こころ日誌#29
説得
しかし、ここで不意に父親は、
「妻や娘ともこういうことをしているんですか?」
と聞いてきた。
父親がどういう意図で質問しているのか計りかねた私は再び緊張を覚える。
「奥さんとカオリちゃんはお越しいただいていますので、もっと直接的に安全を体感してもらうワークをしています」
やや構えてしまった私は、言い訳めいた返答になったかもしれない。
「いろんなやり方があるんですね」
「そうですね。心の傷を癒す方法はたくさんあります。是非山野さんにも体験していただきたいと思っています」
時間を見ると、残り時間は10分を切っている。残りの時間で、今後の方針について提案して、合意を得なくてはならない。
そんなことを考えながら、
「今日お話伺えて本当に良かったです。私としては、ご家族のトラウマを明確にしていただいたと思っています。お父さんにもお母さんにも、そしてカオリちゃんにもその時のこと、とっても大きく影を落としていると思うんです。どうでしょう。私としてはお父さんもカウンセリングに参加していただいて、しっかりと克服していければと思うのですが、どう思われますか?」
私はこう問いかけた。
しかし父親は乗り気な表情ではない。
「ん~正直に言いますと、まだ半信半疑です。僕もってことになると、また余分にお金かかりますよね。僕自身が困っているのは妻のことであって、妻がもう少し穏やかになってくれればいいわけですから」
父親の答えはある意味普通の人の感覚なのかもしれない。最初にカオリの不登校問題を私に丸投げしてきた母親もそうだった。自分の問題を扱わずに周りが変わってくれるならこんな楽なことはない。
「もちろんお金の問題もあるのは分かります。ですが、私から見てですが、奥さん、以前より大分柔らかくなったように思います。ご家庭ではそうでもないですか?」
「どうでしょうか。ちょっと分かりません」
毎日接しているようで、会話がない夫婦である。あまり変化に気づかないのか、それとも家では本当に変わっていないのか定かではないが、私は続けた。
「奥さんの状態を改善するためにも、山野さんには奥さんのうつ状態について、もっと詳しく知っていただく必要があると思うんです。今日お話していて、山野さんが奥さんに対してとても複雑な感情を持っていらっしゃることが伝わってきました。特に、奥さんに対してイライラしてしまうのもよく分かります。でも、奥さんも、それを何とか改善しようと、ご自身の問題に本当に一生懸命取り組んでくれています。そして、それをカオリちゃんがとっても一生懸命手助けしようとしてくれているんですよ」
私は、カオリの無意識が家族を再生しようと懸命になっていることに思いを馳せ、目頭がやや熱くなる。
「カオリちゃん、お父さんのことを聞くと、いつも、優しいって言ってくれるんですよ。お父さん、カオリちゃんが好きな飲み物何か知っていますか?」
私はかなり前にカオリから聞いたことを思い出していた。
「え~、なんですかね。家では特に何を好んで飲んでるかちょっと分からないです」
私はどうしてもカオリへの感情移入を止められないでいる。
「カオリちゃん、コーヒー牛乳が好きなんです。僕も今日、お父さんのお話を聞いてびっくりしました。お父さんが安心した思い出に出てきたコーヒー牛乳。どうつながったのかは私にもわかりません。でも、偶然とは思えません」
「それは確かに不思議ですね。でも、家で僕そんなの飲んだ記憶ないですから、偶然だと思いますよ」
「そうかもしれません。でも、カオリちゃんがお父さんとお母さんのこと、とっても大好きで、仲良くしてほしいって思っている。そのためにお父さんにもカウンセリングを受けてほしいと思っていること・・・伝わりますか?」
私は最初に感じていた緊張も忘れ、普段の受容的なカウンセリングの態度でもなく、説得モードに入っている。
「鈴木さんが言わんとしていることは分かります。でも、今更妻と仲良くって言われても、ちょっとどうしていいか分からないですね」
