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『こころ日誌』舞台裏その6

夫婦合同面接の「賭け」とコーヒー牛乳の魔法

前回は、カオリが目標を見失い、カウンセリングが停滞したかのように見えたところまでをお話ししました。
今回はそこから、夫婦合同面接という最大の山場を一気に解説していきます。
なぜカウンセラーはあそこまで父親を追い詰めたのか? そして、唐突に登場した「コーヒー牛乳」の意図とは?
その舞台裏をお伝えします。

1. 夫婦合同面接の条件と「安全の確保」(第37話)

いよいよ隆志ととも子が揃って来談する第37話です。
ここで私はまず、「この場がどういう場であるか」を定義し、ルールの確認を徹底しています。
実は、夫婦カウンセリングというのは、どんな夫婦にでも適用できるわけではありません。
「二人とも関係を良くしたいという意思があるけれど、どうしていいか分からない」
この条件が揃った時に初めて、合同面接は功を奏します。
逆に言えば、どちらか一方が完全に愛想をつかしていて修復の意思がない場合や、DVの危険性が高い場合などは、私は合同面接という構造はとりません。かえって傷つけ合う場になってしまうからです。
今回、この場をセッティングできたのは、前回までの2回のオンライン面接を通じて、隆志の中に「とも子と向き合いたい」という意思があることを確認できていたからです。それがなければ、このリスクのある場を作ることはできませんでした。
そして、面接の冒頭で私はこう約束してもらいました。
「お互いをできるだけ責めないこと、冷静に話し合うこと」
これは単なるマナーの話ではありません。カウンセリングにおいて何よりも優先されるべき「心理的安全性」の確保です。
この約束を取り付けられたのは、その場での口約束だけでなく、事前の個別面接という「下準備」があったからこそ機能した枠組みなのです。

2. 「理想の押し付け」と「受け身の愛」(第38話)

2. 「理想の押し付け」と「受け身の愛」(第38話)
次に38話では夫婦の馴れ初めを聞いています。
作中では結婚願望の強い隆志からグイグイ迫って、とも子はそれに流されるように交際、妊娠、結婚に至った経緯が語られます。
これは、後の「理想の母親像を投影した隆志」と「それに応えようとして苦しくなっていくとも子」という構図を描く上で、重要な伏線でした。
まず、隆志が一目惚れしたとも子にアプローチした点。これはとも子の内面を見ず、外見や雰囲気だけで「理想」を見ていたことを示唆しています。
対して、過酷な幼少期から自分を殺し、周囲に迎合することで生き残ってきたとも子は、「気まずくなるから」という理由で交際をスタートさせます。
そして、カオリの妊娠です。「妊娠を隆志に伝えたら結婚ってなった」という独白からは、双方の対等な合意というよりは、隆志の一方的な願望と、それに応えることで自分の居場所を確保しようとしたとも子の姿が見えてきます。
この「一方的な求愛」と「受け身的な応答」というズレが、長年の夫婦のひずみの原点だったのです。

3. 愛着障害者からみた「健全な家庭」の恐怖(第39話)

とも子の実家(機能不全家族)と、隆志の実家(愛情あふれる家庭)の対比も重要です。
一般的には「温かい家庭に嫁いで幸せ」と思われがちですが、愛着障害を持つ虐待サバイバーにとって、愛情に満ち溢れた場所は、時にとても居心地が悪く、恐怖すら感じる場所になります。
愛着障害を抱える人は、心の底で「自分はダメな存在だ」「いつか見捨てられる」と信じています。そのため、「優しくされる体験」も、「いつかボロが出て見捨てられる予兆」として受け取ってしまうのです。
それを端的に表現したのが、第39話の**「優しくされたら怖くなる」**という言葉です。
見捨てられるのを恐れるあまり、とも子は完璧な妻・母を目指して自滅していったわけですね。
しかし、隆志にはこのロジックは伝わりません。自身の理想である母親を「怖い」と表現されたことに納得がいかない。
この状態でセッションを終えるため、私はここで再び「北海道の温泉のイメージ」を使っています。ネガティブな感情を洗い流すイメージ技法ですが、これも事前に隆志との間で「リソース(心の資源)」として確認しておいたからこそ使える手札です。

4. 隆志の「健全さ」を信じて踏み込む(第41話)

さて、第41話~42話にかけての夫婦合同面接の二回目です。
ここで私は、かなり大きな賭けに出ています。
「あなたの責任は、仮面をかぶって家族を維持することではなく、妻を愛することだ」
隆志は何よりも責任感に縛られている男性です。これは彼を全否定しかねない、非常にリスキーで切り込んだ介入です。端的に言えば**「問題はあなたにある」**と突き付けているわけですから。
実際のカウンセリングで、ここまで踏み込むことは稀です。
なぜここまでできたのか? そこには私なりの勝算(アセスメント)がありました。
隆志は一見、理解のない父親として語られてきましたが、実際に会ってみると、カオリへの愛情も深く、何より彼自身が健全な愛情を受けて育ったという「土台」がありました。
健全な愛着形成ができている人間には、柔軟性と回復力(レジリエンス)があります。
つまり、「隆志なら、この直面化に耐えうる。そして変わることができる」という信頼があったからこそ、あえて厳しい鏡を突きつけたのです。

5. 怒りの爆発と「コーヒー牛乳」の魔法(第42話)

案の定、第42話で隆志の感情は爆発します。
「自分は今まで我慢してやってきたのに、悪者扱いか!?」
彼の言い分ももっともです。しかし、その「我慢」は、一方的に理想を押し付けた結果の独善的なものでもありました。
この怒りをぶつけられた時、私自身の身体も反応しています。顔に血が上る感覚。
ここで私は、意識的に長く息を吐いて「グラウンディング(地に足をつける)」を行っています。カウンセラー自身が揺さぶられたままでは、クライアントを支えることはできません。
そして、場が極限まで張り詰めたその時登場するのが、「コーヒー牛乳」です。
これこそが、このセッション最大の仕掛けでした。
言葉による説得(大脳新皮質へのアプローチ)が限界を迎えた時、必要なのは身体感覚(脳幹・大脳辺縁系へのアプローチ)です。
甘いコーヒー牛乳の味、瓶の感触、喉を通る冷たさ。
それらが、以前のセッションで掘り起こした「北海道の温泉の記憶(安心感)」と結びつき、隆志の荒ぶる神経を鎮めます。
これを「アンカリング」とも呼びますが、理屈を超えて、「大丈夫だ」という感覚を身体に思い出させるための介入でした。
その後の長い沈黙は、隆志の中で価値観の崩壊と再構築が行われている時間です。
「時間が欲しい」という彼の言葉は、逃げではなく、真剣に向き合い始めた証拠。
長年の問題は一瞬では解決しませんが、家族を覆っていた分厚い氷に、確実な一撃(一石)を投じることができた。そんなセッションだったと思います。