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『こころ日誌・インスペクシオ』#27 安全配慮義務 vsインクルーシブ教育

『こころ日誌・インスペクシオ』#27 安全配慮義務 vsインクルーシブ教育

安全配慮義務 vsインクルーシブ教育

「娘は事前に恐怖を訴えいた。
かつその生徒には度々暴力的な振る舞いがあったことも聞き及んでおります。
つまり、学校側にとって、この事態は予見可能だったのではないでしょうか。

危険性を把握していながら、適切な指導や隔離を行わず、漫然と放置していた結果、娘の学校生活が奪われたのだとしたら……。
学校として、娘の安全を守るための義務を、本当に果たしていたと言えるのでしょうか。そこを質させていただきたく、先日お電話させていただいた次第です」

そんな風に受け取られちゃうの?
でも、これは事前の打ち合わせで想定範囲内ではあるはずよね。

「ご心配、もっともでございます。そして先生が本当に菜摘さんのことを大切にしていらっしゃるお気持ちにつけ、今回の件、本校としても痛恨の極みです。ですが、当該生徒についてはスクールカウンセラーによる専門的な見立てのもと、事前に菜摘さんに近づかないよう指導し、かつ継続的なカウンセリングを受けるように義務付けてまいりました」

橋本先生は一度言葉を切ると、私の方へ視線を向けずに続けた。

「さまざまな特色を持つ生徒たちがともに学び、ともに育て合う。インクルーシブ教育の精神を大切にしている我が校といたしましては、手厚く配慮し、成長を見守るべき生徒の一人なのです」

「ですが、実際に事件が起こってしまった。粗暴な生徒のふるまいで、その他大勢の安全が脅かされる事態は、県民の負託を受けている立場としても看過できるものではありません。学校として、今後、このようなことが二度と起こらないことを確実にする措置をお約束いただく必要があります」

確実にする措置!?
そんなの......、あるわけない。

「今この場でそのお約束をして差し上げたい思いに偽りはありません。ですが、我々は公教育を担う機関です。生徒の学ぶ権利を保障しなければならないという法的な責務があります。共生社会における摩擦を、排除ではなく教育によって解消していく。その難しさと向き合い続けることこそが我々の務めであり、安易な回答を差し上げることができないこと、賢察いただければと思います」

橋本先生......さすがだ。
でも、古橋さんの表情は変わらない。
が、急に顔を私の方に向けた。

「カウンセラーの先生、失礼ですがなんとおっしゃいましたか?」

「あ、はい。加納です」

橋本先生の方を向いていた時には分からなかったが、面と向かうと、一見柔和で落ち着いた表情だが、その眼は......なんだろう。圧があるわけじゃないのに、とても強そうな光を感じる。固い意志を持って困難に立ち向かう決意が溢れている眼光。

「失礼しました。加納先生。先ほど専門的に見立てていらっしゃるという橋本校長のお言葉を拝聴しましたが、先生の専門家としての目から見て、その男子生徒はこの学校で他の一般生徒と安全に学校生活を送ることが可能と思われますか?」
射るような視線。
この眼は、校長という城壁を崩すのは困難と見るや、防御の薄い場所を瞬時に見抜き、そこを一点突破しようとする眼だ。そしてその眼が今、私に向けられている。
(安全に送ることが可能か……?)
即座に「可能です」と言い切ろうとした私の脳裏に、あの日の光景がフラッシュバックする。
私のダウンコートに残った、白地に赤い、あのかすれた血の筋。
喉元まで出かかった言葉が、その赤色に詰まって出てこない。
「……守秘義務がございますので、個別の生徒名や詳細については……」
必死に防衛線を張ろうとする私の言葉を、古橋さんは静かに遮った。
「私も娘から聞いています。工藤カケル君ですね」
逃げられない。
私は覚悟を決めて、彼の目を見返した。
「……はい。工藤くんは、とてつもない不安の中にいます。自分が学校から排除されるんじゃないかという幻影に常に怯え、もがいているんです。彼の行動は、攻撃ではなく、パニックによる防衛反応なんです」
「分かっています」
古橋さんは私の言葉を否定せず、深く頷いた。だが、その声色は変わらない。
「子ども達の問題行動はあまねく、彼らが抱える苦しみの表れである。私も菜摘が中学で不登校をしたとき、それを嫌というほど思い知りました。ですが...」
彼はわずかに前傾姿勢になり、私を諭すように言った。
「苦しんでいるからといって、無関係な周りの子どもを苦しませていい理屈にはなりません。溺れている者が、恐怖のあまり周りの人間まで水底に引きずり込もうとしているのなら、まずは引き離さなければならない。その『負の連鎖』を物理的に断ち切ることこそが、大人が果たすべき責任ではないですか?」

古橋さんの冷静な語り口が...何か私の心の奥に触れた。
「その苦しみを創り出したのは、私たちじゃないですか!」
声が震えそうになるのが自分でも分かる。それを相手に気づかれないようにしながら、それでも私の中から溢れてくる想いをそのまま吐き出した。
「工藤くんは好きで溺れたんじゃありません。 私たちが、学校や大人が、無理やり泳げない場所に連れて行って、突き落としたんです。 勝手に連れていかれて、そこで必死に息をしようともがいて……。そんな彼に、『邪魔だ、死ね』って言うんですか! あまりに酷いじゃないですか!」
やっぱり声の震えは隠しきれない。

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