父親は戸惑いながら答えた。
「仰ること、とてもよく分かります。今までずっと続いてきた関係はそう簡単には変わらないと思いますよね。奥さんも同じように言ってました。でも、だからこそのカウンセリングです。カオリちゃん、最初はお父さんのことを誘うこと自体無理って言ってたんですよ。でも、誘ってくれた。とっても勇気が要ったと思うんです。でも、その勇気を出してくれた。希望を見出してくれたんです。カオリちゃんがようやく見出した希望に、応える努力をしてくれませんか?」
カオリをダシに説得するのはカウンセラーの態度として批判されるかもしれない。しかし、私はこのときどうしても、父親をカウンセリングの構造に取り込む必要性を感じていた。
困ったような顔を見せる父親を私はジッと射抜くように見つめた。
短い沈黙の後、父親は深いため息をついた。
「・・・分かりました」
それまでの平坦な声のトーンから読み取れなかった感情が、ここにきてやや変化し、観念したような響きにも聞こえる。
「鈴木さんの熱意が伝わってきましたし、なによりカオリの期待を裏切れません。よろしくお願いします」
私は無意識に顔がほころんでいたかもしれない。確かに父親を説得出来て嬉しかったのだ。
私は自然と
「ありがとうございます」
と伝えていた。
こうして父親との最初の面接は終了の時間を迎えた。
意外なことに、父親は、次回の予約について来週、またZoomで会う選択をした。カオリたちの面接は隔週であるが、渋っている父親が一週間後に予約を入れたのである。カウンセリングに対する期待感があるのか、もしくは面倒なものは早めに終わらせたい質なのか。後者の可能性が高いと思うが、それはそれでいい。密なカウンセリングで父親との関係を深めていけることに私は期待する。
父親が退室し、画面がブラックアウトしたのを確認した後、私も退室ボタンを押してZoomを閉じた。
何度も経験してきたつもりだが、それでも緊張感の強いカウンセリングには疲労感を伴う。私は駄々下がった血糖値を上げるべく、珍しくコーヒーに砂糖とミルクを入れて記録を書く準備をした。
記録を書きながら同時に反省もする。カオリを出汁に父親を説得したことで、一応の合意を取り付けた。しかしあくまでも形の上である。カウンセリングとは本来、クライアントに共感することに徹し、クライアントの自発的行動を促すものである。
「これは説得であってカウンセリングではない」
10年以上前に参加した事例検討会で、高名な臨床心理士の先生が言っていたセリフが思い出される。今回の私のケースもその検討会に出したら同じように言われるのだろう。
一方で別のまたやり手のカウンセラーが「カウンセリングは説得です」と言っているのを聞いたこともある。
が、私は基本的にはやはりカウンセリングは説得の場ではないと考えている。なぜかと言うと、説得に応じてくれたクライアントは後のセッションでカウンセラーに責任を求めるようになるからだ。「あのとき、あなたにこう言われたから私はこうしたんだ」と。カウンセリングの中で伝えていることに自信がないわけではない。だが、カウンセラーが決定の主導権を握ってしまうと、仮に目先の困難を上手く乗り越えたとしても、クライアントの成長につながりにくく、変化が持続しにくいのだ。私に求められているのは不登校になってまでカオリが望んだこと。家族の再生を手助けすることだ。やはり反省点は残る。そんなことを考えながらセッションをまとめ、アセスメントと方針を書く。
アセスメント
・母親がもともと持っていた自己否定感を父親も取り込み、母親を否定するようになった。それが、更に母親のエネルギーを奪うという悪循環を作り出している。
・子どもの頃の北海道の温泉旅行の記憶がリソースとして出てきて、あの頃は平和だったと言っているあたり、父親の子ども時代には健全さがあったようだ。
方針
・父親が母親の自己否定感を取り込まざるを得なかった背景に光を当て、父親が納得する形で母親との関係を修復できるよう、まずは個別面接を行う。
