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『こころ日誌・インスペクシオ』#18 カケルと古橋菜摘

『こころ日誌・インスペクシオ』#18 カケルと古橋菜摘

カケルと古橋菜摘

場の空気が少し重くなったところで、私は少し専門的な視点を入れてみることにした。
「ところで、1年生のときからの記録を読み返したんですけど、彼の突飛な行動って、大体『Fight or Flight(ファイト・オア・フライト)』反応で説明ができると思ったんです」
「ふぁいと……おあ……?」
安井先生がキョトンとして聞き返す。
「『戦うか、逃げるか』ってことです。生物が危機に瀕した時の本能的な反応ですね。彼、何かがあってテンパっちゃったとき、頭で考える余裕がなくなって、戦うか逃げるかしか選択肢がなくなっちゃうんです」
私は身振りを交えて説明する。
「例えば、授業中に大声を出すとか、広瀬くんに暴力を振るったのは『戦う(Fight)』モード。一方で、1年生のとき警察に深夜徘徊で補導されたり、学校に来る振りして海へ行っちゃったりしたのは、『逃げる(Flight)』モードだったんじゃないかなって」
「叫ぶのも戦うモードなんすか?」と安井先生。
「多分そうだと思います。ストレスがかかって、誰と戦っていいか分からないとき、とりあえず大声を出して自分を守ろうと周りを威嚇するんです」
「なるほど、工藤なりの防衛本能ってことですか」
佐々木先生が頷くのを見て、少し手応えを感じる。
だが、今の理論だけでは説明がつかない点が一つある。
「彼が広瀬くんや他校の生徒とトラブルになった記述とは別で、私、気になった記述があるんです。去年、女子生徒につきまとったっていう件……あれもパニックの一種なんでしょうか?」
「あぁ、古橋の件ですね」と田中先生。
「古橋?」
「昨年同じクラスだった、古橋菜摘っていう生徒です」
「つきまといって……具体的にどんな感じだったんですか?」
「古橋も、ちょっと大人しくて怖がりなところがある子で、工藤とは相性が悪かったんでしょうね。去年、工藤がやたらと古橋に話しかけにいっていた時期があったんです」
「どんな風に?」
「佐々木先生、覚えてらっしゃいます?」と田中先生が話を振る。
佐々木先生は天井を仰いで記憶を手繰り寄せるように話し出した。
「二人ともから話は聞いています。多分ですが、きっかけは入学して間もないころ、授業中に工藤が机から消しゴムを落としたら、古橋が拾ってくれたんだそうです。それで、工藤が古橋に好意を持ったみたいなんですね」

消しゴムを拾ってくれた。
たったそれだけの、日常の些細な優しさ。

「別に好意を持つのはいいんですが、アイツ、ああいう奴でしょ? なんかやたらと話しかけにいっては、絶対古橋に通じないような話題で話をしようとしたらしいんです。アイツの好きな戦争ネタって言うんですか」

あぁ、カケルが生き生きとして話す様子が目に浮かぶようだ。
どう接していいか分からなくて、自分の持っている一番「すごい知識」を披露しようとしたんだ。

「古橋も困ってそれとなく距離を取ろうとしてたんですが、アイツにはそういう空気が全く読めない。構わず話しかけ続けて、結局、古橋が教育相談のときに『工藤くんが怖い』って、去年の担任に泣きついたんです」
「そういうことだったんですね……」
「それで、僕の方から工藤を呼んで、『これ以上古橋に近づくな』って指導しました。それ以来、その件は落ち着いています」
「なるほど。なんか彼の記録の中でそれだけ浮いてる感じがしたんですが、そういう背景があったんですね」
「まあ、本人に悪気はないのは分かってましたが、女子生徒が怖がっている以上、指導しないわけにいかないですからね」
消しゴムを拾ってくれた女の子。
初めての、優しさ。
それが初恋だったのかどうかは分からない。けれど、彼が一生懸命に自分の「好き」を伝えようとして、その結果、「怖い」と拒絶され、教師から「近づくな」と叱責された。

「どんな気持ちだったんだろう……」
自然と口をついて出てしまった。

「まあ、今後ともアイツの話、聞いてやってください。先生に会うようになってからここ2ヶ月くらいですか? 大分落ち着いてるように見えますよ」
佐々木先生が、表情を緩めて言った。

あら、意外と評価してくれてたの?

なんとなく嫌われてるんじゃないかと思ってたのは、私の思い込みだったのかもしれない。
「ありがとうございます。引き続き、関係を作っていきます」
私は頭を下げた。
こうしてこの時の情報交換会は幕となった。

「落ち着いている」という佐々木先生の評価。それはカケルの心が救われたからではなく、単に彼のエネルギーが枯渇し、静かになっただけなのかもしれない。

そんな不安を少し覚えつつも、私は「自分から言い出したとは言え、このサービス残業の埋め合わせ、どこかでしてもらえないかな」と現実的なことを考えながら、夜の学校を後にした。


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最新話です。次回の更新をお待ちください。