こころ日誌#28
スーパーサイヤ人とコーヒー牛乳
「それで、そう。一回『カオリと一緒に死ぬ』って言ったことがあって、そのときは流石に僕もキレちゃって。『いい加減にしろ!死ぬなら一人で死ね!カオリを道連れにするな!』って怒鳴っちゃったんですよね。あれが僕ら夫婦の間に決定的に溝ができた事件だったかもしれません」
以前、大雪の日のカオリの告白を思い出す。
父親は語気を強めて続けた。
「今でも思い出すとどうしても腹が立っちゃうんです。カオリがまだ1歳かそこらの話ですよ!」
ひどい修羅場だった様子が想像される。
その事件が山野家の関係を崩壊させるには十分な家族トラウマになっていたということを私は確信した。
それは父親がそのことを語りながら怒りに震えているということからだけで判断しているわけではない。今の場面はカオリからも聞いている場面だ。ということは、カオリが覚えている場面ということになる。1歳かそこらのカオリがだ。
トラウマ治療において、物心つく前の記憶を、催眠状態で呼び起すということがある。
カオリからその話が出たのは、あの大雪の日だった。薪ストーブの火に当たりながら十分にリラックスした状態で、私は両親について聞いた。あのとき、カオリの抑制が取れて、催眠状態と同じようなことが起こっていたのだ。そして、物心つく前の重篤なトラウマの記憶が呼び覚まされたということか。
私はその時の情景を思い浮かべて、自分の胸が締め付けられるのを意識した。そして、ほんの少しの間、その胸の痛みを味わった後、深呼吸してから静かに父親に伝えた。
「山野さん、今、私、本当に胸が張り裂けそうです。山野家のみんなが苦しんでいるのがヒシヒシと伝わってくるんです」
私に共感を伝えられて、父親はどう反応していいのか分からないのかもしれない。何も返事が返ってこない。
私は構わず続けた。
「山野家みんなが傷ついたその場面、皆で克服する必要があるように思います」
父親は怪訝な顔をしながら答える。
「今更ですよ。過去は変えられません」
「確かに過去に起きたことは変えられません。でも、その起きた事実から受けた傷を癒すことはできるはずです」
「どうやって?」
「山野さん。山野さんは今、とても辛い過去の記憶を語ってくれました。記憶の想起に怒りが伴っているの・・・感じますか?」
「そうですね。思い出すとやっぱり怒れちゃいます」
「大丈夫です。その怒りの感覚、今よく味わってみてください。腹が立つと、山野さんの身体はどんな反応をしますか?例えば、顔が紅潮するとか、口のあたりがワナワナするとか」
「なんでしょう。そんなこと、あまり考えたことないですが、今言われたように顔が赤くなるって程ではないです。そこまで怒ってるわけじゃないですが、よく漫画なんかでありますけど、髪の毛が逆立つような感じがすると言うか」
「スーパーサイヤ人みたいな?」
「そうですそうです。って、なんか急にそんな話したら、怒りが薄らいじゃいますね」
そう言って、苦笑いを浮かべる。
私もそれに合わせて笑顔を作り、それから伝えた。
「大丈夫ですよ。今、ちょっと山野さんにとって辛い記憶を想起してもらいました。そしたらスーパーサイヤ人になりそうになりましたね。流石に髪の毛の色は変わりませんが、頭皮がゾワっとしたんだと思います。いいですよ。そしたら、今度は全く逆の、山野さんが落ち着ける情景を思い浮かべてみてほしいんです。山野さんにとって、安心できる記憶、情景、音楽、何でもいいです。それを思い出すと、心が落ち着くな、安心だなっていうもの、何かありますか?」
「え、なんでしょう。急に言われてもちょっと出てこないです」
「もう少し考えてみましょう。何でもいいですよ」
そう伝えてしばらく間を取る。
「そうですねぇ」父親は記憶をたどるように目線を斜め上に向けながら答えた。「ちょっと恥ずかしいですが、子どものころに自分の家族と一緒に行った温泉を思い出しました。なんかとっても落ち着いた記憶があります」
「いいですね、いいですね。その時のことできるだけ思い出して下さい。温泉の風景。どんな温泉でしたか?」
