BLOG ブログ

『こころ日誌』の舞台裏その3

【解説】カウンセリングは「謎解き」のミステリーである。|自傷行為への「消毒」の意味とは?

小説『こころ日誌』を読んでいただきありがとうございます。
今回は第15話から第24話までの「舞台裏」を解説します。
なぜカウンセラーがあの時「消毒」をしたのか? なぜ「怖い絵」の話をあえて振ったのか?
臨床心理士の視点から、物語に隠された意図を紐解きます。

「親子の共鳴」に使われた技法、リゾネイティング(第15話)

この小説の中では色々な専門用語が出てきますが、多分リゾネイティングだけは検索しても引っかからないと思います。なぜならこれは当相談室オリジナルの技法だからです。作中で解説しているように、身体感覚を通じてトラウマを癒していくという、ソマティックアプローチと言われるものの一つになります。今回母親がカオリの肩に手を置いて、その接触部分から互いを感じ、愛情を伝え合いましょうと教示しています。この技法は、母親が目の前の子どもを攻撃するような気持でいるときには使えません。愛情を伝えたいと思っているときに親が子どもにハグし、それによって、子どもが安心を感じるっていう当たり前の親子関係をカウンセリングの中で再現する技法になります。

カウンセリングが終わるってどういうこと?(第16話)

この鈴木がパソコンの前で学生時代を思い出している場面。この小説の中でここだけはフィクションではなく、私の実体験をそのまま載せています。こんなことがあったなぁと思い出しながら書きました。そして、そこからつながる葛藤も今現在も尚持ち続けている葛藤です。

カウンセリングがうまくいっていないとき、とても空気が重くなります(第17話)

カウンセリングの中でうまくいかないときの気まずい空気を表現してみました。実際にはここで表現された以上に重たい空気になってしまうこともあります。ただ、そこまで表現してしまうと、修復が不可能になってしまうので、修復可能な範囲の膠着感を演出しました。

IBSについて

作中で鈴木は過敏性腸症候群(IBS)は起立性調節障害(OD)と並び不登校の子につきやすい診断名だと言っています。どちらも自律神経の調節が上手くいかないのが原因です。ここで誤解のないようにお願いしたいのが、IBSの人が皆、ストレスが原因でなってるわけではないが、ストレス過多で発症するケースが多いということです。一方特にストレスフルな環境がなくても元々の体質でIBSやODで苦しんでいる人もいます。

学校生活はダイビング(第18話)

ダイビングの比喩は私がよく使う比喩の一つです。以前、このHPのコラムでもそれについて詳しく書きました。是非ご参照ください。
不登校という事象を説明する上で、私の理解が伝わると思います。ただ、作中でも言っているように、「だからあなたに欠陥がある」という受け取り方はしてほしくないです。人には誰だってボンベに酸素が十分にないという体験をする可能性があります。大事なのはだから駄目だということではなく、ボンベが壊れているなら修理する、容量が足りないなら容量を増やすことです。
また、学校環境が己が特性に合っていないことから身を守るための不登校の場合、この例えが適正でない場合もあります。もちろんどんな場合でも巨大なエネルギーがあれば、学校に行けないということにはならないと思いますが、そんな巨大なエネルギーを持てないことは決して悪いことではないし、むしろそんなエネルギーがないと過ごせない場所では、逃げるが勝ちという考え方もあります。

家族システム療法への伏線です(第19話)

この回、父親がいることが家庭内の緊張度合いを強くしているということで鈴木は理解します。この理解を問題の根っことし、父親をカウンセリングに連れて来ることを鈴木は提案しています。この私の理解がこの後の展開でどのようになっていくのかというのも、この物語の見どころとして要チェックです。

守秘にまつわる葛藤(第21話)

この回は守秘義務について私が葛藤する場面です。毎回こんな言い回しでお話を聞くわけではありませんが、守秘義務よりも優先して伝えないといけないことがあるのは事実です。
そして、ここで、カオリがリスカについて告白したとき、鈴木が母親に伝えるかどうかの葛藤が和らぐと表現しています。
確かに私はリスカしているからと言って即、「保護者に報告が必要だ!」とは判断しません。子どもがせっかく勇気をもって話してくれたのに、それをしてしまうと、子どもは二度と大人を信用しなくなります。大人を信用できないということが、将来の自死のリスクをより高めてしまうからです。
かと言って、リスカしても問題ないと捉えているわけではありません。リスカを継続することで、自己の切り離し(解離)が繰り返され、これが自死のリスクを高めることは確かにあるからです。

リストカットへの対応

そしてその対応として、鈴木は消毒しています。これは自傷行為や依存症治療で有名な松本俊彦先生の教えです。ですが、私は専門が心理学ですから新しいとは言え、既に止血している上から消毒しても効果があるのかは正直分かりません。調べればわかるのでしょうが、敢えて調べてもいません(お詳しい方、いかがですか?)。
ここで私がしている行動の意味は、自分を傷つける(大切にしない)行為に対し、「あなたは手当てを受けるべき大切な存在だ」というメッセージを、言葉ではなく身体感覚として伝えることにあります。それが、将来的な自死のリスクへの防波堤になると考えての行動でした。

実際のケースで、どう動くのが正解かはわかりません(第22話)

ここで怖い絵が再び物語に登場します。と言うか、私がさせます。これは私も書いていて、実際の臨床場面だったらどうだろうかと思わされる行動です。作中では、とも子と二人きりの時に話してくれた怖い絵について、カオリに話してもいいのかということについて、意味があると判断したと書いています。そういう意味ではこの行動は鈴木ととも子という二者の関係を壊すという意味で、私のアクティングアウトです。この絵の話を出さなければもっと別の展開をしていたかもしれませんね。それがどんな展開だったのかは私にもわかりません。

カウンセリングはまさに「ミステリー」(第23話)

この回、この物語を通じてカオリが一貫して発信しているメッセージが明らかになります。そのメッセージに至るまでの作業はあたかもシャーロックホームズのような推理力が発揮されるところです。
カウンセリングって実はミステリーなんです。私の恩師であるホログラフィートークの嶺輝子先生は、問題場面で起こっている被害者の真の願いを紐解くには探偵か刑事の様な観察眼が必要であるとおっしゃり、嶺先生のそれを読み解く力には私はなんども驚嘆させられています。
また最近新書「カウンセリングとは何か」を上梓された東畑開人先生はその著書の中で、カウンセリングのベースには謎解きがあると仰っています。
そういう意味ではこの回はこのケースでカオリが訴えたかった真の願いにつながる謎を解き明かしたからこそ、カオリは嗚咽して泣いたわけです。
カウンセリングの醍醐味のひとつがそこに現れているように思います。

まとめ

いかがでしたでしょうか。
ただの物語としてだけでなく、「心理士はこんなことを考えているのか」という視点で読み返していただくと、また違った発見があるかもしれません。