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こころ日誌#6

少しずつ・・・

カオリとの面接はその後も隔週ペースで進められ、やがて年末が過ぎ、新年を迎えた。二人の共有する時間が増えるにつれ、カオリは積極的とは言わないまでも、私との関係において少しずつ言葉を使ったやり取りも増えていっていた。

「クリスマスはお祝いするの?」
「・・・分からないです。・・・去年は・・・ケーキを食べました」
「そうなんだねぇ。どんなケーキを食べたの?」
「普通の・・・ショートケーキです」
「おいしかった?」
「・・・はい」

「冬休みは家族でどこか行ったりするの?」
「・・・分からないです」
「里帰りとかは?」
「・・・お祖母ちゃんの家に行きます」
「そうなんだねぇ。お祖母ちゃん、どこに住んでるの?」
「・・・車で20分くらいのところです」
「そんなに遠くないんだね。じゃ、よく行くのかな?」
「・・・ときどきです」
「楽しみ?」
「・・・」

といった具合だ。
もちろんHRV呼吸やグラウンディングを入れながらの会話であるが、カオリは本当にゆっくり話す。一言一言を頑張って絞り出してくれているのが伝わってくる。
これらの会話をするとき、私の頭の中ではカオリがどんな問題を抱えていて、その回復のためにはどんな手段が考えられるのか、カオリにはどんな強みがあるのかなど、今後の援助を構築するための情報を得ようという考えもあるにはある。このような考え方はカウンセラーとして持っていないといけないものだ。しかし私の場合、それは会話の目的としては半分以下だ。それよりもカオリという人を知り、お互いに共有できる話題を探し、仲良くなりたいという気持ちの方が強い。カオリに安心してもらい、ラポールを築くことがカウンセリングでは何よりも重要だからだ。情報収集にばかり気を取られてしまうと、カオリは何か取り調べでも受けているような気になってしまうだろう。そうすると、こちらに悪気はなくても、カオリは警戒を強めてしまい、結果としてカウンセリングが膠着してしまう可能性が高い。
だから、そんなことを考えるのは、カオリが帰った後、ケースの記録を書いているときの方が多い。まとめを書きながら、その日話したことを思い出す。アセスメントを書きながら、今日の会話にどんな意味を見出せるだろうかと考える。例えば、先ほどの会話では、子どもが好きそうなイベントに対して自身の希望やアイデアが出てこない。子どもは本来、「あれがしたい」「これが欲しい」の塊のような存在だ。そのような主体的な望みが抑圧されているのである。もしかしたら、自分の望みを出すと怒られるか、そうでないまでも無視されるなどの経験から、主体的な希望を持つことはいけないことだとして、気持ちの奥底に封印してしまっているのかもしれない。などと母親の顔を思い浮かべながら想像する。

そんな中でも希望の持てそうなやり取りとして私の気に留まったものが二つあった。

一つ目は私が、「好きな食べ物はなんですか?」と聞いた時だ。
カオリはしばらく考えるように間を取った。
こちらが「そんなに悩まなくても」と思うくらい考えた後に、
「・・・コーヒー牛乳です」と答えた。
食べ物を聞かれて、コーヒー牛乳が出てくるとは思わなかった私は少しびっくりしながらも、
「そうなんだねぇ。コーヒー牛乳美味しいよね」と返したが、それ以上会話は膨らまなかった。
しかし何も出てこないよりも、考えた末に、私の期待した答えとすれ違っていたとしても、カオリが快感情を感じるものを出してくれたことは私とのやり取りの中では大きな進歩であった。

そのようなやり取りを経た後の、もう一つのやり取りは私がカオリが何に興味を示すのかを知りたくて聞いた質問だ。

「何をしているときが一番楽しいですか?」
「・・・絵を描いているとき」
「へ~ どんな絵を描くの?」
「・・・ゲームのキャラとかです」

そういえば、初回の時に母親が、家で絵を描いたりゲームばかりしていると言っていたことが思い出される。私との関係の中で好きなことを聞かれたときに絵のことは言えても、ゲームが出てこなかったのは、ゲームをしているということに罪悪感があるからか。これもよくあることだ。趣味を聞かれて、読書と答えた子がいた。私は読書と言うと、小説のようなものをイメージするのであるが、実は漫画のことであった。やはり自分のことを少しでも良く見せたいという気持ちがあるのだろう。娯楽的な要素の強いものは堕落したものであり、それらを楽しむということは、いけないことをしているという思い込みが垣間見える。
だが、私が希望を見出すのは、カオリが生活の中に楽しみを見いだせる力を持っているという事実だ。心を楽しませることは、一時的にであれ辛い現実から身を守ってくれる。もちろん加減が効かず、特にゲームを楽しむ余り依存的になり、取り上げると暴れだすという状態を手放しでよしとするわけではない。しかしそれでも、楽しみを見いだせる人なら、ゲーム以外にも依存先を作ってあげることで、ゲームへの依存は薄まる可能性が高い。もちろん、そこには治療的な介入も必要ではあるのだが、全く楽しみを見いだせないというよりは私は希望を感じるのだ。
「これはカオリちゃんのリソースだな」面接後の記録を書きながら私はつぶやく。リソースとはエネルギー源のことだ。カオリが絵を描くことを楽しむことができるというのは、彼女を回復へと導くリソースになるかもしれない。

そんなカウンセリングが何回か続いた1月の半ばを過ぎた日のこと。その日はこの地方では年に一回あるかないかの比較的大雪で、テレビでは朝から交通網への影響を警告するニュースを繰り返していた。

私の面接室では冬の寒い日には薪ストーブで暖を採る。この日は午前中はケースが入っていなかった。なので、カオリが来るであろう1時に十分に温まっていることを逆算すると、11時ころには薪をくべて火を入れ始める。パラフィンワックスを使った自作の着火剤の周りに焚きつけ用の細かい木切れを重ね、チャッカマンで火をつける。しばらく見入っていると、着火剤の火は周りの木切れに燃え移る。十分に木切れに火が行きわたると、次に先ほどよりは太めの薪を投入する。徐々に太めの薪を投入して火を大きくしていくのだ。火を育てる作業は、カウンセリングを深める作業にも通じるところがある。大きすぎる薪では十分に温まり、燃え広がる前に鎮火してしまう。一方小さすぎてもすぐに燃え尽きてしまい、火は上手に育ってくれない。丁度いいタイミングで、丁度いい大きさの薪をくべることが、ポイントになってくる。そう。カオリとの面接でカオリの心を育てるために必要な作業だ。
やがて時間になりインターホンが鳴る。

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