こころ日誌#21
カオリの告白
20〷+1年8月29日 カオリ#17 通常面接
学校のある時は制服であるセーラー服だったが、夏休み中の来談は当然のように私服になる。Tシャツの上に長袖のUVカットのカーディガンを羽織り、下はジーンズ、顔にはいつものようにマスクという格好でカオリは相談室に現れた。夏休みに入ってからのカオリはいつも同じようないで立ちだ。外のうだるような暑さを考えるとマスクをしてカーディガンを羽織っているのは暑くないのかとも思うのだが、突き刺す陽射しから肌を守るための装備は今の時代欠かせないのかもしれない。
私は相談室のエアコンの設定温度を低くして、カオリを迎えた。そして、いつものクッキーと冷えたウーロン茶をカオリにだしながら「こんにちは。暑い中よく来てくれたね。こうして二人でお話するの、結構久しぶりだね」と声かける。
カオリは、目だけで笑顔を作っていることを知らせている。
「今日はお母さんから、カオリちゃんが一人で来たいって自分から言ったって聞いたんだけど、お母さんに聞かれたくない話がしたいのかな?」とカオリの語りを促した。
少しの間を置いた後、カオリはマスクをしていても伝わる真剣な表情で言う。
「ここで私が話したことって、後でお母さんに言いますか?」
この質問はカウンセリングの中で答えに窮する質問のひとつだ。今からカオリはとても大事な話をしようとしてくれていることは解る。だから「誰にも言わない」と答えたい。しかし、カオリが自分や他人の命に関わるような告白をしたとき、例えば「自殺しようと思っている」や誰かを「殺そうと思っている」というような内容であれば、黙っているわけにはいかない。他に命に関わらなくても、犯罪をほのめかす場合も同様である。臨床心理士の倫理要綱の中にも定められているのだ。しかしそれをそのまま伝えると、「じゃぁ、言わない」となってしまう恐れがある。
だから私は言う。
「カオリちゃん、とても重要なことを話そうとしてくれているんだろうと思います。でも、それをお母さんに知られたくないんだね。お母さんに知られたら、どんなことが起こりそう?」
するとカオリは呟くように言う。
「分からない」
「カオリちゃんはお母さんがどんな反応をするか分からないから怖いんだね」
カオリが頷く。
「じゃぁ、もしもお母さんに言わないといけないようなお話なら、この後、お母さんが迎えに来てくれた時に、僕と一緒に伝えるのはどうだろう?」
しかしカオリはそれでは納得しないらしい。
少し考えた後に、「・・・やっぱり言わないでほしいです」と答えた。
「そうなんだね。でも、お母さんに言えないお話、もし今日ここで僕に話さなかったら、カオリちゃん、自分一人で抱え込まないといけなくなっちゃうでしょ?カオリちゃんの今日の表情見てて、そのことを想像すると、とても辛いんじゃないかなって思うんだけど」
「だから、ここに話しに来たんです。お母さんには言わないでください」
「大抵のことは話さないけど、絶対とは言えないの」
カオリの顔は硬直している。
そこで私は苦渋とも言える提案をする。
「でも、やっぱりカオリちゃんが今日ここに一人で来る勇気を出してくれたこと、何よりも尊重したいし、その気持ちに全力で応えたいのね。だから、もしお母さんに言わないといけない内容だった場合、僕からも約束してほしいことがあるの。僕に話したことを、僕がお母さんに言わない代わりに、そのことに関して、後から取り返しのつかないことだけは絶対にしないでください。その約束ができないと、僕も聞けないかもしれません」
ここまでのやり取りで、カオリはとても一人で抱えているのがしんどくなっていて、どうしても今日話したくなっていることが想像された。
果たしてカオリは口を開いた。
「切っちゃうんです」
なるほど、そのことか。カオリの苦しみを考えれば大変失礼な話であるが、少しホッとする自分も感じる。その内容であれば、母親に伝えるかどうかという葛藤が私の中で軽減されるからだ。しかし依然としてカオリの苦しみを共有しないといけないことに変わりはない。
だから声のトーンを落とし、真剣な顔で答える。
「そうなんだね。カオリちゃんの苦しみを思うと、胸が痛くなります。本当によく話してくれたね」
カオリは答えない。しばしの沈黙が訪れた。
相談室内に聞こえる音と言ったら、極低音でYoutubeから流している川のせせらぐ音と、強めに設定したエアコンの音、外からわずかに聞こえる蝉の鳴き声くらいだ。この沈黙は多くの葛藤の末にようやく打ち明けたリストカットの告白に対する私の反応をカオリが頭の中で消化している時間だ。私はHRV呼吸をしながら、私が持てる最大限の想像力をカオリの気持ちに共鳴することにつかいながら、カオリを見つめた。
「ダメだって思うけど、切るとスッキリすると言うか」
ようやくカオリが口を開いた。
「だから、いつもカーディガン着てるんだね」
「はい」
「今も切りたいですか?」
「今は大丈夫です」
「今も腕とかに痕はあるの?」
「見ますか?」
