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『こころ日誌・インスペクシオ』#6 夜の情報交換会

『こころ日誌・インスペクシオ』#6 夜の情報交換会

夜の情報交換会

空一面の分厚い雨雲が、9月の18時30分という時間帯を季節外れに暗くしている。やすらぎルームへの今日最後の来客が去り、私はクリップボードに挟んだA4の紙の上にボールペンを走らせていた。
今日の7ケース分、頭の離人感を訴えた子から始まって、時間内に書ききれなかった記録を仕上げなくちゃいけない。
本来、ケース終了後すぐに書きたいけど、ケースごとに間が長くて5分、少ないとまだ目の前に相談者がいるのに、次の相談者がドアをノックするということもある。ひとケースごと丁寧に振り返りながら記録を書く時間なんか取れなかった。

――プルルルル、プルルルル

相談室内の内線電話が鳴る。
書きかけの記録をいったん置き、受話器を取った。
「はい、やすらぎルームです」
電話の向こうから聞こえるのは女性の声だ。
「お疲れ様です。田中です。工藤の件で打合せいいですか?」
「えっと......10分だけ待ってもらえますか。できるだけ早く行きます」
「わかりました。2年3組の教室を使います。待ってますね。急がないでいいですよ」
田中先生は落ち着いた声でそう言った。
勤務時間が終了する19時が近づいていた。
大急ぎで記録を書き終えた私は、階段を降り、2年3組を目指す。
生徒たちがいなくなった廊下は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っている。
まだ日が完全に落ちていないとは言え、一部屋だけ明かりがついている教室は、照明が完全に落とされた廊下とのコントラストでひと際明るく見える。

「お待たせしました。加納入ります」

そう言って教室に入ると、田中先生と金井先生、そして、もう一人若い男性教師が一斉にこちらに視線を向ける。雑談しながら私を待っていてくれたようだ。
「お疲れ様です。今日もケースいっぱいいっぱいで疲れましたよね。まずは一休みしてください。どうぞ」
そう言うと、金井先生は私の方にチョコレートクッキーが乗った右手を差し出した。

「ありがとうございます。嬉しいです」
私が甘いものに目がないのは金井先生にはお見通しよね。

個包装の包みを開けつつ、破片がこぼれないように、包みの中で小さく割り、ひとかけら口にする。クッキーの甘さが口全体に広がると、金井先生のお母さん的な優しさが伝わってくるようで、一日の疲れが癒されるのを感じる。

私がそれを実感しているのを待ってくれている3人に気づき、「あ、すみません。工藤くんの件ですね」と私から本題を振った。
「どうでしたか」
そう私に聞いてきたのは安井先生という男性教師。カケルの担任だ。年は私と同じくらいだろうか。
「えっと...、率直に言って難しいですね。あんまり話してくれませんでした」
私が隠さずに伝えると、
「まぁ、初回ですからね。でも、どんな様子でしたか?」
と私をフォローしてくれたのは田中先生だ。
「なんか、アスペルガーがナチスの優生思想で殺されるとか言ってましたけど、ちょっと意味が分かりませんでした」
それに対して安井先生が言う。
「あぁ、それ、僕も聞いたことあります。あいつの受け売りなんすよ。アスペルガー症候群って、名前のもとになった人がいて、その人がナチスに傾倒してて、発達障害の子を鑑別して殺してたとかなんとか」
そんな話は初めて聞いた。本当だろうか。
「そうなんですね。でも、話してみて、普通に会話できる感じじゃなかったです。途中から頭抱えて黙り込んじゃって......」
「そうですか」と田中先生。
口には出さないが失望されたようで、申し訳なく感じる。
それを感じ取ったのか、今度は安井先生がフォローを入れてくれる。
「あいつのワールドっすからね。工藤ワールド。宇宙語で話しているみたいに感じませんでした?」
ワールド......周りと違う独特の空気。
「昼間の連絡会でも少し話題に出しましたが、彼って診断ついてないんですね。今まで中学とかでも見過ごされてきたんでしょうか」
私が聞くと田中先生が答える。
「いや、通級指導を受けていたので、完全に見過ごされてたわけじゃないんだと思うんですが」
「ちょっとちゃんと精査して、必要なら受診を勧めてみるのってどうでしょうか」
この私と田中先生のやり取りに、安井先生も加わってくる。
「え~っと、その場合親に言わないといけないっすよね」
「そうですね」
「僕から言うの、ちょっと厳しいなぁ。この前お父さんすごく怒って学校に文句言ってたんすよ。今回の工藤の指導について、学校が悪いみたいに。そんなだから、病院に行けなんて言ったら、余計に火に油っぽくないすか」
「そうですか......でも、本人が、自分はアスペだって受け売りしてるんですよね。それに、中学で通級を受けてたわけですから、親御さんもなんらか、カケルくん本人の特性について、思うところあるんじゃないですか」
「あぁ、なるほど」
「分かりました。私も同席して伝えます。前回、保護者召喚したときは、生徒指導案件でしたから、佐々木先生と安井先生で話してもらいました。佐々木先生、一学期の指導のこともあって、結構保護者にも強めに言ったみたいなんですよ。それが、保護者の怒りに火をつけた側面もあると思うんです。私が入って仕切りなおします」
と田中先生。ときおり見せる学年主任としてのリーダーシップに能力の高い人なんだろうと感心させられる。
「お願いします。必要であれば、保護者の方のフォロー面談入れてもらえるといいと思います」
「そうですね。お願いします」
ここで金井先生が口を開いた。
「工藤くん本人のカウンセリングは次回はどうなりますか?」
この問いかけに私は一瞬固まる。
カケルは面接中ずっと黙ってた。そして、終了を告げるチャイムが鳴るとすぐに、すくっと立ち上がって、出てっちゃった。私はまともな会話を交わすことすらできなかった。
「えっと、ごめんなさい。ちょっとそういう話できてなくて。でも、本人に聞いてもらって継続の意向があれば、是非予約入れてください」
「いえ、本人は特別指導に入っていますから、佐々木先生は強制的に受けさせると言っています」と金井先生。
「あ、そうなんですね」
「でも、カウンセリングって本来強制的に受けさせられるものじゃないですよね。どう思いますか?」
「あぁ、そうですね」
あぁ、完全に思考が後手に回ってる...今日一日の疲れのせいにしたい。
「やっぱり本人、強制されても、今日みたいに話せないかもしれないです。でも、なんとかつながりたいですね」
私は今日の失敗を挽回したい気持ちからか、冷たいカウンセラーと思われたくなくて見栄を張ったのか分からないが、そう言っていた。
「分かりました。保健室にはよく来ますから、それとなく本人の意向を聞いてみますね」
「じゃ、私の方からは両親に病院受診を勧めて、金井先生が工藤の意向を確認するってことでいいですね」と田中先生がまとめに入る。
「ありがとうございます。佐々木先生にも今日のことお伝えした方が良いですか?」
私が聞くと、「私から伝えておきますよ。勤務時間過ぎてるのにごめんなさいね」との返事。
見ると時計は20時を回ろうとしていた。

帰り道、私は地下鉄に揺られながら考えていた。

田中先生、勤務時間を過ぎてることを労ってくれたな...

私が学校を出たのは20時15分。正規時間から1時間15分オーバーだ。
でも、田中先生たちはその後も学校に残ってる。正規の勤務時間は17時までなのに。学校現場の過酷さにはいつも圧倒される。
何時まで仕事するんだろう......。

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