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学校はいじめを隠蔽するのは本当か?──構造的限界から考える

いじめ問題が報じられるたびに、「学校はいじめを隠蔽している」「加害者の味方をして被害者を守らない」という批判が起こります。

では、なぜ学校はこれほど批判されているにもかかわらず、いじめを認めたがらないのでしょうか。

本記事では、学校がいじめを隠蔽しているように見える“構造的な理由”を解説し、最後に現実的な解決策を提案します。

世間が考える「学校がいじめを認めたくない理由」は本当か?

一般的に、学校がいじめを認めたがらない理由として次のような説明が挙げられます。

いじめが起こると教員の評価が下がる

出世に響く

学校のイメージが悪くなる

しかし、長年学校と関わってきた私の実感では、これらの説明は妥当性を欠いていると言わざるを得ません。

評価や出世のために隠蔽するという説への反論

「いじめが起こると教員の査定が下がる」という説は、都市伝説に近いと思います。

確かに教員評価制度は存在しますが、給与への影響はごくわずかです。
勤続年数の方が圧倒的に強く、評価が下がったからといって生活が揺らぐような仕組みではありません。

「出世に響く」という意見もありますが、教員の世界で“出世”とは管理職になることです。
しかし、学級経営が上手だからといって管理職になれるわけではなく、研究会や組合活動の方がよほど重要です。

そして何より、現場の教員で管理職になりたがる人は決して多くありません。

教頭は学校で最も勤務時間が長い

校長は自分でコントロールできない責任を常に負う

給与は微増するが、負担は跳ね上がる

子どもと関わる時間はほぼなくなる

教員の多くは「子どもと関わりたい」という理由でこの職業を選んでいます。
こうした現実を知ると、「出世のために隠蔽する」という説明は説得力を失います。

学校のイメージを守るために隠蔽するという説への反論

今の時代、「いじめのない学校など存在しない」というのは世間の常識でしょう。
近年では、文科省も積極的にいじめを認知し、報告するように通達を出しています。

そのため、いじめを隠すよりも、しっかりと報告する学校の方が社会的信頼を得やすい状況です。

事実、いじめ認知件数は年々増加しています。
ですから、イメージのために隠蔽するという説明も、現実とは合いません。

ではなぜ、学校はいじめを認めたがらないのか

ここからが本題です。

私は、学校が意図的にいじめを隠蔽しているとは思っていません。
しかし、実際にいじめが起こっていても、いじめとして認知・報告しないケースが多々あることも事実です。

その理由は、教員の悪意ではなく、構造的に生じる認知の歪みにあります。

いじめは“お互い様”から“勧善懲悪”まで幅広いグラデーションがある

世間では「加害者 vs 被害者」という単純な構図でいじめを捉えがちです。
しかし、現場で見えてくるいじめには、実際には非常に幅広いグラデーションがあります。

その場のノリでやり合っているように見えるケース

関係性が複雑で線引きが難しいケース

片方が圧倒的に弱い立場に置かれ、明確な加害・被害が成立しているケース

つまり、“お互い様”に見える場面から、“勧善懲悪”が明確な場面まで、いじめには幅広い形態が存在します。

そして、ここが重要なのですが、
被害者本人からすれば、自分のケースは圧倒的に「加害者が悪い」と感じられるのが当然です。
その感覚は正しく、軽視されるべきではありません。

ただし、教師がその全体像を瞬時に把握することは難しく、
複雑な関係性の中で「どこからがいじめなのか」を判断するのは容易ではありません。

この“構造的な判断の難しさ”が、いじめの認知を遅らせる一因になっています。

正常性バイアスが働く

正常性バイアスとは、異常事態を「いつものこと」と認識してしまう心理です。
これは倫理観とは関係なく、誰にでも備わっている心理的機構です。

教室は常に騒がしく、大小のトラブルが起こる場所です。
そのため、本来いじめと認知すべき事柄が起こっても、
「いつもの小競り合いだろう」と判断してしまい、“いじめ”として切り出すのは簡単ではありません。