「嫌じゃなければ見せてくれる?」
カオリは左腕の袖をめくって私の前に差し出した。
その腕にはまだ新しいと思われる傷が3本、ケロイドになっているものや、薄っすらとしているものは複数見られた。
私は「これ、まだ新しいよね。ちゃんと消毒していますか?」と聞く。
「消毒って言うか、しばらく血が流れるの見てると勝手に止まるから、止まってから、ティッシュとかで拭く感じです」
「ちょっと待っててね」
私は奥の事務スペースから救急箱を取り出し、消毒液を見つけて持ってくる。
「はい、もう一回手を出してごらん」
そう言って消毒液に浸した脱脂綿をピンセットでつまみ、傷口に優しく当てながら聞いた。
「いつくらいから切ってるの?」
「酷くなったのは最近です。学校行けなくなってから、冬の間はときどき切っちゃうことがあって、でも、夏服になって長袖着れなくなってからは切りたくなっても我慢してたんです。でも、夏休みに入って、半袖じゃなくてもよくなったら・・・止まらなくなっちゃって」
「そうなんだね。カオリちゃん、ダメだって思って苦しんでるの、とってもよく伝わってくるよ。カオリちゃんに伝えたいことがあって、切っちゃうことも含めて、カオリちゃん、全然駄目じゃないからね。カオリちゃんがやめたいと思ってるのに切っちゃうってことは、カオリちゃんにとって切らないといけない事情があるからなの。それは絶対にカオリちゃんが悪いなんてことはない。カオリちゃんは無意識のうちにそう追い込まれちゃっただけ」
カオリは無表情に聞いている。
「ガーゼ貼っていく?でも、上羽織ってても目立っちゃうかな」
「このままでいいです」
「切った後は、ちゃんと清潔にしないとダメだよ。ばい菌が入って感染したら大変だからね」
「はい」
「よかったら、ここで何がカオリちゃんを切りたい衝動に追い込んでるのか、一緒に考えていけるといいと思うんだけど、どうかな?」
「別に何も追い込まれてるわけじゃないと思います」
「それは多分、カオリちゃんが余りにつらいから・・・心が麻痺しちゃってて辛さを感じられなくなってるんじゃないかなって思うの。自分で自分を傷つけることを自傷行為って言うんだけど、心や体の感覚が麻痺しちゃった人が必死で自分の感覚を取り戻そうとする行為なんだよ」
私は以前に母親がスマホのカメラで撮った、カオリが描いたという女の子の絵を思い出していた。
再びカオリは無表情で私の話を聞いている。
「僕の言っていること、伝わりますか?」
私はカオリの反応を確かめるように聞いた。
するとカオリから意外な反応が返ってきた。
学校のある時は制服であるセーラー服だったが、夏休み中の来談は当然のように私服になる。Tシャツの上に長袖のUVカットのカーディガンを羽織り、下はジーンズ、顔にはいつものようにマスクという格好でカオリは相談室に現れた。夏休みに入ってからのカオリはいつも同じようないで立ちだ。外のうだるような暑さを考えるとマスクをしてカーディガンを羽織っているのは暑くないのかとも思うのだが、突き刺す陽射しから肌を守るための装備は今の時代欠かせないのかもしれない。
私は相談室のエアコンの設定温度を低くして、カオリを迎えた。そして、いつものクッキーと冷えたウーロン茶をカオリにだしながら「こんにちは。暑い中よく来てくれたね。こうして二人でお話するの、結構久しぶりだね」と声かける。
カオリは、目だけで笑顔を作っていることを知らせている。
「今日はお母さんから、カオリちゃんが一人で来たいって自分から言ったって聞いたんだけど、お母さんに聞かれたくない話がしたいのかな?」とカオリの語りを促した。
少しの間を置いた後、カオリはマスクをしていても伝わる真剣な表情で言う。
「ここで私が話したことって、後でお母さんに言いますか?」
この質問はカウンセリングの中で答えに窮する質問のひとつだ。今からカオリはとても大事な話をしようとしてくれていることは解る。だから「誰にも言わない」と答えたい。しかし、カオリが自分や他人の命に関わるような告白をしたとき、例えば「自殺しようと思っている」や誰かを「殺そうと思っている」というような内容であれば、黙っているわけにはいかない。他に命に関わらなくても、犯罪をほのめかす場合も同様である。臨床心理士の倫理要綱の中にも定められているのだ。しかしそれをそのまま伝えると、「じゃぁ、言わない」となってしまう恐れがある。
だから私は言う。
「カオリちゃん、とても重要なことを話そうとしてくれているんだろうと思います。でも、それをお母さんに知られたくないんだね。お母さんに知られたら、どんなことが起こりそう?」
するとカオリは呟くように言う。
「分からない」
「カオリちゃんはお母さんがどんな反応をするか分からないから怖いんだね」
カオリが頷く。
「じゃぁ、もしもお母さんに言わないといけないようなお話なら、この後、お母さんが迎えに来てくれた時に、僕と一緒に伝えるのはどうだろう?」
しかしカオリはそれでは納得しないらしい。
少し考えた後に、「・・・やっぱり言わないでほしいです」と答えた。
