こころ日誌#23
込められたメッセージ
「あの日・・・確か、夜・・・そう。その日も私切っちゃったんですよね。あの日の夜、それまであんまりなかったんですけど、久しぶりにお父さんと母さんが言い合ってて。私は部屋で一人で布団に入っていました。部屋の向こうからお父さんが『カオリをもっと自由にさせてやれ』とか、そんなだったと思うんですけど、お母さんに言ってて。お父さん、私にはすごく優しいんです。でも、お母さんには怒ってばかりいて。いつもはお母さん、言われると、しゅんってなっちゃうんですけど、あの時は、なんでか、言い返してたんです。『私ばっかり悪いみたいに言わないでよ』みたいに」
「!」
カオリの話を聞きながら、私の記憶が蘇る。前にここで母親から聞いた台詞だ。
カオリは続けた。
「お父さんがすごく怒ってて、お母さんは泣いてて。私、布団の中にくるまって聞こえないようにしてたんです。でも、どうしても聞こえてきて。それで、どうしても嫌で絵を描いて集中して聞こえないようにしようって思って。何でもいいから描こうって思って描き始めたんですけど、いつの間にかあんな絵になってて。それで、お父さんがお母さんを怒鳴る度に、絵に描いた女の子に刃物を刺していきました。そしたらなんか分からないけど、途中から、すごく楽しくなってきて、それで机の中からカッターを取り出して・・・血で、絵に色を付けちゃったんです」
あの絵の、モノトーンの上に赤黒く塗られた血。スマホのカメラで撮られた写真の画像では判らなかったが、あれはカオリの本物の血だったのだ。
私はその場面を想像してとても胸が締め付けられる思いがした。
そして、母親は実物の絵を見ている。もしかしたら気づいていたのではないか?
「カオリちゃん、よく話してくれました。そしてカオリちゃんがお母さんにリスカのことを知られたくない理由も分かりました。カオリちゃん、お母さんのことが大好きなんだね」
カオリはキョトンとしている。
「カオリちゃんがあの絵に込めた思いは二つ。ひとつは、あの絵にはカオリちゃんの苦しみが描かれていた。やっぱりカオリちゃん、こんなに苦しいんだって分かってほしい気持ちがあるんだと思う。でも、カオリちゃんは直接リスカしていることを言えない。でも、気づい欲しい。だから、あの絵をお母さんが気づくところに置いたんだと思う」
カオリは無表情なままだ。
「僕もお母さんもここまでは考えたんだ。カオリちゃんの苦しみが絵にこめられてるってね。でも、あのとき、僕たちはお母さんがカオリちゃんを心の底から甘えさせてあげられるようにっていう方向にセッションを持って行っちゃったのね。お母さんのカオリちゃんへの関わり方を改善しようと。でも、本当はカオリちゃんが送っているメッセージをもっと深く読み解く必要があったと思うの」
カオリは私と目を合わせない。
「カオリちゃんがあの絵で伝えたかったもう一つのメッセージ。あの絵は、カオリちゃんの苦痛だけじゃない。もっとカオリちゃんにとって重要なメッセージが込められていたと思う。あの女の子・・・」
私は一呼吸おいてから言った。
「お母さんだったんだね。お母さんに、『お母さんが死んじゃうよ』って伝えたかったんじゃない?」
相変わらず無表情なまま視線を机の上に落としているカオリ。・・・?。確かに顔の表情は変わらない。しかし、表情の変わらないカオリの目から涙が自然と零れ落ちて、カオリの顔の下半分を覆っているマスクに染み込んでいく。そのことにカオリは気づいていない。
「そして、カオリちゃんがお母さんにリスカしてることを言いたくない理由・・・それはお母さんっていうより、お父さんにバレるのが怖いんじゃない?」
「・・・」
「お父さんにバレることで、またお母さんが怒られる。それが怖い・・・違う?」
「・・・」
「そして最近リスカが止められなくなっちゃったことで、バレそうで怖くなってきた。だから今日どうしてもどうにかしたくて、僕に話してくれたんだね。本当に本当に怖かったね。よく今まで耐えてきたね」
その瞬間、カオリは声を上げて泣き崩れた。
「カオリちゃんは自分のことよりもお母さんが心配なんだね。お母さんを守りたいんだね」
