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こころ日誌#5

丸投げ

20〷年11月18日 #2 通常面接

インターホンが鳴り、前回同様はハスキーな声で、「山野です。お願いしまーす」と母親が言う。前回より口調が軽めなのは、二回目で、初回に比べて多少なりとも安心感があるからか。私は前回同様「はーい」と優しい口調で返事をし、二人が入室するのを待つ。しかし、相談室のドアが開いて、入ってきたのは私の期待を裏切り、一人だけであった。
「あら?お母さんは?」と聞くも、カオリはおどおどとして黙っている。マスクをしていて口元は分からないが、目だけでも十分にカオリが困っている様子が伝わってくる。それで私は、インターホン越しの母親の軽かった口調の意味を理解した。母親はカオリだけ置いて行ってしまったのだ。面接の約束は60分だ。時間になったら迎えに来るつもりなのだろう。カウンセリングではままあることである。この場合、私は次のように考える。母親はカオリをカウンセラーに丸投げすることで、不登校を治してくれることを期待している。そして自分自身に対しては問題に触れられたくないという拒否の姿勢の表れである。しかし一方で、確かに前回の最後のところで私は、カオリに対して緊張を解く練習をしていきましょうと誘ってしまった。母親が自分はいなくてもいいと判断してしまうのも仕方ないかと反省する。

瞬時にこんなことを考えつつ、頭の中で今日の予定を修正する。これは別に難しいことではない。前半の30分をカオリのトレーニングに当てて、残りの30分を母親への心理教育と、並行面接の必要性を説くことに当てようと考えていたことを、時間いっぱいカオリとの時間に充てられると思えばいい。もちろん私の思惑としては片手落ちになるのであるが、母親がいない以上仕方がない。今日来てくれたカオリとの間でできることをやろうと決めた。
「そっか。今日は一人なんだね。入ってくるの勇気いったでしょ。ありがとうね」と声をかける。カオリに椅子に座るよう促し、「ちょっと待ってね」と言って、キッチンから用意していたウーロン茶とクッキーをお盆に乗せて運んでくる。
「良かったらどうぞ」と机の上にそれらを置き、私も椅子に座る。カオリは出した茶菓子に手を付ける様子はない。緊張の強いクライアントでも特にマスクを着けている場合、それを外して、人前で食べるという行動は相当にハードルが高いことは分かっている。それでもこれらを出すのは私の歓迎の意を伝えるためだ。
「前回ここでしたこと、覚えてますか?」と聞くと、カオリは小さく首を縦に動かす。
「よかったです。ちょっとだけあれ、説明させてください。呼吸って緊張とすごく関係があるのね。呼吸を通してカオリちゃんの緊張しやすい体質を改善できると思うの。そこから今日は更に別のワークもしていって、カオリちゃんがメンタル増し増しになれるようにトレーニングしていきたいなって思ってます。心の筋トレみたいなものだと思ってください。一回ですぐに効果が出るわけじゃないけど、続けていけば必ず強くなっていくからね」
私の説明に対してカオリは積極的に答えるわけではないが、前回の最後にも見せたようにかすかに頭を縦に動かして意思を伝えてくれる。
今回も手を上下させながら、まずは私が呼吸を主導する。10秒呼吸法だ。しばらくして、今度は役割を交代し、カオリの呼吸に合わせて私も呼吸する。カオリは前回よりもスムーズに手を動かせていて、少しリラックスしているように見えた。
「いい感じです。大分呼吸に意識が行ってる感覚に慣れてきたかな」と声をかける。実際、カオリは一生懸命呼吸に取り組んでくれているのが分かる。私は、カオリの言われたことに素直に従うまじめな姿勢を感じ、しかしそれ故に普段の生活で苦しんでいるのだろうことを切なく思う。
そんなことを思いながら次の指示を出す。
「それではちょっと手の上げ下げを止めます。今からカオリちゃん、スリッパを脱いで、靴下で絨毯の上に足を置いてもらっていいかな」と聞き、私もスリッパを脱いで、足を絨毯に置いた。カオリはそれを見て、同じようにスリッパを脱ぐ。「そうしたら、足の裏に意識を向けてみてください。足の裏は冷たいかな?あったかいかな?」と問いかける。この質問はカオリの返事を期待してしたものではない。ただ、そう問いかけることで足の裏の感覚にカオリの意識を向けさせることが目的だった。しかし、私の意に反してカオリは「ひんやりします」と小さな声で答えてくれた。私の「おっ!」と少し驚いた表情はカオリに伝わっただろうか。と言うのもそれは私が初めて聞いたカオリの声だったからだ。母親のハスキーな声とは少し違う、どちらかと言うと高めの印象を受ける声だ。
「教えてくれてありがとう。そしたら、そのひんやりする感覚、ちょっとよく味わってみてください」と伝えた。
これはグラウンディングと呼ばれるテクニックのひとつだ。地に足がついている感覚に浸らせることによって安心感を増す狙いがある。
リラックスを促すために、私はそれまでよりも少し低めの声で、ゆっくりとしたスピードで言う。
「足の裏が床に触れている感覚、床が足の裏に触れている感覚を感じていきましょう」「ゆったりとした呼吸をしながら、足が地面にちゃんとくっついているなぁって感覚を味わってください」と促す。
しばらくその姿勢のまま二人の間に沈黙が流れる。私もHRV呼吸に努める。対面している人の心拍リズムが安定していればいるほど、相手にもリラックス効果が期待できるからだ。「ひんやりした感じは変わりないですか?」と聞くと相変わらず小さな声ではあるが「はい」と返事をしてくれる。
「いいですね、いいですね。それでは次にあなたの体にかかっている重力を感じていきましょう。今座っている椅子の座面がお尻を支えている、背もたれが背中を支えている感覚もよっく味わっていきましょう。少しお尻が痛い感覚があるかもしません。重力がカオリちゃんを引っ張っている証拠です。よぉく感じていきましょう」
「重力を感じていると、もしかしたら今の姿勢を維持するために、背中の筋肉、首の筋肉、肩の筋肉、お腹の筋肉に力が入っているのに気づくかもしれません。それらもよく感じてください」
このようにして普段は気に留めない体の感覚に意識を向けていく。カオリが今まで無視してきたであろう体の声に耳を傾けるための準備を整える上で、非常に大切なプロセスだ。
ゆっくりと時間をかけながら、カオリの体に対する感覚を研ぎ澄ましていく。
更に「ゆったりと呼吸をしながら、息を吸うときに胸が膨らんで、吐くときにしぼむのも感じていきましょう」と伝えて胸式呼吸を意識させる。
十分にグラウンディングした後、私は更に声のトーンを落とし、慎重な口調で聞いてみた。
「あの、もしよかったら聞かせてほしんだけど、カオリちゃんは今どんなことが一番心配なのかな?」
するとカオリは少し間を置いた後、一生懸命絞り出すように「みんなが怖い」と言葉にしてくれた。
小さな声ではあったがハッキリと自分で主訴を伝えてくれたことを私は嬉しく思う。カオリのつかえていた喉が一瞬でも通った瞬間のように感じたのだ。
「よく気持ちを聞かせてくれたね。勇気を出して教えてくれてありがとう」私は心をこめて労った。
「カオリちゃん、周りの人が怖いなって気持ちになっちゃうんだね。そんな中で今まで頑張ってきたんだね。とっても偉いね。カオリちゃん、その怖い気持ち、ちゃんと克服できるから大丈夫だよ。カオリちゃん、僕から見ると前回よりもとっても勇敢になってるもん。ここで僕とのカウンセリングを続けていけば、もっともっと勇敢になれると思うんだ」
カオリは私の言葉に積極的な反応を示すことはなかったが、私は、カオリの目元が最初に比べて幾分和らいでいるのを感じた。

