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『こころ日誌・インスペクシオ』#5 工藤カケルという生徒

工藤カケルという生徒

「やすらぎルーム」にたどり着いたとき、私は少し息が乱れているのを感じた。吹き出る汗をハンカチで拭う。4階建て校舎の最上階一番奥にあって、この校舎内では、職員室からは一番遠い場所。1~3階は各学年のフロア、4階は主に特活室が配置されている。人目に付きにくいから、周りに見られたくない生徒も入りやすいようにっていう配慮なんだけど、職員室との往復が多い私には、最も不便な場所だ。生徒が来る前に部屋を開けて準備しないといけないと思って、足早で階段を上がったけど、20代も半ばを過ぎて、もう四捨五入したら30になっちゃう。
(……体力落ちてきたなぁ)
登録しているジムの通い放題も、最近あんまり行けていない。そのことを思い出すと、情けない気持ちになるけど、すぐにその気持ちは頭の外に追いやって、部屋の鍵を開けた。

入室すると、まずはエアコンのスイッチを入れる。直に冷えてくるだろうけど、一番最初のケースには間に合わないのは仕方ない。最上階の部屋だから、外から見られる心配はない。春先なら窓を開けると心地いい風が入って気持ちいいんだけど、今はまだ真夏と言っていい9月初旬。室内の温度を上げないようにカーテンは締め切ったままにしておこう。どうせ今日は雨模様だし。

一つ目のケースはお昼休みの時間帯、3年生女子生徒と一緒にお弁当を食べながらの相談だった。
教室にいると、なんだか世界に幕がかかって見えて、自分がその現場にいないような感じがするんだそうだ。受験が近づいてきて、ストレスを溜めてるんだろう。
満足に記録を書く時間はないので、取り敢えず「主訴:離人感」とだけメモ書きする
と、すぐに5時間目の始まりを知らせるチャイムが鳴る。

――コンコン

ドアをノックする音。
「もう来ちゃったの?まだ今のケースが終わったばかりなのに」
焦る気持ちと共に、『生徒指導案件』という予定表の文字を思い出す。
私は引き戸を開けて、扉の外を確認した。

詰襟シャツに学生ズボンを着崩すことなくキチンと着て、やや猫背、髪の毛も刈り上げていて長くも短くもない、そして、ヒョロヒョロという表現がピッタリな男子生徒がそこに立っていた。
身長は170台後半くらいだろうか。

「こんにちは、工藤カケルくんですね」

身長160㎝の私が見上げつつ声をかけると、ニソッと笑いうなずく。

「いつかすごい犯罪を犯しちゃったりしないかって心配になります」
金井先生の言葉が思い出される。

……確かにちょっと怖いかも。
一瞬そう思ってしまう自分を自戒し、部屋に招き入れた。

「はじめまして。カウンセラーの加納さゆりっていいます。よろしくお願いします」

挨拶をして部屋の中央にある応接ソファーに座るように促す。
どこかぎこちない動きで椅子に座るが、こちらに目を合わせることはなく下を向いている。

「今日は初めてカウンセリングに来てくれましたね。先生からはカウンセリングってどんなところだって聞いてますか?」
「アァ......はな、話してこいって言われた」
物静かな口調で、呟くような返事。
初めて聞くカケルの声は低く、少ししゃがれていた。
「話してこいって言われたんですね。この部屋はどんなことでもお話してくれていいところです。工藤くん、何かお話したいことありますか?」
私の問いかけにカケルはすぐには答えない。
床の一点を見つめたまま険しい顔をして、手をモジモジと動かしている。

ん?
皮が剥けてボロボロになった指...。
金井先生の言葉を思い出す。

「あの...あの..カ、カウンセラーって嘘臭いと思う。ど、どうせ表面的に『うんうん』って話聞くだけでしょ。アァ......なんでこんなところ来ないといけないんだ......」
そう言って頭を抱えるカケル。

いきなり全否定?それも吃音がある様子。
なんて返したらいいんだろう。顔がひきつってしまったかもしれない。
「そう思うんですね。でも、工藤くんが学校生活で困ってることがあるなら、どうしたらいいのか、一緒に考えたいって思うんだ」
なんとか、つながれないかと思ってそう伝えると、

「オレはアスペルガーだから...殺されないといけないんだ...」

急にとんでもないことを言い出した。

「え?どういうこと?」

びっくりして私が聞くと、
「アァ...アスペルガー症候群はナチスの優生思想に忠誠を誓っていたハンスアスペルガーが健常者と切り分けた障害者を殺すために作った障害名だから。アスペルガー症候群の子はシュピーゲルグルント施設で殺されるんだ...」

と言ってまた頭を抱えた。

この子は何を言っているんだろう。
アスペルガー症候群という言葉は一昔前の言い方で、今は自閉症スペクトラム障害や神経発達症って言い方をする。それにナチスとかって、意味が分からない。

「大丈夫ですよ。あなたは安全ですからね」と声掛けするが、
「アァ...アァ!」
と大きめに声を発したかと思うと、息が荒くなり、次第に肩で息をするようになる。

この子は......どういう子なんだろう???

「落ち着いて。大丈夫だから!」
私は何をしていいか分からないで、とにかく彼をなだめようとした。
すると、カケルは頭を抱えたまま動かなくなった。

......。
「カケル......くん?」

呼びかけても反応がない。

えっと......、人間の行動には絶対ABCサイクルがあるはず。何かきっかけがあって、カケルは強く殺されるって思いこんでしまった。その結果今、頭を抱え込んでいる。彼を開放するにはそのサイクルを断ち切らねば。
でも......きっかけって何???
わかんないよ。
どうしたらいいの???

長い沈黙が場を支配した。
私はただ黙って待つしかなかった......チャイムが鳴って彼との面接の時間が終わるのを。

エアコンが大分効いてきて、外の蒸し暑さとは切り離されたこの部屋にも、窓の外で吹く強い風と、やはり降り出したのであろう雨の音がよく聞こえていた。

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