こころ日誌#14
亡霊との別れ
「山野さんのお母さん・・・」
母という言葉が出てきて私は反射的に、山野さんと呼び方を変えた。
「私の母はいつも私を責める人でした。何をしても怒られて」先ほどの涙が乾いたわけではないだろうが、静かな口調で母親は語り始めた。「私がテストでいい点とって帰ってきても、必ずダメだって。今、『お前に子育てなんてできるわけない』って言われた時、思い出しました。私小学校で学級委員に選ばれたんです。なんか、人気投票で一番になったみたいで、嬉しかったんですよね。それで家に帰って母にそのことを伝えたんです。そうしたら、『あんたに学級委員なんてできるわけない』って言われたんです。それが、何度も私の中で反響して・・・。お前にできるわけない、お前にできるわけないって」静かな語り口調は最初だけだ。すぐに声を震わせて、涙が溢れ頬を伝う。
私はとても切ない気持ちになる。
「そんな風に言われて・・・それが何度も反響してる。山野さん、自分ができるわけないって刷り込まれちゃったんですね」
母親は深く息をつき、視線を床に落とした。感情が溢れてくるのを押し殺しているようだ。
「そうかもしれません。頭ではそんなことない。私は出来るって自分に言い聞かせてたんですよ。母の言うことなんかに負けないって。でも、受験のときも、就職してからも、カオリが生まれてからも。ずっとその反響がやまなくて。カオリの泣き声や前回話した旦那が私を責めるときも、私の頭の中でずっと母が私を責めてるんです」
彼女の声には、長年の苦しみと葛藤がにじんでいた。私は静かに問いかける。
「今も?」
母親は一瞬、考え込むように目を閉じた。彼女の手が膝の上でぎゅっと握りしめられている。
「どうでしょう・・・。そうかもしれません」
「ではお母さんに今、言ってやりましょう。『もう私はあなたに騙されない。私はダメじゃない』って」
母親は困惑した様子で黙り込む。「言ってやりましょう」と言われても、私に何を要求されているのか分からないのだろう。
だから私は強い口調で言う。
「もう私は騙されない」
母親は少し困惑した様子で、小さく私に続いて言う。
「もう・・・私は騙されない」
私は続けた。
「私はダメじゃない」
母親も今度はさっきよりもはっきりついてくる。
「私はダメじゃない」
私は繰り返し、母親もついてくる。
「もう私は騙されない。私はダメじゃない」
「もう私は騙されない。私はダメじゃない」
母親の声が力強くなった。
「もう一度。大きな声で」
「もう私は騙されない。私はダメじゃない」
私は更に続け、母親もついてくる。
「私はもうあなたに支配されない」
「私はもうあなたに支配されない」
「私を支配していいのは私だけだ」
「私を支配していいのは私だけだ」
母親は涙で声を震わせながらも力強く言った。流れる涙も、悲しみの涙ではなく開放の涙へと変化していたはずだ。
母親が十分に決意を固めたことを認識した私は頭を大きくうなずかせて、母親にアイコンタクトを送る。
私のうなずきを母親が受け取ったことを確認した私は、まっさらな記録用のA4用紙を一枚取り出して机の上に置いた。そして、母親の目の前でペンで紙一杯に大きく、「お前にできるわけがない」と書いて、母親の方に向けて見せた。
私の行動にキョトンとしている母親に、私はこう問いかける。
「今、この言葉を見てどう思いますか?」
私の意図が伝わったのだろう。強い口調で返してくれる。
「そんなことない。私はできるって」
母親が十分に自分の意思で返答してくれているのを感じる。
私はその紙を母親の前に更に差し出して言う。
「では、この紙を山野さんご自身の手で丸めてください」
私がそう言うと、母親は私の提案に従って、紙をくしゃくしゃに丸めた。そこにはもう戸惑いは感じられない。
それを確認した私は立ち上がり、薪ストーブの前に立つ。見ると天板の上にある温度計は250度を指している。その天板を開けて言った。
「山野さん、こちらにその紙を持ってきてください。そして、山野さんの手で、この中に投げ入れてください」