「妻や娘ともこういうことをしているんですか?」
と聞いてきた。
父親がどういう意図で質問しているのか計りかねた私は再び緊張を覚える。
「奥さんとカオリちゃんはお越しいただいていますので、もっと直接的に安全を体感してもらうワークをしています」
やや構えてしまった私は、言い訳めいた返答になったかもしれない。
「いろんなやり方があるんですね」
「そうですね。心の傷を癒す方法はたくさんあります。是非山野さんにも体験していただきたいと思っています」
時間を見ると、残り時間は10分を切っている。残りの時間で、今後の方針について提案して、合意を得なくてはならない。
そんなことを考えながら、
「今日お話伺えて本当に良かったです。私としては、ご家族のトラウマを明確にしていただいたと思っています。お父さんにもお母さんにも、そしてカオリちゃんにもその時のこと、とっても大きく影を落としていると思うんです。どうでしょう。私としてはお父さんもカウンセリングに参加していただいて、しっかりと克服していければと思うのですが、どう思われますか?」
私はこう問いかけた。
しかし父親は乗り気な表情ではない。
「ん~正直に言いますと、まだ半信半疑です。僕もってことになると、また余分にお金かかりますよね。僕自身が困っているのは妻のことであって、妻がもう少し穏やかになってくれればいいわけですから」
父親の答えはある意味普通の人の感覚なのかもしれない。最初にカオリの不登校問題を私に丸投げしてきた母親もそうだった。自分の問題を扱わずに周りが変わってくれるならこんな楽なことはない。
「もちろんお金の問題もあるのは分かります。ですが、私から見てですが、奥さん、以前より大分柔らかくなったように思います。ご家庭ではそうでもないですか?」
「どうでしょうか。ちょっと分かりません」
毎日接しているようで、会話がない夫婦である。あまり変化に気づかないのか、それとも家では本当に変わっていないのか定かではないが、私は続けた。
「奥さんの状態を改善するためにも、山野さんには奥さんのうつ状態について、もっと詳しく知っていただく必要があると思うんです。今日お話していて、山野さんが奥さんに対してとても複雑な感情を持っていらっしゃることが伝わってきました。特に、奥さんに対してイライラしてしまうのもよく分かります。でも、奥さんも、それを何とか改善しようと、ご自身の問題に本当に一生懸命取り組んでくれています。そして、それをカオリちゃんがとっても一生懸命手助けしようとしてくれているんですよ」
私は、カオリの無意識が家族を再生しようと懸命になっていることに思いを馳せ、目頭がやや熱くなる。
「カオリちゃん、お父さんのことを聞くと、いつも、優しいって言ってくれるんですよ。お父さん、カオリちゃんが好きな飲み物何か知っていますか?」
私はかなり前にカオリから聞いたことを思い出していた。
「え~、なんですかね。家では特に何を好んで飲んでるかちょっと分からないです」
私はどうしてもカオリへの感情移入を止められないでいる。
「カオリちゃん、コーヒー牛乳が好きなんです。僕も今日、お父さんのお話を聞いてびっくりしました。お父さんが安心した思い出に出てきたコーヒー牛乳。どうつながったのかは私にもわかりません。でも、偶然とは思えません」
「それは確かに不思議ですね。でも、家で僕そんなの飲んだ記憶ないですから、偶然だと思いますよ」
「そうかもしれません。でも、カオリちゃんがお父さんとお母さんのこと、とっても大好きで、仲良くしてほしいって思っている。そのためにお父さんにもカウンセリングを受けてほしいと思っていること・・・伝わりますか?」
私は最初に感じていた緊張も忘れ、普段の受容的なカウンセリングの態度でもなく、説得モードに入っている。
「鈴木さんが言わんとしていることは分かります。でも、今更妻と仲良くって言われても、ちょっとどうしていいか分からないですね」
父親は戸惑いながら答えた。