カオリは顔をぐしゃぐしゃにしながら、何度も頷いた。
カオリの涙が収まるまでしばらく待っているとカオリは自ら言った。
「お母さん、いつもお父さんに怒られてばかりで、かわいそうなんです。お父さん、私にはあんなに優しいのに、なんでお母さんには怒ってばかりなんだろう」
私は聞く。
「カオリちゃん、いつもお父さんは優しいって言うね。でも、お父さんが家にいると緊張しちゃうのは、お父さんがお母さんを怒るからなんだね」
「はい」
「カオリちゃんはお父さんにカオリちゃんにするのと同じようにお母さんにも優しくしてほしい?」
「そこまで言わないですけど、怒らないでほしいです」
「僕、カオリちゃんがエネルギータンクがいっつも空っぽなのはやっぱり家の中がずっと緊張状態で、補給できないからだと思っているのね。それを改善したいと思うんだ」
「そんなの無理と思います」
「カオリちゃん、君が不登校になってくれたこと、山野家にとってはとってもありがたいことなんだよ。カオリちゃんが、『こんなのおかしい』って全身で訴えてるんだと思う。それはとっても正しいこと。カオリちゃんは家で安全に、安心して過ごす権利があって、それは本来絶対に守られないといけないものなのね。その権利が侵されてるんだもん。こんなの絶対おかしいんです」
カオリは黙って聞いている。
「ね、今までカオリちゃんの心にエネルギーを溜めてもらう目的でリゾネイティングをしてきたんだけど、今度、カオリちゃんがお母さんに愛情エネルギーを送ることにしてみない?」
カオリは少し驚いたような表情だ。
「山野家の歪な夫婦関係って、お父さんとお母さんのパワーバランスが対等じゃないから起こってるのね。お母さんにエネルギーを貯めてもらうことで、バランスを取り戻せるかもしれない」
そう伝えるとカオリは少し笑顔を作って「はい」と頷いた。
ほどなくしてインターホンが鳴る。母親が迎えに来た合図だ。私は立ち上がり、インターホン越しに返事をして母親を迎え入れる。
入室した母親は柔和な表情でカオリに聞く。
「ちゃんと話したいこと話せた?」
声のトーンからも優しさを感じる。
「うん」
カオリは少し照れたように返事をした。
こうしてカオリと二人だけの面談が終了した。
二人を見送った後、私はいつものようにコーヒーを飲みながらパソコンに向かい、今しがた終わったばかりの面接を振り返る。
普段言い返さなかった母親が父親に反論したのは、多分、私と母親との初回面接の後だ。あのとき、母親は言い返したい気持ちをここで話してくれた。それは不満のガス抜きが目的であったが、それが、家での行動を変え、父親からの更なる反撃を受けた可能性がある。
そして、カオリがリスカのことを話してほしくないのは母親を父親から守りたかったから。
これらのことを記録に落とし込み、アセスメントして方針を練る。
アセスメント
・夫婦間葛藤が家の中に緊張感をもたらし、それがカオリの安心感を棄損し、心理的なエネルギーの補充の妨げになっている。
方針
・カオリと母親との合同面接でカオリから母親を力づけることにより、夫婦のパワーバランスを回復し、家庭内の緊張感を下げる。
「!」
カオリの話を聞きながら、私の記憶が蘇る。前にここで母親から聞いた台詞だ。
カオリは続けた。
「お父さんがすごく怒ってて、お母さんは泣いてて。私、布団の中にくるまって聞こえないようにしてたんです。でも、どうしても聞こえてきて。それで、どうしても嫌で絵を描いて集中して聞こえないようにしようって思って。何でもいいから描こうって思って描き始めたんですけど、いつの間にかあんな絵になってて。それで、お父さんがお母さんを怒鳴る度に、絵に描いた女の子に刃物を刺していきました。そしたらなんか分からないけど、途中から、すごく楽しくなってきて、それで机の中からカッターを取り出して・・・血で、絵に色を付けちゃったんです」
あの絵の、モノトーンの上に赤黒く塗られた血。スマホのカメラで撮られた写真の画像では判らなかったが、あれはカオリの本物の血だったのだ。
私はその場面を想像してとても胸が締め付けられる思いがした。
そして、母親は実物の絵を見ている。もしかしたら気づいていたのではないか?