炉の中では真っ赤になった薪が熾火の状態で煌々と熱を発している。天板の開いている部分から、その熱がダイレクトに伝わってきて、顔が熱い。
母親はその紙を持ってきて、炉の前に立った。その表情からは決意が感じられる。
「言いたいこと・・・ありますか?」
「・・・」
「山野さんを縛り付けていた亡霊とのお別れです」
私の言葉に後押しされて、母親は言う。
「さようなら。もう二度と私の前に現れないで」
私は大きくうなずき、彼女も私に目を合わせて応える。
と、彼女は丸めた紙を炉の上の空間に持って行き、静かに手を放した。
重力に引かれポトンと炉の中に落ちた丸められた紙に、瞬時に熾火の熱と炎が襲い掛かる。白かった紙が一瞬で炎に包まれ、黒く変色する。その塊は勢いよく炎をあげ、その熱が覗き込んでいる私たちの顔に伝わる。あまり近付くと火傷してしまう。しかし彼女は紙が燃え尽きるのを見届けるように覗き続けている。
天板温度が250度のとき、炉の中は400度を超える熱だ。紙が炎を上げて燃え尽きるのにかかる時間は30秒ほどだろうか。
黒かった塊がやがて灰になり、熾火に灼熱の静寂が再び訪れたとき、私が促したわけではなかったが、彼女はもう一度呟くように言った。
「さようなら」
ギ―、ガタン。
薪ストーブの天板は鉄の塊であり、閉めるとき、重厚な音がする。
その天板を閉めたことで、母親は過去の亡霊と決別し、私とともに「今、ここ」に戻ってきた。
私は切り替えるように声のトーンを上げる。
「じゃ、座りましょうか」
私の促しに応えて、母親も席に戻り、再び向かい合って座る。
「今、山野さんは自由です。カオリちゃんが甘えてきたらどうしますか?」
私の問いに対し、少し考えたように間を取ってから
「どうしましょう。まだちょっとどうしていいかわかりません」
と答えるが、その顔はどこか照れたような、しかし晴れやかに見える。
「ギュって抱きしめてあげてください。そして大好きだよって伝えてあげてください」
しばし間が空く。その状況を母親がイメージする間だ。
「どうでしょう?逃げたくなる?」
私が問いかけると、何かをつかんだような表情で母親は答えた。
「いえ、大丈夫です。やってみます」
こうして母親との2回目のセッションは終わりを迎えた。
母親を見送ると、部屋の中に戻り、先ほど亡霊に別れを告げた後に下火になりつつある薪ストーブに薪を足す。もうあの紙きれは炉の中にはその痕跡すら確認できない。
今回のようなセッションはカウンセラーとしても満足度が高い。カオリの傷つきが可視化されたことで、母親の中で課題が明確になり、更にその課題を克服するための障壁を取り除いたセッションであった。このケース全体の大きな転換点にしていけるといいなと考えつつ、実はこういうセッションをした後は私はいつも自戒することがある。それは自分の力ではないということだ。
思えば、私が攻撃性を出した時、私はカオリの側に立っていた。カオリの側に立って母親を攻撃していたのだ。それに対し母親が無血開城を選んでくれて、自身の課題にしっかりと向き合い取り組んでくれた。これは簡単なことではなかったはずだ。その勇気と決断、そして何よりも母性の力に畏敬の念を感じる。そして、その現場に立ち会わせてもらったことに大きな喜びと深い感謝の気持ちが自分の中にあることを確認する。
そうは言っても、やはり記録を書くときの気持ちは軽い。
アセスメント
・カオリの傷つきに対して、母親が母性を発揮できなかった原因は自身の育ちの中にあり、そのトラウマを解消できた。
方針
・基本的にはカオリ本人の再来談を前提とする。自律神経系のトレーニングを通じて回復力を高める。
・母親の母性をエンパワーし、カオリの回復を助ける。
記録を書き終わると、私はまだ興奮冷めやらぬ気持ちを鎮めるようにコーヒーを口に運んだ。
だがこのとき私は気づいていなかった。本来自戒すべきなのはもっと別のところにあったのだ。上手くいったと思ったときほど、どこかで見落としているものはないか。落とし穴にはまっていないか。