「あれ、北海道だったんですよね。今思えば温泉に含まれる銅のせいだって分かるんですけど、入ると体が青く光るんです。子ども心にすごい面白くて。後、お湯がすごいぬるぬるしてました。そして、そう、温泉から上がって飲んだ瓶のコーヒー牛乳がすごく美味しくて」
まさか、ここでコーヒー牛乳が出てくるとは思いもよらなかった。カオリの顔を思い出しながらも、私は続けた。
「いいですねぇ。すごくいいです。コーヒー牛乳の味、よく思い出していきましょう」
「はい」
「その時の情景を思い浮かべていると・・・どんな気持ちがしますか?」
「なんでしょう。懐かしい感じ。あの頃は平和だったなぁっていう」
「身体でそのときの平和な感じを感じてください」
「はい」
「思い出しながら深呼吸していきましょう。ゆったりと深呼吸しながら、身体の力を抜いて。ご自身の体が安心するのを感じてください」
「はい」
「温泉のぬるぬるしたお湯、青い光。美味しいコーヒー牛乳の味。十分にその感覚を味わっていきましょう」
父親は目を閉じて、私の声に従っている。
私はできるだけ低めの声で、ゆっくりとした口調で伝える。
「身体の力が抜けて、ゆったりとした深い呼吸が楽にできるようになるのを感じてください」
私はそう伝えると時計を見て時間を確認した。「11:37」と表示されている。残り時間は20分と少しだ。
そこから私は2分間時間を取った。
カウンセリングにおいて2分間の沈黙は結構長く感じる。
これが、話題が煮詰まっての沈黙なら、双方にとって、とても苦痛な時間となる。しかし今は父親に安心を感じてもらうための時間だ。私は父親の表情をよく観察するが、あまり変化は見られない。気持ちが表情に出ないタイプのようだ。しかし、表情以外にも、感じている気持ちを伝えてくれる非言語の信号はある。私は、画面越しに見える体の動きをよく観察した。父親の呼吸に合わせて、小さく肩や胸が上下しているのが分かる。そしてそのリズムは父親が一定程度リラックスしている様子を伝えている。
「はい、いいですよ。今とってもリラックスして、心地のいいい時間を過ごしていただきました。では、もう一度、先ほどの場面、奥さんがカオリちゃんと一緒に死ぬって言っていた場面を思い出してください」と教示した。
少し視線を右上にそらすのは父親が何かを考えるときの癖のようだ。
「どんな気持ちですか?」
「なんでしょう。さっきほど腹は立ちませんが、良い気持ちはしないです」
「いいですね。さっきほど腹が立たないというのはとてもいいです。それではさっきの温泉の感覚に立ち戻りましょう」
これはペンデュレーションと呼ばれる技法で、心地の良い記憶と、トラウマ記憶を行き来することで、トラウマ記憶にまつわるネガティブな感情の中和効果を期待している。
「コーヒー牛乳の味を思い出してください」
「なんでしょう。難しいです。さっきは安心する記憶って言われて、思い出せたのですが、今は妻の顔がコーヒー牛乳の味を思い出すのを邪魔する感じと言うか」
「いいです。いいです。嫌な記憶が良い記憶を思い出すのを邪魔するわけですね。それはつまり、逆も起こりうるということです。今はその時のとっても辛かった記憶がまだまだ山野さんの中で強力ですから、嫌な記憶が勝ってしまっている状態です。今、山野さんに必要なのは良い記憶にもっともっと栄養を与えてあげることです。そうすることでコーヒー牛乳がスーパーサイヤ人に勝てるようになります」
「栄養を与えるってどうやってやるんですか?」
「まずは単純に思い出す回数を増やします。何度も何度も思い出すことで、その記憶は確実に太っていきます。そして、その記憶にまつわる別の記憶もどんどん掘り起こしていくのも有効です。例えば、そのときの写真を見たりして、その時にあったこと、感じたことをもっと思い出していきます。後は、実際に風呂上がりにコーヒー牛乳を飲んでみるのもいいと思います。そういうことを繰り返していくと、いい思い出が膨らんでいって、嫌な記憶が沸き上がるのを抑えてくれるようになります」
「そんなもんですかねぇ」
父親の反応には私の話を信用していいのかどうかという迷いが読み取れる。