「そうなんだね。でも、お母さんに言えないお話、もし今日ここで僕に話さなかったら、カオリちゃん、自分一人で抱え込まないといけなくなっちゃうでしょ?カオリちゃんの今日の表情見てて、そのことを想像すると、とても辛いんじゃないかなって思うんだけど」
「だから、ここに話しに来たんです。お母さんには言わないでください」
「大抵のことは話さないけど、絶対とは言えないの」
カオリの顔は硬直している。
そこで私は苦渋とも言える提案をする。
「でも、やっぱりカオリちゃんが今日ここに一人で来る勇気を出してくれたこと、何よりも尊重したいし、その気持ちに全力で応えたいのね。だから、もしお母さんに言わないといけない内容だった場合、僕からも約束してほしいことがあるの。僕に話したことを、僕がお母さんに言わない代わりに、そのことに関して、後から取り返しのつかないことだけは絶対にしないでください。その約束ができないと、僕も聞けないかもしれません」
ここまでのやり取りで、カオリはとても一人で抱えているのがしんどくなっていて、どうしても今日話したくなっていることが想像された。
果たしてカオリは口を開いた。
「切っちゃうんです」
なるほど、そのことか。カオリの苦しみを考えれば大変失礼な話であるが、少しホッとする自分も感じる。その内容であれば、母親に伝えるかどうかという葛藤が私の中で軽減されるからだ。しかし依然としてカオリの苦しみを共有しないといけないことに変わりはない。
だから声のトーンを落とし、真剣な顔で答える。
「そうなんだね。カオリちゃんの苦しみを思うと、胸が痛くなります。本当によく話してくれたね」
カオリは答えない。しばしの沈黙が訪れた。
相談室内に聞こえる音と言ったら、極低音でYoutubeから流している川のせせらぐ音と、強めに設定したエアコンの音、外からわずかに聞こえる蝉の鳴き声くらいだ。この沈黙は多くの葛藤の末にようやく打ち明けたリストカットの告白に対する私の反応をカオリが頭の中で消化している時間だ。私はHRV呼吸をしながら、私が持てる最大限の想像力をカオリの気持ちに共鳴することにつかいながら、カオリを見つめた。
「ダメだって思うけど、切るとスッキリすると言うか」
ようやくカオリが口を開いた。
「だから、いつもカーディガン着てるんだね」
「はい」
「今も切りたいですか?」
「今は大丈夫です」
「今も腕とかに痕はあるの?」
「見ますか?」
「嫌じゃなければ見せてくれる?」
カオリは左腕の袖をめくって私の前に差し出した。
その腕にはまだ新しいと思われる傷が3本、ケロイドになっているものや、薄っすらとしているものは複数見られた。
私は「これ、まだ新しいよね。ちゃんと消毒していますか?」と聞く。
「消毒って言うか、しばらく血が流れるの見てると勝手に止まるから、止まってから、ティッシュとかで拭く感じです」
「ちょっと待っててね」
私は奥の事務スペースから救急箱を取り出し、消毒液を見つけて持ってくる。
「はい、もう一回手を出してごらん」
そう言って消毒液に浸した脱脂綿をピンセットでつまみ、傷口に優しく当てながら聞いた。
「いつくらいから切ってるの?」
「酷くなったのは最近です。学校行けなくなってから、冬の間はときどき切っちゃうことがあって、でも、夏服になって長袖着れなくなってからは切りたくなっても我慢してたんです。でも、夏休みに入って、半袖じゃなくてもよくなったら・・・止まらなくなっちゃって」
「そうなんだね。カオリちゃん、ダメだって思って苦しんでるの、とってもよく伝わってくるよ。カオリちゃんに伝えたいことがあって、切っちゃうことも含めて、カオリちゃん、全然駄目じゃないからね。カオリちゃんがやめたいと思ってるのに切っちゃうってことは、カオリちゃんにとって切らないといけない事情があるからなの。それは絶対にカオリちゃんが悪いなんてことはない。カオリちゃんは無意識のうちにそう追い込まれちゃっただけ」
カオリは無表情に聞いている。
「ガーゼ貼っていく?でも、上羽織ってても目立っちゃうかな」
「このままでいいです」
「切った後は、ちゃんと清潔にしないとダメだよ。ばい菌が入って感染したら大変だからね」
「はい」
「よかったら、ここで何がカオリちゃんを切りたい衝動に追い込んでるのか、一緒に考えていけるといいと思うんだけど、どうかな?」
「別に何も追い込まれてるわけじゃないと思います」
「それは多分、カオリちゃんが余りにつらいから・・・心が麻痺しちゃってて辛さを感じられなくなってるんじゃないかなって思うの。自分で自分を傷つけることを自傷行為って言うんだけど、心や体の感覚が麻痺しちゃった人が必死で自分の感覚を取り戻そうとする行為なんだよ」
私は以前に母親がスマホのカメラで撮った、カオリが描いたという女の子の絵を思い出していた。
再びカオリは無表情で私の話を聞いている。
「僕の言っていること、伝わりますか?」
私はカオリの反応を確かめるように聞いた。
するとカオリから意外な反応が返ってきた。