そう。私はこの時、落とし穴にはまり始めていた。
母という言葉が出てきて私は反射的に、山野さんと呼び方を変えた。
「私の母はいつも私を責める人でした。何をしても怒られて」先ほどの涙が乾いたわけではないだろうが、静かな口調で母親は語り始めた。「私がテストでいい点とって帰ってきても、必ずダメだって。今、『お前に子育てなんてできるわけない』って言われた時、思い出しました。私小学校で学級委員に選ばれたんです。なんか、人気投票で一番になったみたいで、嬉しかったんですよね。それで家に帰って母にそのことを伝えたんです。そうしたら、『あんたに学級委員なんてできるわけない』って言われたんです。それが、何度も私の中で反響して・・・。お前にできるわけない、お前にできるわけないって」静かな語り口調は最初だけだ。すぐに声を震わせて、涙が溢れ頬を伝う。
私はとても切ない気持ちになる。
「そんな風に言われて・・・それが何度も反響してる。山野さん、自分ができるわけないって刷り込まれちゃったんですね」
母親は深く息をつき、視線を床に落とした。感情が溢れてくるのを押し殺しているようだ。
「そうかもしれません。頭ではそんなことない。私は出来るって自分に言い聞かせてたんですよ。母の言うことなんかに負けないって。でも、受験のときも、就職してからも、カオリが生まれてからも。ずっとその反響がやまなくて。カオリの泣き声や前回話した旦那が私を責めるときも、私の頭の中でずっと母が私を責めてるんです」
彼女の声には、長年の苦しみと葛藤がにじんでいた。私は静かに問いかける。
「今も?」
母親は一瞬、考え込むように目を閉じた。彼女の手が膝の上でぎゅっと握りしめられている。
「どうでしょう・・・。そうかもしれません」
「ではお母さんに今、言ってやりましょう。『もう私はあなたに騙されない。私はダメじゃない』って」
母親は困惑した様子で黙り込む。「言ってやりましょう」と言われても、私に何を要求されているのか分からないのだろう。
だから私は強い口調で言う。
「もう私は騙されない」
母親は少し困惑した様子で、小さく私に続いて言う。
「もう・・・私は騙されない」
私は続けた。
「私はダメじゃない」
母親も今度はさっきよりもはっきりついてくる。
「私はダメじゃない」
私は繰り返し、母親もついてくる。
「もう私は騙されない。私はダメじゃない」
「もう私は騙されない。私はダメじゃない」
母親の声が力強くなった。
「もう一度。大きな声で」
「もう私は騙されない。私はダメじゃない」
私は更に続け、母親もついてくる。
「私はもうあなたに支配されない」
「私はもうあなたに支配されない」
「私を支配していいのは私だけだ」
「私を支配していいのは私だけだ」
母親は涙で声を震わせながらも力強く言った。流れる涙も、悲しみの涙ではなく開放の涙へと変化していたはずだ。
母親が十分に決意を固めたことを認識した私は頭を大きくうなずかせて、母親にアイコンタクトを送る。
私のうなずきを母親が受け取ったことを確認した私は、まっさらな記録用のA4用紙を一枚取り出して机の上に置いた。そして、母親の目の前でペンで紙一杯に大きく、「お前にできるわけがない」と書いて、母親の方に向けて見せた。
私の行動にキョトンとしている母親に、私はこう問いかける。
「今、この言葉を見てどう思いますか?」
私の意図が伝わったのだろう。強い口調で返してくれる。
「そんなことない。私はできるって」
母親が十分に自分の意思で返答してくれているのを感じる。
私はその紙を母親の前に更に差し出して言う。
「では、この紙を山野さんご自身の手で丸めてください」
私がそう言うと、母親は私の提案に従って、紙をくしゃくしゃに丸めた。そこにはもう戸惑いは感じられない。
それを確認した私は立ち上がり、薪ストーブの前に立つ。見ると天板の上にある温度計は250度を指している。その天板を開けて言った。
「山野さん、こちらにその紙を持ってきてください。そして、山野さんの手で、この中に投げ入れてください」
