BLOG ブログ

子どもが「死にたい」と訴えたら──傾聴というテクニックの危うさ

「カウンセラーが傾聴モードに入ったのを感じると、一気に話す気が失せる。」

最近Xでこんな投稿を見つけました。
そしてその投稿は私にあるエピソードを思い出させました。
中学生の保護者向けの講演会でのことです。
私は聴衆に問いかけました。
「もし、あなたのお子さんが『死にたい』と訴えたら、どう返しますか?」
いくつかの選択肢を挙げたところ、圧倒的に多かったのが「死にたいくらい辛いんだね」という返答でした。
一見、共感的で、正しい対応のように思えます。
今の保護者の方々は、子育てについてよく学んでおられます。
「カウンセリングマインド」や「傾聴のテクニック」といった言葉も、子育てマニュアルや育児書の中でよく見かけるようになりました。
そうした情報に触れているからこそ、「こう返すのが正解」として、「死にたいくらい辛いんだね」という言葉を選んだのではないかと感じたのです。
けれど、冒頭の投稿のように、こうした“正解”の返答が、かえって子どもの心を遠ざけてしまうことがあるのではないか──そんな危惧を抱かずにはいられません。

傾聴が“テクニック”に見えるとき

なぜ、傾聴されると話す気が失せるのでしょうか。
それは、相談者が「傾聴されている」と感じた瞬間に、それが“テクニック”として見えてしまうからではないでしょうか。
臨床心理学では、「反射」「言い換え」「明確化」などの技法が傾聴の基本として教えられます。
たとえば──
- 「すごくつらいんです」に「とっても辛いですよね。お気持ちよく分かります」
- 「とても怒れちゃいます」に「うんうん、それは腹立ちますよね」
こうした返答は、教科書的には“正解”とされます。
「死にたい」に対して「死にたいくらい辛いんだね」と返すのも、まさにその一つです。
けれど、こうした言葉がそのまま口をついて出たとき、相談者はしばしば違和感を覚えます。
それは、返答に魂が感じられないからです。
魂のこもっていない返答は、相談する側にしてみれば、与えられたセリフを読む役割を演じているにすぎないと感じさせます。

傾聴とは“態度”である

本来、傾聴や共感とは、定型文を返すことではありません。
「こう言われたら、こう返す」という反応ではなく、
相手の気持ちを、その人の一部として大切に受けとめる“態度”のことです。
「死にたい」と訴える子どもに「そんなに辛いんだね」と返すとき、
そこに「自分も同じ立場だったら、そう感じるかもしれない」という肌感覚が伴っているかどうか。
その実感がなければ、その言葉はただの“セリフ”になってしまいます。
魂のこもっていない言葉は、相手の心に届きません。
そして、「もうこの人には話したくない」と感じさせてしまうのです。

困ることを厭わないということ

私は、相談を受ける側にとって最も大切なのは、「困ることを厭わない姿勢」だと考えています。
「なるほど、そんなにつらいんだね」という言葉が、
相談者を黙らせるための“処理”になってしまっては、本末転倒です。
その言葉が、相談者の苦しみに寄り添い、
「この人は一緒に困ってくれる人だ」と感じさせるものであるとき、
傾聴はテクニックではなく、態度になります。
テクニックは、与えられた役割を演じるもの。
態度は、その人自身の実感と誠意が伴うものです。