「カオリちゃん、よく話してくれました。そしてカオリちゃんがお母さんにリスカのことを知られたくない理由も分かりました。カオリちゃん、お母さんのことが大好きなんだね」
カオリはキョトンとしている。
「カオリちゃんがあの絵に込めた思いは二つ。ひとつは、あの絵にはカオリちゃんの苦しみが描かれていた。やっぱりカオリちゃん、こんなに苦しいんだって分かってほしい気持ちがあるんだと思う。でも、カオリちゃんは直接リスカしていることを言えない。でも、気づい欲しい。だから、あの絵をお母さんが気づくところに置いたんだと思う」
カオリは無表情なままだ。
「僕もお母さんもここまでは考えたんだ。カオリちゃんの苦しみが絵にこめられてるってね。でも、あのとき、僕たちはお母さんがカオリちゃんを心の底から甘えさせてあげられるようにっていう方向にセッションを持って行っちゃったのね。お母さんのカオリちゃんへの関わり方を改善しようと。でも、本当はカオリちゃんが送っているメッセージをもっと深く読み解く必要があったと思うの」
カオリは私と目を合わせない。
「カオリちゃんがあの絵で伝えたかったもう一つのメッセージ。あの絵は、カオリちゃんの苦痛だけじゃない。もっとカオリちゃんにとって重要なメッセージが込められていたと思う。あの女の子・・・」
私は一呼吸おいてから言った。
「お母さんだったんだね。お母さんに、『お母さんが死んじゃうよ』って伝えたかったんじゃない?」
相変わらず無表情なまま視線を机の上に落としているカオリ。・・・?。確かに顔の表情は変わらない。しかし、表情の変わらないカオリの目から涙が自然と零れ落ちて、カオリの顔の下半分を覆っているマスクに染み込んでいく。そのことにカオリは気づいていない。
「そして、カオリちゃんがお母さんにリスカしてることを言いたくない理由・・・それはお母さんっていうより、お父さんにバレるのが怖いんじゃない?」
「・・・」
「お父さんにバレることで、またお母さんが怒られる。それが怖い・・・違う?」
「・・・」
「そして最近リスカが止められなくなっちゃったことで、バレそうで怖くなってきた。だから今日どうしてもどうにかしたくて、僕に話してくれたんだね。本当に本当に怖かったね。よく今まで耐えてきたね」
その瞬間、カオリは声を上げて泣き崩れた。
「カオリちゃんは自分のことよりもお母さんが心配なんだね。お母さんを守りたいんだね」
カオリは顔をぐしゃぐしゃにしながら、何度も頷いた。
カオリの涙が収まるまでしばらく待っているとカオリは自ら言った。
「お母さん、いつもお父さんに怒られてばかりで、かわいそうなんです。お父さん、私にはあんなに優しいのに、なんでお母さんには怒ってばかりなんだろう」
私は聞く。
「カオリちゃん、いつもお父さんは優しいって言うね。でも、お父さんが家にいると緊張しちゃうのは、お父さんがお母さんを怒るからなんだね」
「はい」
「カオリちゃんはお父さんにカオリちゃんにするのと同じようにお母さんにも優しくしてほしい?」
「そこまで言わないですけど、怒らないでほしいです」
「僕、カオリちゃんがエネルギータンクがいっつも空っぽなのはやっぱり家の中がずっと緊張状態で、補給できないからだと思っているのね。それを改善したいと思うんだ」
「そんなの無理と思います」
「カオリちゃん、君が不登校になってくれたこと、山野家にとってはとってもありがたいことなんだよ。カオリちゃんが、『こんなのおかしい』って全身で訴えてるんだと思う。それはとっても正しいこと。カオリちゃんは家で安全に、安心して過ごす権利があって、それは本来絶対に守られないといけないものなのね。その権利が侵されてるんだもん。こんなの絶対おかしいんです」
カオリは黙って聞いている。
「ね、今までカオリちゃんの心にエネルギーを溜めてもらう目的でリゾネイティングをしてきたんだけど、今度、カオリちゃんがお母さんに愛情エネルギーを送ることにしてみない?」
カオリは少し驚いたような表情だ。
「山野家の歪な夫婦関係って、お父さんとお母さんのパワーバランスが対等じゃないから起こってるのね。お母さんにエネルギーを貯めてもらうことで、バランスを取り戻せるかもしれない」
そう伝えるとカオリは少し笑顔を作って「はい」と頷いた。
ほどなくしてインターホンが鳴る。母親が迎えに来た合図だ。私は立ち上がり、インターホン越しに返事をして母親を迎え入れる。
入室した母親は柔和な表情でカオリに聞く。
「ちゃんと話したいこと話せた?」
声のトーンからも優しさを感じる。
「うん」
カオリは少し照れたように返事をした。
こうしてカオリと二人だけの面談が終了した。
二人を見送った後、私はいつものようにコーヒーを飲みながらパソコンに向かい、今しがた終わったばかりの面接を振り返る。
普段言い返さなかった母親が父親に反論したのは、多分、私と母親との初回面接の後だ。あのとき、母親は言い返したい気持ちをここで話してくれた。それは不満のガス抜きが目的であったが、それが、家での行動を変え、父親からの更なる反撃を受けた可能性がある。
そして、カオリがリスカのことを話してほしくないのは母親を父親から守りたかったから。
これらのことを記録に落とし込み、アセスメントして方針を練る。
アセスメント
・夫婦間葛藤が家の中に緊張感をもたらし、それがカオリの安心感を棄損し、心理的なエネルギーの補充の妨げになっている。
方針
・カオリと母親との合同面接でカオリから母親を力づけることにより、夫婦のパワーバランスを回復し、家庭内の緊張感を下げる。