母の迎え

やがてインターホンが鳴る。母親が迎えに来たのだ。
私はインターホンで返事をして母親を招き入れる。母親は入って来るやカオリに「どうだった?」と語り掛ける。その口調はカオリに「連れてきてあげてるんだからちゃんと成果を出しなさいよ」と言っているかのようだ。私は、私との関係で和らいできたカオリの目元の感じが、また、こわばった無表情な様子に戻っていることに対して、やるせなさを感じた。
それでも、「今日は前回に引き続きカオリちゃんと仲良くなるためのワークをしました。とっても頑張ってくれましたよ」と伝えるに留めた。
本来は母親との面接も想定していたわけだが、私はこのとき、そのことには敢えて触れなかった。母親も「頑張れたなら良かったです」と、自分は送迎に徹するという素振りで私との関係を固定化させようとしているように見えた。

二人を送り出した後、出しっぱなしになっていた手を付けられていないウーロン茶とクッキーを片付ける。ウーロン茶は流しに廃棄しグラスを洗う。個包装のクッキーはキッチンの棚にあるお菓子ケースに一旦は戻す。しかし記録を書く前にコーヒーメーカーのポットからコーヒーをカップに注ぐと、私は誘惑に負け、結局今しまったばかりのクッキーを取り出し、包みを破る。そしてクッキーをひとかじりするとパソコンをスリープ状態から起こし、いつものように記録を書き始めた。

要約
呼吸合わせと、グラウンディングをした。カオリが声を出してくれ、他者に対する恐怖心を伝えてくれた。
アセスメント
・カオリの緊張は相変わらず強いが、それでも関りを通じて徐々に心を開きつつある。
・社交場面での緊張や恐怖心が強く、その背景には自己否定感がありそう。
・母親は自分の問題には触れてほしくない。不登校はカウンセリングで治してもらうという考え
方針
・カオリ本人とは引き続き自律神経調整トレーニングを行い、レジリエンスを高めるとともに、少しずつ気持ちを引き出していく。
・母親については今後の様子次第だが、取り敢えず静観する。