください」
しばし間が空く。その状況を母親がイメージする間だ。
「どうでしょう?逃げたくなる?」
私が問いかけると、何かをつかんだような表情で母親は答えた。
「いえ、大丈夫です。やってみます」

こうして母親との2回目のセッションは終わりを迎えた。

母親を見送ると、部屋の中に戻り、先ほど亡霊に別れを告げた後に下火になりつつある薪ストーブに薪を足す。もうあの紙きれは炉の中にはその痕跡すら確認できない。
今回のようなセッションはカウンセラーとしても満足度が高い。かほりの傷つきが可視化されたことで、母親の中で課題が明確になり、更にその課題を克服するための障壁を取り除いたセッションであった。このケース全体の大きな転換点にしていけるといいなと考えつつ、実はこういうセッションをした後は私はいつも自戒することがある。それは自分の力ではないということだ。
思えば、私が攻撃性を出した時、私はかほりの側に立っていた。かほりの側に立って母親を攻撃していたのだ。それに対し母親が無血開城を選んでくれて、自身の課題にしっかりと向き合い取り組んでくれた。これは簡単なことではなかったはずだ。その勇気と決断、そして何よりも母性の力に畏敬の念を感じる。そして、その現場に立ち会わせてもらったことに大きな喜びと深い感謝の気持ちが自分の中にあることを確認する。
そうは言っても、やはり記録を書くときの気持ちは軽い。
アセスメント
・かほりの傷つきに対して、母親が母性を発揮できなかった原因は自身の育ちの中にあり、そのトラウマを解消できた。
方針
・基本的にはかほり本人の再来談を前提とする。自律神経系のトレーニングを通じて回復力を高める。
・母親の母性をエンパワーし、かほりの回復を助ける。

記録を書き終わると、私はまだ興奮冷めやらぬ気持ちを鎮めるようにコーヒーを口に運んだ。
だがこのとき私は気づいていなかった。本来自戒すべきなのはもっと別のところにあったのだ。上手くいったと思ったときほど、どこかで見落としているものはないか。落とし穴にはまっていないか。
そう。私はこの時、落とし穴にはまり始めていた。 

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今回のリライトはここまでです。
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