認知的不協和が深刻な影響を与える

ここが最も重要なポイントです。

教師がいじめを認知すると、学校には重い責任が発生します。

調査

書類

会議

保護者対応

教育委員会への報告

メディア対応の可能性

さらに、いじめの構造は複雑で、指導しても解決しないケースが多い。
保護者からのクレームが来ることもあります。

つまり、

「認知したら責任が生じるのに、どう対処していいか分からない」

という状態に教師は追い込まれます。

人間には、自分のコントロールが効かない事態に重大な責任が発生するとき、心を守るために“現実から目をそらす”心理が働きます。
これが認知的不協和です。

この心理が働くことで、深刻ないじめも“日常の範囲内”に押し戻してしまうのです。

いじめ認知件数は増えているのに、なぜ学校は「隠蔽」しているように見えるのか

ここに構造上の重要な問題があります。

そのことを見ていくために、報告されるいじめの中身を見ていく必要があります。

いじめの報告は単に、「こういう事案がありました」では終わりません。
どう対応して、どのように事案が推移していったか、経過も併せて報告されなくてはいけません。

そうなってくると、学校が報告しやすいのは、

・教員が介入すれば止まる
・指導で改善が見込める
・保護者対応が比較的容易

といった、学校が対応可能ないじめです。

一方で、報告されにくいのは、

・関係性が複雑
・指導しても改善しない
・保護者間の対立が激しい
・教員が介入すると事態が悪化する
・学校が責任を負いきれない

といった、学校が対応不可能ないじめです。

つまり、

学校の認知件数が増えていても、それは比較的“対応が容易なケース”であり、
最も深刻で対応できないいじめほど認知されにくくなる。

この構造こそが、
「学校は隠蔽しているように見える」
という世間の印象の正体なのです。

学校は悪意で隠蔽しているのではない

ここまでの流れから私が主張したいのは、

学校はいじめを積極的に隠蔽しているのではなく、正常性バイアスと認知的不協和によって「いじめではない」と本気で思ってしまう。

ということです。

これは教員の倫理観によるものではなく、人間に本能的に備わっている心理的機構によるものです。

もちろん、意図的な隠蔽が起こるケースもゼロではないかもしれません。
しかし、それも上記のような心理的機構に後押しされてのことだと思われます。

つまり、制度が学校に過大な責任を負わせていることの副産物なのです。

学校に「型通り以上の指導」を求めるのは無理がある

ある記事で、学校が型通りの指導しかせず、結果としていじめがエスカレートしたことを批判しているのを見たことがあります。

そのとき私は、

「学校に型通り以上の指導を求めるなよ」

と思いました。

学校は教育の専門機関であって、紛争調停の専門機関ではありません。
家庭間の対立を仲裁するスキルも、いじめの複雑な構造を解きほぐす専門性も持ち合わせていません。

私自身スクールカウンセラーとして多くのいじめ研修に参加し、学校内でできる解決策を模索しました。
しかし痛感したのは、

いじめを学校だけで解決する万能な方法は存在しない

という現実でした。

解決策:いじめ対応は外部の専門機関が担うべき

ではどうすればいいのか。

私は、

いじめ対応を学校から切り離し、外部の専門機関が仲裁・調停を担う仕組みを作るべきだ

と考えています。

イメージとしては、

児童相談所の「いじめ版」

家庭裁判所の調停に近い第三者機関

スクールロイヤーやスクールソーシャルワーカーの拡充

といった形です。

学校は教育に専念し、
いじめの認定・調査・仲裁は専門機関が行う。

このように役割を分けることで、
学校の認知的不協和を減らし、いじめ問題に対する社会全体の対応力を高めることができます。

おわりに

学校がいじめを隠蔽しているように見える理由は、
教員の悪意ではなく、学校という組織の構造的限界にあります。

いじめ問題を本当に解決したいなら、
「学校がもっと頑張れ」という発想ではなく、
学校の外に専門的な仲裁機関を設けるという発想が必要ではないでしょうか。