それも仕方がない。だが、父親が私の教示に従いワークに取り組んでくれたこと、また腹立ちの程度が和らぐ経験をしてもらえたことで、私がセッションの最初に感じていた緊張感は大分薄らいでいた。
以前、大雪の日のカオリの告白を思い出す。
父親は語気を強めて続けた。
「今でも思い出すとどうしても腹が立っちゃうんです。カオリがまだ1歳かそこらの話ですよ!」
ひどい修羅場だった様子が想像される。
その事件が山野家の関係を崩壊させるには十分な家族トラウマになっていたということを私は確信した。
それは父親がそのことを語りながら怒りに震えているということからだけで判断しているわけではない。今の場面はカオリからも聞いている場面だ。ということは、カオリが覚えている場面ということになる。1歳かそこらのカオリがだ。
トラウマ治療において、物心つく前の記憶を、催眠状態で呼び起すということがある。
カオリからその話が出たのは、あの大雪の日だった。薪ストーブの火に当たりながら十分にリラックスした状態で、私は両親について聞いた。あのとき、カオリの抑制が取れて、催眠状態と同じようなことが起こっていたのだ。そして、物心つく前の重篤なトラウマの記憶が呼び覚まされたということか。
私はその時の情景を思い浮かべて、自分の胸が締め付けられるのを意識した。そして、ほんの少しの間、その胸の痛みを味わった後、深呼吸してから静かに父親に伝えた。
「山野さん、今、私、本当に胸が張り裂けそうです。山野家のみんなが苦しんでいるのがヒシヒシと伝わってくるんです」
私に共感を伝えられて、父親はどう反応していいのか分からないのかもしれない。何も返事が返ってこない。
私は構わず続けた。
「山野家みんなが傷ついたその場面、皆で克服する必要があるように思います」
父親は怪訝な顔をしながら答える。
「今更ですよ。過去は変えられません」
「確かに過去に起きたことは変えられません。でも、その起きた事実から受けた傷を癒すことはできるはずです」
「どうやって?」
「山野さん。山野さんは今、とても辛い過去の記憶を語ってくれました。記憶の想起に怒りが伴っているの・・・感じますか?」
「そうですね。思い出すとやっぱり怒れちゃいます」
「大丈夫です。その怒りの感覚、今よく味わってみてください。腹が立つと、山野さんの身体はどんな反応をしますか?例えば、顔が紅潮するとか、口のあたりがワナワナするとか」
「なんでしょう。そんなこと、あまり考えたことないですが、今言われたように顔が赤くなるって程ではないです。そこまで怒ってるわけじゃないですが、よく漫画なんかでありますけど、髪の毛が逆立つような感じがすると言うか」
「スーパーサイヤ人みたいな?」
「そうですそうです。って、なんか急にそんな話したら、怒りが薄らいじゃいますね」
そう言って、苦笑いを浮かべる。
私もそれに合わせて笑顔を作り、それから伝えた。
「大丈夫ですよ。今、ちょっと山野さんにとって辛い記憶を想起してもらいました。そしたらスーパーサイヤ人になりそうになりましたね。流石に髪の毛の色は変わりませんが、頭皮がゾワっとしたんだと思います。いいですよ。そしたら、今度は全く逆の、山野さんが落ち着ける情景を思い浮かべてみてほしいんです。山野さんにとって、安心できる記憶、情景、音楽、何でもいいです。それを思い出すと、心が落ち着くな、安心だなっていうもの、何かありますか?」
「え、なんでしょう。急に言われてもちょっと出てこないです」
「もう少し考えてみましょう。何でもいいですよ」
そう伝えてしばらく間を取る。
「そうですねぇ」父親は記憶をたどるように目線を斜め上に向けながら答えた。「ちょっと恥ずかしいですが、子どものころに自分の家族と一緒に行った温泉を思い出しました。なんかとっても落ち着いた記憶があります」
「いいですね、いいですね。その時のことできるだけ思い出して下さい。温泉の風景。どんな温泉でしたか?」
「あれ、北海道だったんですよね。今思えば温泉に含まれる銅のせいだって分かるんですけど、入ると体が青く光るんです。子ども心にすごい面白くて。後、お湯がすごいぬるぬるしてました。そして、そう、温泉から上がって飲んだ瓶のコーヒー牛乳がすごく美味しくて」