「仰ること、とてもよく分かります。今までずっと続いてきた関係はそう簡単には変わらないと思いますよね。奥さんも同じように言ってました。でも、だからこそのカウンセリングです。カオリちゃん、最初はお父さんのことを誘うこと自体無理って言ってたんですよ。でも、誘ってくれた。とっても勇気が要ったと思うんです。でも、その勇気を出してくれた。希望を見出してくれたんです。カオリちゃんがようやく見出した希望に、応える努力をしてくれませんか?」
カオリをダシに説得するのはカウンセラーの態度として批判されるかもしれない。しかし、私はこのときどうしても、父親をカウンセリングの構造に取り込む必要性を感じていた。
困ったような顔を見せる父親を私はジッと射抜くように見つめた。
短い沈黙の後、父親は深いため息をついた。
「・・・分かりました」
それまでの平坦な声のトーンから読み取れなかった感情が、ここにきてやや変化し、観念したような響きにも聞こえる。
「鈴木さんの熱意が伝わってきましたし、なによりカオリの期待を裏切れません。よろしくお願いします」
私は無意識に顔がほころんでいたかもしれない。確かに父親を説得出来て嬉しかったのだ。
私は自然と
「ありがとうございます」
と伝えていた。
こうして父親との最初の面接は終了の時間を迎えた。
意外なことに、父親は、次回の予約について来週、またZoomで会う選択をした。カオリたちの面接は隔週であるが、渋っている父親が一週間後に予約を入れたのである。カウンセリングに対する期待感があるのか、もしくは面倒なものは早めに終わらせたい質なのか。後者の可能性が高いと思うが、それはそれでいい。密なカウンセリングで父親との関係を深めていけることに私は期待する。
父親が退室し、画面がブラックアウトしたのを確認した後、私も退室ボタンを押してZoomを閉じた。
何度も経験してきたつもりだが、それでも緊張感の強いカウンセリングには疲労感を伴う。私は駄々下がった血糖値を上げるべく、珍しくコーヒーに砂糖とミルクを入れて記録を書く準備をした。
記録を書きながら同時に反省もする。カオリを出汁に父親を説得したことで、一応の合意を取り付けた。しかしあくまでも形の上である。カウンセリングとは本来、クライアントに共感することに徹し、クライアントの自発的行動を促すものである。
「これは説得であってカウンセリングではない」
10年以上前に参加した事例検討会で、高名な臨床心理士の先生が言っていたセリフが思い出される。今回の私のケースもその検討会に出したら同じように言われるのだろう。
一方で別のまたやり手のカウンセラーが「カウンセリングは説得です」と言っているのを聞いたこともある。
が、私は基本的にはやはりカウンセリングは説得の場ではないと考えている。なぜかと言うと、説得に応じてくれたクライアントは後のセッションでカウンセラーに責任を求めるようになるからだ。「あのとき、あなたにこう言われたから私はこうしたんだ」と。カウンセリングの中で伝えていることに自信がないわけではない。だが、カウンセラーが決定の主導権を握ってしまうと、仮に目先の困難を上手く乗り越えたとしても、クライアントの成長につながりにくく、変化が持続しにくいのだ。私に求められているのは不登校になってまでカオリが望んだこと。家族の再生を手助けすることだ。やはり反省点は残る。そんなことを考えながらセッションをまとめ、アセスメントと方針を書く。
アセスメント
・母親がもともと持っていた自己否定感を父親も取り込み、母親を否定するようになった。それが、更に母親のエネルギーを奪うという悪循環を作り出している。
・子どもの頃の北海道の温泉旅行の記憶がリソースとして出てきて、あの頃は平和だったと言っているあたり、父親の子ども時代には健全さがあったようだ。
方針
・父親が母親の自己否定感を取り込まざるを得なかった背景に光を当て、父親が納得する形で母親との関係を修復できるよう、まずは個別面接を行う。