炉の中では真っ赤になった薪が熾火の状態で煌々と熱を発している。天板の開いている部分から、その熱がダイレクトに伝わってきて、顔が熱い。
母親はその紙を持ってきて、炉の前に立った。その表情からは決意が感じられる。
「言いたいこと・・・ありますか?」
「・・・」
「山野さんを縛り付けていた亡霊とのお別れです」
私の言葉に後押しされて、母親は言う。
「さようなら。もう二度と私の前に現れないで」
私は大きくうなずき、彼女も私に目を合わせて応える。
と、彼女は丸めた紙を炉の上の空間に持って行き、静かに手を放した。
重力に引かれポトンと炉の中に落ちた丸められた紙に、瞬時に熾火の熱と炎が襲い掛かる。白かった紙が一瞬で炎に包まれ、黒く変色する。その塊は勢いよく炎をあげ、その熱が覗き込んでいる私たちの顔に伝わる。あまり近付くと火傷してしまう。しかし彼女は紙が燃え尽きるのを見届けるように覗き続けている。
天板温度が250度のとき、炉の中は400度を超える熱だ。紙が炎を上げて燃え尽きるのにかかる時間は30秒ほどだろうか。
黒かった塊がやがて灰になり、熾火に灼熱の静寂が再び訪れたとき、私が促したわけではなかったが、彼女はもう一度呟くように言った。
「さようなら」
ギ―、ガタン。
薪ストーブの天板は鉄の塊であり、閉めるとき、重厚な音がする。
その天板を閉めたことで、母親は過去の亡霊と決別し、私とともに「今、ここ」に戻ってきた。
私は切り替えるように声のトーンを上げる。
「じゃ、座りましょうか」
私の促しに応えて、母親も席に戻り、再び向かい合って座る。
「今、山野さんは自由です。カオリちゃんが甘えてきたらどうしますか?」
私の問いに対し、少し考えたように間を取ってから
「どうしましょう。まだちょっとどうしていいかわかりません」
と答えるが、その顔はどこか照れたような、しかし晴れやかに見える。
「ギュって抱きしめてあげてください。そして大好きだよって伝えてあげてください」
しばし間が空く。その状況を母親がイメージする間だ。
「どうでしょう?逃げたくなる?」
私が問いかけると、何かをつかんだような表情で母親は答えた。
「いえ、大丈夫です。やってみます」
こうして母親との2回目のセッションは終わりを迎えた。
母親を見送ると、部屋の中に戻り、先ほど亡霊に別れを告げた後に下火になりつつある薪ストーブに薪を足す。もうあの紙きれは炉の中にはその痕跡すら確認できない。
今回のようなセッションはカウンセラーとしても満足度が高い。カオリの傷つきが可視化されたことで、母親の中で課題が明確になり、更にその課題を克服するための障壁を取り除いたセッションであった。このケース全体の大きな転換点にしていけるといいなと考えつつ、実はこういうセッションをした後は私はいつも自戒することがある。それは自分の力ではないということだ。
思えば、私が攻撃性を出した時、私はカオリの側に立っていた。カオリの側に立って母親を攻撃していたのだ。それに対し母親が無血開城を選んでくれて、自身の課題にしっかりと向き合い取り組んでくれた。これは簡単なことではなかったはずだ。その勇気と決断、そして何よりも母性の力に畏敬の念を感じる。そして、その現場に立ち会わせてもらったことに大きな喜びと深い感謝の気持ちが自分の中にあることを確認する。
そうは言っても、やはり記録を書くときの気持ちは軽い。
アセスメント
・カオリの傷つきに対して、母親が母性を発揮できなかった原因は自身の育ちの中にあり、そのトラウマを解消できた。
方針
・基本的にはカオリ本人の再来談を前提とする。自律神経系のトレーニングを通じて回復力を高める。
・母親の母性をエンパワーし、カオリの回復を助ける。
記録を書き終わると、私はまだ興奮冷めやらぬ気持ちを鎮めるようにコーヒーを口に運んだ。
だがこのとき私は気づいていなかった。本来自戒すべきなのはもっと別のところにあったのだ。上手くいったと思ったときほど、どこかで見落としているものはないか。落とし穴にはまっていないか。
そう。私はこの時、落とし穴にはまり始めていた。