まさか、ここでコーヒー牛乳が出てくるとは思いもよらなかった。カオリの顔を思い出しながらも、私は続けた。
「いいですねぇ。すごくいいです。コーヒー牛乳の味、よく思い出していきましょう」
「はい」
「その時の情景を思い浮かべていると・・・どんな気持ちがしますか?」
「なんでしょう。懐かしい感じ。あの頃は平和だったなぁっていう」
「身体でそのときの平和な感じを感じてください」
「はい」
「思い出しながら深呼吸していきましょう。ゆったりと深呼吸しながら、身体の力を抜いて。ご自身の体が安心するのを感じてください」
「はい」
「温泉のぬるぬるしたお湯、青い光。美味しいコーヒー牛乳の味。十分にその感覚を味わっていきましょう」
父親は目を閉じて、私の声に従っている。
私はできるだけ低めの声で、ゆっくりとした口調で伝える。
「身体の力が抜けて、ゆったりとした深い呼吸が楽にできるようになるのを感じてください」
私はそう伝えると時計を見て時間を確認した。「11:37」と表示されている。残り時間は20分と少しだ。
そこから私は2分間時間を取った。
カウンセリングにおいて2分間の沈黙は結構長く感じる。
これが、話題が煮詰まっての沈黙なら、双方にとって、とても苦痛な時間となる。しかし今は父親に安心を感じてもらうための時間だ。私は父親の表情をよく観察するが、あまり変化は見られない。気持ちが表情に出ないタイプのようだ。しかし、表情以外にも、感じている気持ちを伝えてくれる非言語の信号はある。私は、画面越しに見える体の動きをよく観察した。父親の呼吸に合わせて、小さく肩や胸が上下しているのが分かる。そしてそのリズムは父親が一定程度リラックスしている様子を伝えている。
「はい、いいですよ。今とってもリラックスして、心地のいいい時間を過ごしていただきました。では、もう一度、先ほどの場面、奥さんがカオリちゃんと一緒に死ぬって言っていた場面を思い出してください」と教示した。
少し視線を右上にそらすのは父親が何かを考えるときの癖のようだ。
「どんな気持ちですか?」
「なんでしょう。さっきほど腹は立ちませんが、良い気持ちはしないです」
「いいですね。さっきほど腹が立たないというのはとてもいいです。それではさっきの温泉の感覚に立ち戻りましょう」
これはペンデュレーションと呼ばれる技法で、心地の良い記憶と、トラウマ記憶を行き来することで、トラウマ記憶にまつわるネガティブな感情の中和効果を期待している。
「コーヒー牛乳の味を思い出してください」
「なんでしょう。難しいです。さっきは安心する記憶って言われて、思い出せたのですが、今は妻の顔がコーヒー牛乳の味を思い出すのを邪魔する感じと言うか」
「いいです。いいです。嫌な記憶が良い記憶を思い出すのを邪魔するわけですね。それはつまり、逆も起こりうるということです。今はその時のとっても辛かった記憶がまだまだ山野さんの中で強力ですから、嫌な記憶が勝ってしまっている状態です。今、山野さんに必要なのは良い記憶にもっともっと栄養を与えてあげることです。そうすることでコーヒー牛乳がスーパーサイヤ人に勝てるようになります」
「栄養を与えるってどうやってやるんですか?」
「まずは単純に思い出す回数を増やします。何度も何度も思い出すことで、その記憶は確実に太っていきます。そして、その記憶にまつわる別の記憶もどんどん掘り起こしていくのも有効です。例えば、そのときの写真を見たりして、その時にあったこと、感じたことをもっと思い出していきます。後は、実際に風呂上がりにコーヒー牛乳を飲んでみるのもいいと思います。そういうことを繰り返していくと、いい思い出が膨らんでいって、嫌な記憶が沸き上がるのを抑えてくれるようになります」
「そんなもんですかねぇ」
父親の反応には私の話を信用していいのかどうかという迷いが読み取れる。
それも仕方がない。だが、父親が私の教示に従いワークに取り組んでくれたこと、また腹立ちの程度が和らぐ経験をしてもらえたことで、私がセッションの最初に感じていた緊張感は大分薄らいでいた。